ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

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アドラー教について(7)

 
  アドラー教について(7)
 
  ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン)
https://www.adlersalon.com/entry/2018/09/17/%E5%AE%8C%E7%92%A7%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AA%E3%82%93%E3%81%A6%E6%AD%A2%E3%82%81%E3%81%A6%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%88%EF%BC%81
   2018-09-17  
  完璧主義なんて止めてしまえ!
 
 
アドラー心理学として、アドラーの顔まで出して、言っているのは、学問ではなく、説教に他ならないので、また、説教者の言を読んでみた印象で、アドラー教と呼んでいます。
 
実践的に難しいという問題を、説明しようとして、人それぞれ、という言葉が空回りして、霧散してゆくような話になっています。
 

アドラー心理学サロンです。
今回の記事は、物事を判断する際に、白か黒か、100点満点か0点かで極端な結論を出そうとしてしまう真面目な方へ、柔軟な考え方ができるようなアドバイスとなるよう心掛けました。
一例として、「課題の分離」の捉え方が難しいというご相談をアドラー心理学サロンでは頻繁に頂きます。

 
課題の分離は難しいと思います。現実には、主観において、分離することは出来ないと思います。課題の分離という概念にも疑問がありますが、課題の分離という言葉を書いて、読者がどう受け取るかを考えると、やはり、自己中の方向へ向かう必然がありそうです。
 
自分の課題の中に他者が含まれている場合があります。他者にどう接したらいいか、など。その時は、他者のこと、他者がどう思うかなど、考えるのは、自分の課題なのです。つまり、それほど変わりはなく、それほど分離することによっても楽にはならないと思います。
 
他者のために働いている場合、他者の気持ちや意見を、それはあなたの課題、人は人、などと言って、無視することはできないでしょう。
 
他者の課題の中に自分が含まれている場合があり、自分次第で、他者の評価が変わる場合、気にしなくていいのでしょうか。他者を知り、他者が自分をどう思っているかを知る、そのための情報を得る、そういう自分の課題に派生してくることが複雑に絡み合ってくるでしょう。
 
必要なのは、理路の実践において分離することではなく、自分が思い煩わないことです。それ以上に汎化して、命題または説教にしてはいけないと思います。
 
自分は、他者の課題と思って分離しても、他者は自分がやってくれると思っていることもあるでしょうし、自分の態度いかんで変わってくる要素が、他者の課題にの中に含まれ得るし、どちらの課題であるかが、変化することもあるでしょう。
 
つまり、割り切れない要素でいっぱいになってくる人間関係を、自分の、他者のと、自分の側だけで割り切ることは、様々な影響を与えます。その影響によって、あるいは、気づかぬうちに、ずいぶん嫌われて、取り返しがつかなくなっているということもありうるのです。
 
それを嫌われる勇気をもって無視するのでしょうか。そこに生じるのは、自己中心以外のものではありません。相手は、勇気をもって無視されるわけではないからです。下手をすると、怨念を相手に残すことにもなりかねません。
 
少なくとも、歯切れ良さそうな断定で言うような、すっきりしたものではなくなる可能性が大であり、机上の説教とは異なってくるのです。
 
それを、現実において、課題の分離として、行なおうとするなら、あるいは、行なったつもりになるなら、その分離による言動が、自他が相互に作用しあうのと同様に、相手の課題を変え、それが自分の課題を変えるというような、相互作用があるわけですから、軽々に分離など出来るものではありません。
 
それゆえに、自他の課題の分離を心がけることが、自己中の自分勝手に、また、対人関係において、無頓着に、鈍麻に、変わってゆく可能性の必然があります。
 
つまり、実践的には、自己中になりやすいというのは、アドラー教が、そして、その説教者が、教えを言葉で割り切ってしまったことで、その必然を内在しているわけです。
 

この「課題の分離」を極端に捉えてしまい、他者の課題は他者でのみ関与する問題であるとして、他者が困っていても知らん顔していて辛くなってしまったというお話もあります。

 
極端というより、問題を単純化して、単純な場合に成り立つことをもって、汎化、つまり一般化して、気軽に、言い切っているせいでもあるでしょう。
 
それにしても、説教者は、反省する気は全くないようです。相談者が失敗するのは、自分が悪いからとかは考えないのでしょうか。自分のせいにせず、アドラー教のせいにもできないから、盛んに、実践者のせいにして、また、教えようとしてきます。それで解決するとは思えません。
 

そもそも、アドラー心理学では、放任主義は決して推奨しておらず、むしろ他者への貢献を推奨しております。

 
放任と放置は違います。放任と無責任も違います。言葉選びの詭弁があるようです。
 
説教して、あと無責任に放置しているのは説教者です。言うと気持ちよいが、きちんと実践するのは難しいというのが、アドラー教だと思います。
 

つまり、他者の為に他者がやろうとしていることが、やりやすい環境をそれとなく整備してあげたり、他者が困っていて助けを求める時には、いつでも援助できる準備や姿勢を持つことが推奨されております。

 
他者のことも考えていると言いたいようです。実践においては、他者を無視できませんから、実践者は、考え、それゆえに、余裕がなくなり、考えが偏るか、無視した結果に困ってしまうか、どちらかに陥るだろうと思います。しかも、そのことを自覚しにくいのが、アドラー教なのです。その見本は、説教者であるかもしれません。
 

つまり、「課題の分離」とは、ドライで自分と他人を完全に割り切って、あなたの問題なんて知らないよ!というものではありません。

 
さんざん、歯切れよく、ドライに言ってきたのは説教者です。矛盾がないように説明しようとして「あなたの問題なんて知らないよ!というものではありません」と、また、同じようなことを言ってきます。言葉だけ整えても、どうにもなりません。
 

心を病みやすい方は、白黒ハッキリつけようとしたり、100点でないと無意味だと考えたりする真面目な方が非常に多くいらっしゃいます。
たとえば、アドラー心理学の考えを学び、アドラーの教えと少しでも異なることをすれば、「自分は0点でなんてダメ人間なのだろう…」と考えられる方が多いのです。

 
病気のせいにしてはいけません。そういう人が「非常に多い」ということは、一般に教えるうえで、教える人か、教え方か、でなければ、教えそのものに、問題があるということです。
 

そうした考えをしてしまっていると、完璧主義にもなりやすく、何かを始める際に準備ばかりしてなかなか行動に移せない状態にもなりやすいのです。
そうした方は、自分に合わなくて精神的にキツい職場で働いているが、転職をするのに今のスキルのままでは満足の行く会社に入れるはずがない!と考えて資格の勉強を続けてしまいます。
そして、そのまま合わない職場で働き続けた挙句にうつ病を患うといったことも非常に多く散見されます。
こうして白か黒か、100点か0点かをハッキリさせたがる性格では、生きるのがとても息苦しくなってしまいます。

 
そうして、完璧を目指す、出世するために努力、ということを、説教者が反省せず、完璧主義ではないと、森田神経質治療のように、あるいは、言い訳のように、実践者のほうばかりに原因を求めるならば、それこそ、アドラー教が原因で鬱になる人や、気づきについて鈍化する人がが出てくるでしょう。
 
良い教えは、言葉でも、実践でも、窮屈や面倒を感じることはなく、解放感を伴います。
 
ですから、アドラー教は、これだけで幸せになれるかのように教えていますが、鵜呑みにして信じて、しがみつくのは、とても危険です。自覚を伴いにくいので、厄介でもあります。考え方としても、総合的に考えるべきで、決して、これだけで絶対などと思わないことが肝心です。
 

どんな人間にも、物事にも、多面性があります。
それは白いところもあれば、黒いところもあります。
その中間である灰色を含めて、様々な配色で出来上がっているのです。
100点のところもあれば、0点のところもあります。
その中間の50点なところもあり、バラバラな点数で出来上がっているのです。

 
それを言うのは、どういう目的でしょうか。人間も物事もいろいろと当たり前のことを言ってるだけでしょう。自分の出来ることを?・・しているはずです。100%を目指さず・・目指しているのでしょうか、そうでもないような気がします。それくらい、アドラー教は、特にその説教は、こみいった要素に対応していない原則に過ぎないものです。それを、総て解決するかのように教えるのは危険なのです。
 

信号無視はしてはいけないと、法律でも世間でも言われておりますが、車が来る気配が無ければ信号無視をしてしまう方もいることでしょう。

 
何を言ってるんでしょう。
 
説教者は、アドラー心理学を消化していないのではないかと思えてきます。
 

その信号無視への捉え方だってその人の主観で配色も点数も異なるのです。
おまけに、白か黒か、何点かなんてあなたの頭で作り出された物差しであり、主観的なものなのです。

 
主観の曖昧さですが、また、当たり前のことを言ってるに過ぎません。それと、自分次第の主観的なものでしょうか。信号は違いますよ。法制度も違うでしょう。
 
白か黒かというのは自己採点の100%を目指すことだと思いますが、そういう強迫性ということならば、強迫性に向かってしまう教えではないことの詳細を説明するか、教えの教え方を疑うべきでしょう。説教者には、反省力がないと思います。これは自己正当化です。
 

一般的に言われる客観的な物差しなんて、法律やテストの点数くらいしか存在しないのです。
法律やテストも、国や学校がそれぞれ作り出したものであり、万人に共通ではないのです。
つまり、白か黒か、100点か0点かにあまりこだわっても、単に疲れるだけなのです。
あなたにとっての「灰色」や、「50点」が相手にとっての「白」であり、「100点」かもしれないのです。

 
相手にとって云々と、他者に囚われているのは、誰でしょう。
 
こういうことを書いて何になるでしょう。主観の判断の話をしていたのに、国や学校が作ったもので、人が動く社会構造がある現実で、指標に、こだわるなと言うのでしょうか。
 

こうした尺度は、相手によってや、状況によっても容易に変動するのです。
ありのまま、その人や物事を受け入れてしまいましょう。

 
とても、あいまいな、ありのまま、という言葉で終わっています。何を言い得たつもりなのでしょうか。人間いろいろ、主観いろいろ、これで解決するとは思えません。
 
自分のありのままを知ることに、今度は、エネルギーを使えと言いたいのでしょうか。
それとも、欲望の、気持ちの、その時その時の気ままな意志の、ありのままでしょうか。
自分で考えたものなら、自分でどこまで考えた、ありのままなのでしょう。
 
ありのままで、分かったような気分になっても、
正体不明の、ありのまま、によって、具体性を離れ、話は、霧散してゆきます。
 
記事タイトルが、「完璧主義なんて止めてしまえ!」ということですが、気安く幸福を約束しないでください。また、強い断定で語ることも出来ないはずです。アドラー教というのは、本当に実践可能なのでしょうか。自己中でないことも、不完全でいいことも、説明できていません。
 
 
(2019年11月22日)
 
 
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