ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

被害的・他罰的(2)

 
  被害的・他罰的(2)
 
   st、shalom 問題を振り返る(追記、加筆修正アリ)
   2019-11-21
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12547467881.html
   楽山日記(a)より抜粋
 
 
被害者根性の見苦しい言い訳を追記している楽山です。
 

*心配無用(追記 2019.11.22)
こんな心配をしてたとは思わなかった。本気でこんなことを考えてるなら気の毒だ。

シャロームと楽山のような易坊類は、今後、非合法な手段を考えるかもしれません。そうなると、カルト組織であるなら、私は無力なので、姿を消してしまうのかな・・とか考えています。今回の記事は長かったけど、一応、ここまでとします。
http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4202269.html
 」
これについては、私はカルト組織など持たないし、誰かを消そうという考えもありませんと明確に否定しておく。stさんが身近にいる全然関係ない人のことを、こいつが楽山に違いないと思い込んで、やられる前にやれとばかりに先制攻撃を仕掛けるようなことがあってはならないと思うので…。

 
私の危惧は、このまま、楽山やシャロームが、うっかり、受け入れられて、お仲間の数が増えていったら、という話をも含んでいます。大きくなって事件を起こしてからでは遅い、ということが、当事者である楽山やシャロームには不都合なので、先制攻撃などと言っていますが、楽山とシャロームは、既に長きにわたって、良心を攻撃しているという見方なのです。
 
楽山とシャロームが、何も書かなかったら、私の批判もなかったのだから、楽山が、こちらを先制攻撃と言うのは、前に書いたように、被害的・他罰的にしか考えない本性の表れです。
 
批判は、本質的に、いつも、受けて書くことです。先制攻撃はあり得ません。
 
楽山は、先制攻撃として、おかしな説教を書いてきて、批判されると、保身のために、被害者気取りで、逆に、他罰的な体質から、いつも、いちゃもんをつけてくるのです。
 

*テーマ(追記 2019.11.22)
これは、shalomさんのコメントだけど、読書感想文を批判するなら、当該書籍を読んでからにすべきだろうというのは正論と思う。

 
これは、楽山とシャロームの、人の弱みにつけ込む商法と似たところです。正直に言うと損をする、という世界に生きているからでしょう。私は、楽山の書いたものの質(たち)の悪さを批判しています。
 
引用書籍を読めなどと言われて、そうすれば限りなくなるので、無限を追うことも無限に深入りすることもしないのです。批判されたことに答えられないものだから、これも、楽山・シャロームの、鼻で笑っているような、質の悪さでしょう。
 
(シャロームからの引用)
>>
16. st5402さん おはようございます2019年11月18日 11:42
 [省略]
あなたは楽山さんが読まれた本の読書感想文なのに、
あなたはその本を読まずに楽山さんの読書感想文の内容について
批判し、人格まで中傷しているのではありませんか。
[省略]
http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4202269.html
<<
(引用終わり)

あと、楽山日記の主要テーマには、幸福の科学(HS)教義の相対化及び無効化によるマイコン解除もあるので、その手の記事は、HS教義の知識があった方が分かりやすいとは言える。
HSは自分らは自由な団体だと誇るけど、実際にはタブーがすごく多い。あの映画は地獄的だからダメ、あの著者の本は波動が悪いからダメ、あの思想は間違いだ…云々。このタブーは、退会と同時にすっぱり忘れられればいいけど、なかなかそうはいかないところがつらいところだ。だから私は、そこのところを狙って書いている。
楽山日記は、一見HSとは無関係な映画、小説、ドラマなどを多く取り上げるお気楽ブログに見えることもあるかもしれなけれども、ここで取り上げるエンタメ作品の多くは、自分が見て、味わって、HSのタブーを乗り越えるのに役立ったもの、または役立つと見込まれるものだ。思想、宗教がらみの話題であれば、その傾向はさらに強まる。だから楽山日記で取り上げた作品をなぞっていけば、自然とHS教義を相対化、無効化して、マイコン解除に至るようになってる。誰もがそうなるかは断言できぬが、少なくとも私はそうだったし、私と似た個性、状況にある人もたぶんそうなるだろう。

 
HS批判だからという言い訳をしている。実際には、お気楽ブログの記事に当てつけを含ませている以上には、伝わってこないのだから、空疎な自分可愛さコメントになっています。
 

次に、もう少し具体的な話をすると、HSの根幹には、大川隆法に対する信仰がある。大川隆法は人にはできないことができるから、人を超えた存在であり、仏陀であり、大救世主である、したがって、一般信者には、人を超えた大川隆法の心を理解できるわけもなく、ただひたすらに信じてついてゆかねばならぬということになっている。ざっくり言えば、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムという信仰スタイルだ。それだから遠藤周作のイエスは無力でみじめな存在だったという考え方は、HSの信仰観とは相容れぬものであり、否定される。

 
ここで、また、イエスは無力でみじめ、という嫌がらせを含ませている。大川隆法というカルト教祖と対比させるのは、的外れも甚だしい。
 

でも遠藤周作の「イエスの生涯」などを読めば、氏は奇跡を信じない現代人でも、イエスを神と信じることができる道を示しているのが分かる。イエスは奇跡は起こせず、無力だった、病者と交われば病気をうつされ死ぬかもしれなかった、被差別者と交われば自身も差別されるかもしれなかった、しかしそれでも彼らに寄り添わないではいられなかった、そうまでして寄り添った彼らに裏切られても、恨み言一つ言わなかった、これこそが愛ではなかろうか、神は愛であるとすれば、そこに神がおられたということではないかと。

 
愛とは正反対の自らを反省せずに、イエスを神と信じることができる道、これこそが愛、などと言っても、楽山の、どこまでも一人前の批評家を気取っている醜さが表れているだけです。蹴とばした後、なでなでしているサディストは、気障(きざ)だが、本当の愛を知らない。
 

こんなふうに遠藤周作の考え方は、イエスは奇跡をおこない、権威ある者として説法できたから神だというのでなく、より弱く、みじめで、非力で、無力であればあるほどに、身を捨てて隣人を愛し続けた精神性の尊さは増し、それゆえにイエスは神としか考えられないという信仰になっていて、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムなどを克服しており、大川隆法崇拝という偶像崇拝から脱却するきっかけになりえる思想になっている。

 
エスを、弱く、みじめ、非力、無力、というところにおとしめて、精神性の尊さと言う、あざとさは、一段高いところから見下ろして、救世主をも、浅薄な己の辻褄合わせの対象とするところに明らかですが、楽山が、身の程も弁えず思い上がって、その落差をもって、ナルシシズム破局を招いてゆく必然を表すものです。
 
楽山が、物わかりの良さを気取って言っているのは、既に多くの人が言った後の、足下のちりを拾って並べたものばかりです。しかも、それを、認可するのは自分だとばかり、気持ちの悪いボンヤリ言語で書いてくるから、ナルシシストの偽善が際立つことになります。
 

中村元原始仏教もこれと同じ構図だ。HSでは、大川隆法の過去世は仏陀であり、偉大な神通力を持っていて、人を超えた存在だったとしている。だから仏陀の神通力や、奇跡話やらは、後世の神格化の過程で生まれた神話伝説であって、現実の仏陀はそうではなく、その人格的な高貴さによって尊崇されたのだろうという中村元は批判されることになる。
でも私に言わせれば、中村元の考え方は、遠藤周作の考え方と同様に、超人信仰、奇跡信仰、グルイズムなどの偶像崇拝をしりぞけ、HSのマイコン解除に益ありということになる。
先の遠藤周作中村元についての記事には、以上のような背景があるし、こういうHSの知識があれば、よりその意図が分かると思う。もっともこの辺りの事情は、HSとは無関係な人は知る由もなかろうし、そんなことは気にせず読んでもらって構わないけど、一応知っとく方が深く読めるというのは言える。

 
キリストのみならず、仏陀をも、無力にしたい楽山の企みは、楽山の、自身を高める意図から逃れられない醜悪な自我の執拗な執着に他なりません。楽山に、読書の手ほどきを受ける必要のある人は、恐らく、一人もいないでしょう。自尊の過剰から気取るだけでは何も生まれないということを、楽山という実例で学ぶということ以外、何も意味はないのです。
 
 
前の記事で書いたことですが、
 
シャロームの「罪はく改めなくても赦されるから気にしなくていい」が、キリスト教およびキリスト信仰に反していて、それこそ真逆であること、および、この信条で生きてゆくなら社会悪になる自己中心であること、つまり、成り立たないことは、一般教養としての知識があれば、分かるはずです。
 
楽山は、それが分からず、シャロームのゴタクですっきり解決したなどと言い、シャロームの味方をしたのだから、その時点で、常識がない、キリスト教を知らない、ということは、既に、確定しているわけです。それを、訂正せずに、後で何を加えても、いくら芝居をしても、無駄なのです。楽山は、シャロームの仲間、キリストを殺す側の者、つまり、反キリストです。
 
楽山は、前に、神がいるなら、何故、悪が生まれるのか、という、いちゃもんで、キリスト信仰を、けなしました。まことに、神は、何故、楽山やシャロームのような偽善者が生まれるのを黙認したのでしょう。神は、何故、彼らが、好きなように嘘や詭弁を言い、策略をもって信仰者や求道者をおとしめるのを、裁かず、見ておられるのでしょう。
 
人として受け取れることには無関心でありながら、自らの知恵で神を測れると思い上がる者が、そのような悪と偽善を行うのでしょう。
 
御心は測りがたいということです。ただ、神は、いつまでも、黙って見ておられるわけではないでしょう。信仰者は、ただ、できることをするのみであります。
 
 
(恐らく楽山の追記部分)

・さらについでに、注意事項を一つ。
楽山がshalomさんと話してたら、stさんはshalomと話すならその仲間として批判するというようなことを言ってきた。今はその通り、楽山も批判対象となったらしい。
そんなら、楽山と話すなら楽山の仲間として攻撃するという発想もするんだろう。
この点、ご注意願います。

 
これは、デマ宣伝と言ってよいでしょう。私は、楽山がシャロームの味方をしているから、仲間であるか、なりすましであるか、いずれにしても、批判対象になる、というようなことを、ずっと書いています。
 
注意してください。「シャロームの味方なら仲間だから批判する」という私の意見を、「shalomと話すならその仲間として批判する」という、話しただけで仲間として批判してくるんですよ、という意味にすり替える詭弁なのです。そして、被害だけを書き、他罰的な加害者である自分を全く反省しない人です。
 
私の発言について
私の主張、すり替え前:批判する理由は、シャロームの味方をするから。
楽山の、すり替え後;批判する理由は、シャロームと話すから。
悪い印象を吹き込むための、とんでもなく汚いすり替えです。
 
彼ら易坊類は、どんどん悪性化してゆきます。ご注意願います。
 
詭弁に騙されないでください。楽山は、ほのめかしと印象操作と詭弁を、刷り込みとして使うような、汚い汚いカルト宣伝者です。
 
楽山は、言葉の辻褄の小細工で言い返すような卑劣な精神しか持っていないのでしょう。そのことを知る人は、楽山やシャロームの低劣・卑怯な文章には、吐き気を催すようになるでしょう。
 
 
易坊類は、自分が傷つくことが我慢できないのです。だから、罪も認めないのでしょう。代わりに他人を傷つけて、単純に自分を守っているのです。
 
そして、何を言われても、自分の欲望通りのことだ受け取って世辞を言い、それ以外は、無視し、忘れて、何の糧にもしない人です。それで、学習と成長がなくなり、いつまでも子供のような口喧嘩を書くしかなくなっているのでしょう。
 
だから、良心と良識が育たない人です。そして、良心と良識がないというのは、ホラーなのです。発する言葉が、みな、作為的~詐欺的になってゆくからです。
 
そういう者は、ネットの匿名性を悪用して、書きたい放題、無反省に、悪口を書き、刷り込んだり、煽ったり、成りすましたりしているのだろうと思います。
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、学習できないために、人のためになる言葉を一つも持ち合わせていないから、他者の辻褄を借りて、勝手に、いじるしかないのでしょう。
 
(ネットより)
2、常時「論点のすりかえ」をしている人の弱点
ではこのような行為を繰り返す人というのはどのような人でしょう。端的に言えば、自分の主張が常に正しいと思わずにはいられない人、もしくは(たとえ自分が間違っていると薄々感づいていたとしても)批判されることに耐えられない人、といったところでしょうか。他にもあると思いますが、主なタイプはこの二つ、特に後者のほうでしょう(前者はガチでヤバい奴って感じですが、後者は比較的普通のことなので)。
https://ncode.syosetu.com/n2956eo/
 
批判されて返せないのに、執拗に、お芝居のようなお気楽記事も、批評家気取りの記事も、書くのをやめないのは、自己正当化と自尊の過大~絶対性があるのかもしれません。だとすると、楽山やシャロームのような易坊類は、前者ではないかと思っています。
 
 
   『まだ結婚できない男』 #7 カフェが好きで悪いか!!
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12547913476.html
   2019-11-23:楽山日記(a)
 
 
楽山は、悪口ばかりの長い記事を書いた後で、お気楽記事を書いています。こういう記事を、人を長々と貶す記事と、信仰者でもないのに信仰の記事を書いた後で、平気で書いて、趣味の記事だという言い訳が成り立つから・・と思っているであろう楽山は、どういう人なのでしょう。
 
自粛とか自制とかいうことを考えないのは、そういうことを気にしないでいられる自己中心の特徴です。どの記事も、趣味と同じように書き、批判されたら悪口を書き、また趣味の記事を書いて、自分には余裕がある、と言いたいのでしょうか。
 

この場面、どえらいツボだった。笑いが止まらない。
「何か意地悪なこと言おうとしたでしょ」
 これって、リアルでもある。
  こういうやつとか。
女「今、××って思ったでしょ」
男「……」
女「あ、今度は〇〇って思った」
男「……」
女「ふふふ…」

 
好きなドラマだから私も見ましたし、それなりに面白い場面ではありますが、記事に書くだけの内容が、記事の中に表されているでしょうか。特記事項が何かあるでしょうか。「笑いが止まらない」ほどでしょうか。「リアル」だったでしょうか。楽山は、自分の感性が、こんなに人間らしい・・とでも言いたいのでしょうか。
 
楽山は、前に、同じドラマの記事を書いて、コメディに、サスペンスが中心となって底に流れている、というような、ピントの外れた感想を書いていました。
 
心を読むゲームのように、桑野を、弁護士の女性が、からかって問い詰めている場面です。この場面以前も以後も、二人の微妙な関係が続くドラマなのでしょう。読心術が出来る女性がいる、ということを描く場面ではありません。
 

でも何でこんなに人の心が分かるんだろう。女のカンは侮れん。

 
楽山は、ドラマに事寄せて、なんでこんなに人の心がわかるんだろうと、心の読み合いの場面として感想を書いています。リアルに読心術者がいると勘違いしているのでは?とさえ思えます。
 
真剣なときには真剣に、受けて答えていた人の話なら、それほど、違和感は感じなかったでしょうが、今までの、批判返しの悪口、そして、本を引用しての、宗教や信仰や真実追求の話について、深く掘り下げる姿勢が全くない楽山の場合には、話は違ってきます。
 
女のカンは侮れん・・と言って、笑っているようですが、今までの記事とコメントの流れから考えると、他者を、あるいは、真実というテーマを、楽山が、いかに趣味の対象であるかのように侮ってきたか、を表すことになります。
 
楽山は、反省することがなく、何があっても、受け止めるべき何ものも残らない人なのでしょう。いつでも、例えば、コメディドラマを見て、笑っていられるのと似たような心性が、人に対しての侮りとなって表れてきました。
 
世辞が通用しない相手には、楽山は、嫌がらせしか出来ない人です。
 
つまり、どういう今までの記事投稿の流れだったかを考えてみると、真実に対して、趣味に対するのと同じような軽さで、言葉と辻褄を、本気とは全く違う方向で、いじくって、楽しんでいる人なのでしょう。
 
宗教や信仰など、一度も、本気で考えたことがないから、本を読んでも、勝手な解釈を言って、趣味の本棚に納めることが出来るのでしょう。前の洗濯機の記事と同様に、不自然な気分転換の白々しい楽山です。訂正不能の自己中は、的外れも進行し、人格全体に及ぶことになります。
 
楽山は、宗教と信仰について語ってほしくない人物だと思っています。楽山から、真実について、どんなに好意的な言葉をかけられても、楽山を聞くことは、刷り込まれること、だまされること。十分に警戒してほしいです。
 
笑いで糊塗しても、偽善の色は消えません。
 
 
(2019年11月25日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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