ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

欺く者

 
  欺く者
 
   自分に自信が持てて、元気になる考え方
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12547780606.html
   楽山日記(a)2019-11-22
 
 
楽山は、他者の記事を引用して、以下のように、とても短い記事を書いて、べた褒めしています。わざとらしいという自覚がないのでしょう。
 
(楽山)

このページは、上馬キリスト教会のツイッターで知ったけど、読んでるだけでなんか元気になれる。もりもり力が湧いてくる。自分に自信が持てて、他の人のことも大切にしたくなる。素敵なお話だ。

 
「元気になれる」「もりもり力が湧いてくる」「自信が持てて」「他人のことも大切にしたくなる」などと言っていますが、楽山が、どういう言動をしてきたか、そしてどういう人かを考えれば、これが、自己正当化のための芝居の台詞だということが分かるのです。
 
クリスチャンな日々(1)MARO
https://www.christianpress.jp/maro-1/
 
以下、上記サイトからの引用と、私の意見です。
 

第1回 「ふさわしい」必要なんてないんです。
主の御名をあがめます。
皆様、ごきげんいかがでしょうか。はじめまして。上馬キリスト教会の教会員、MARO(マロ)と申します。ツイッターをやっていらっしゃる方でしたら、「上馬キリスト教会のまじめ担当」と言ったほうが話が早いかもしれません。
「教会員」というのは、クリスチャンではない方にはなじみのない言葉かもしれませんが、簡単に言えば「平信徒」ということです。牧師でも神父でも伝道師でもない、単なる平信徒にすぎない僕が、神様の導きを受けまして、この「クリスチャン・プレス」で連載をさせていただくことになりました。不才ながら、がんばらせていただこうと思います。よろしくお願いいたします。


さて、つい上の文章で「不才ながら」なんて言葉を使ってしまいましたが、これは実はキリスト教的には必ずしも適切な表現ではありません。なぜならキリスト教では、「神様が何かの仕事や使命を与えてくださるときは、必ずそれに必要な能力も与えてくださるのだから心配することはない」と考えるからです。ですから「不才ながら」というのは、「神様が十分に能力を与えてくれないかもしれませんが」という意味にもなってしまい、あまり適切ではないんです。

 
「不才ながら」が本心で言っているか、あるいは、社交の世辞の謙遜に過ぎないかによるでしょう。前者なら真実の告白として尊いことです。後者なら偽善につながるかもしれません。
 
どちらであるかは、それは、明らかなこともあり、分かりにくいこともあるでしょう。
 
私が批判している楽山とシャロームの易坊類は、今回もそうですが、実に、わざとらしい謙譲の言葉を使います。ああいうのを見ると、言葉への信頼はどんどん薄らいでゆくのです。
 
少なくとも、神が能力も与えてくださるからといって、必ずしも、「不才ながら」と言うのが適切ではないということにはならないと思います。
 
神が与えるからと言って、神が、その人に必要な能力をどう見積もっておられるかは、人間には分からないことです。神に対して人が適切かどうかを、人が決めることのほうが、適切ではないかもしれません。
 
神は、人の正誤を見て、正しいから、信仰の義を与えるというのではなく、神ご自身に対して、人が、ただ本当に正直であるかどうかを見ておられるような気がします。本心からであるならば、言ってはならないことというのは、そんなにないと考えてよいと思います。
 
楽山は、今までの経過から、本心で、遜(へりくだ)っているとは、到底、思えません。また嘘を吐いていると思います。楽山には、今までの経過を見れば、弁明の余地はないのです。
 
ふさわしくなくてもいい、ということを、楽山が、自分は、ふさわしくないからと、喜んでいるならば、とても、変な話であります。
 
楽山のように、宗教と信仰を、心で受け取らず、辻褄だけを考えて、けなして、いちゃもんをつけて、嘘や世辞の優しそうな言葉で糊塗するような、いつも、神が最も嫌うようなことをしている者は、いつの時代も、信仰者を迫害する側におり、信仰の敵となってきました。
 

とはいえ、それでもやっぱり僕も人間ですから、仕事をするにあたり不安や心配もあるんです。「牧師でも何でもない自分が本当にこの仕事にふさわしいのだろうか。僕にそんな能力なんてあるのだろうか」と、いくら神様を信じていたって、そんなことを思ってしまうんです。この連載のほかにも、ありがたいことに本を書かせていただいたり、テレビやラジオでお話をさせていただいたり、さまざまなお仕事をいただくのですが、いつだってそんな不安はつきまといます。
近頃そんなときはいつも自分にこう言い聞かせます。「ふさわしい必要なんてない!!」。さらにもう少し踏み込んで、「ふさわしいかどうかを決めるのは神様であって僕ではない!!」と。そうすると心がすーっとラクになるんです。

 
相応しいかどうかを神が決めることを、楽山は、信仰がないので、知りません。そして、楽山の自分飾りの嘘偽りは、心の中まで、総て、神に見抜かれているのです。
 
楽山が、批判されて、返せず、かえって、文句ばかりを記事に書いていることが、そして、この記事によって、さらに、自己正当化をしていることが、自己愛と訂正不能と無反省と学習不能を表しているのです。
 

旧約聖書に登場する「海割り」で有名なモーセさんだって、神様からイスラエルの指導者に任命されたときは、「私はふさわしくありません」と言い、神様から「いいからお前がやれ」と怒られました。そのほかにも聖書には似たようなシーンがたくさんあります。聖書で偉業をなしとげた人物の中で、はじめから「俺はこの偉業にふさわしい男だ!」なんて自信満々だった人なんて一人もいないんです。みんな、「私なんかでよろしいんですか」と神様に問い、神様から「そうだ、お前だ!」と言われて、不安な中で一歩を踏み出し、神様の力をいただきつつ偉業を成し遂げたんです。

 
ふさわしくない人という自覚が本当にある人は、人間としての自分を見ています。
 
楽山は、自覚ではなく、受けねらいで、謙虚を装います。
 
人は騙されることがあっても、神には、偽りの心で装うことは、通用しません。
 

そもそもクリスチャンであること自体、「自分はふさわしくない」と思ってしまう方がたくさんいます。クリスチャンであるために、「清く正しく」、「人に親切で」、「怒らず」、「下品な言葉を言わず」、「まじめで」などなどなど、たくさんの「ふさわしい条件」を自分で設定してしまって、それで自分を苦しめたり、教会から遠のいてしまったりする方がたくさんいます。ノンクリスチャンの方でも、おなじような条件を自分に課してしまって、「自分なんかが教会に行ってはいけない」とか「聖書なんて畏(おそ)れ多い」とか思ってしまう方もたくさんいます。

 
通念的に清廉潔白に見える人ではなく、恐れを知っている人が、即ち、神ゆえに、自分の小ささを知っている人が、神の民として選ばれるということでしょう。ここは、ふさわしくない自覚を持つ人が、ふさわしい、という一種の逆説になっています。
 
楽山は、批判されると、反省しないだけでなく、また、弁明や反論でもなく、批判者をおとしめてくるだけの人です。弱さを、装って、世辞の曖昧ボンヤリ言語で受け容れられることを求めてきます、というより、だまそうとしているのです。
 
弱さの自覚は救われますが、弱さの芝居なら偽善です。
 

でもね、いいんです。ふさわしくなくっていいんです。むしろ、聖書や教会は「ふさわしくない人」にこそ開かれているものなんです。イエス様は「罪深い人」から先に救ったんですから、「ふさわしくない人」こそイエス様は優先的に救おうとしているんです。

 
嘘で自分を高めようとする者は、神を拠り所としておらず、救いを拒んでいるということです。
楽山は、罪深さの自覚を表したことがありません。
 
救われた人は、みな、神の前に、罪深いけれど、何よりも、正直でした。
 
信仰は、いかなる時も隠し事をしないでいい御方を知ることです。罪の告白を憐れみをもって聞かれる御方だからです。その恵みを知った人は、少なくとも、神の前で、故意に嘘を吐くことはしなくなります。ゆえに、また、人の前でも、だますような白々しい嘘は吐かなくなるのです。
 
それが信仰の節操であり、行為義認でなくても、信仰義認が行為に影響を及ぼすということです。
 
楽山とシャロームには、正直さがありません。楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても救われるから気にしなくていい、という、とんでもない妄想教理の味方をしました。ふさわしくないのでもなく、ふさわしいのでもなく、楽山は、キリスト信仰とは真逆のシャロームの妄想による邪教に賛同したのです。
 
シャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」が、キリスト教およびキリスト信仰に反していて、それこそ真逆であること、および、この信条で生きてゆくなら社会悪になる自己中心であること、つまり、成り立たないことは、一般教養としての常識があれば、分かるはずです。
 
楽山は、それが分からず、シャロームの味方をしたのだから、その時点で、常識がない、キリスト教を知らない、ということは、既に、確定しているわけです。それを、訂正せずに、後で何を加えても、いくら芝居をしても、無駄なのです。楽山は、シャロームの仲間、キリストを殺す側の者、つまり、反キリストです。
 
神の前に、偽りの言葉を使ったり芝居をする者は、そのことで、既に、救いを拒んでいるのです。
 

キリスト教や聖書に限らず、仕事でも学業でも恋愛でも何でも、「自分はふさわしくない」と思って苦しんでいる方はいませんか。そんな方は、「ふさわしいかどうか」を自分で判断するのを一度やめてみるのはいかがでしょう。その判断は神様にお任せすることにしてみませんか。それで心がすーっとラクになるかもしれません。一歩を踏み出す勇気が生まれるかもしれません。「ふさわしくないからこそ選ぶ」ということも神様はよくなさるお方ですから。

 
ふさわしくないという自覚は尊いものです。
 
しかし、好き放題に偽りと欺瞞に生きてきて、ふさわしくなくても信仰者として生きられるから、しめた!と引用して、気軽に嘘と詭弁でキリスト信仰をもてあそんでいるのが、楽山です。神は、既に、総てをご存知です。
 

そんなわけで、今日から隔週金曜日に「ふさわしくない」MAROが皆様のお相手をさせていただきます。どうかよろしくお願いいたします。
主にありて。MAROでした。

 
楽山が、正直な告白をするなら、信仰について、心にもないことを言った、ということを認めることから始めなければいけないのです。
 
楽山とシャロームに、引用元も、読者も、誰も、騙されることのないように、
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 
 
(2019年11月24日、同日一部修正)
 
 
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