ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

嘘と偽善の虚無(2)

 
  嘘と偽善の虚無(2)
 
   誇る信仰?:コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4443516.html
   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
   記事は、コメント欄を一部編集して書いています。
 
 
恥を知らず、まだ教えたがるゴミ溜めのような腹積もりのシャローム
 

1. shalomです。こんにちは
 2019年12月02日 16:37
聖書から引用されましたか。いいですね。
この聖書の言葉はst5402さんにとって
とても共感される言葉なのでしょうね。(おしまいに引用)
パリサイ人は神の民イスラエルの人々の社会的、宗教的指導者として、聖書に精通し、守り、神の前にも、人の前にも自分が正しい人であることを自認し、人々を導き、律法を守らない人を裁き、他の人を正そうと導くひとでした。パリサイ人が最も厳しい裁きをしていた人が取税人でした。
なぜなら同じ神の民イスラエル人でありながら、異邦人支配者ローマ権力のもとで同胞である人々から過酷な税金を取り立て、苦しめ、私腹を肥やしている取税人だったからです。
取税人はパリサイ人から厳しく裁かれても、神の前にも人の前にも自分が罪人であることを知っていましたので、もう胸を打ちたたいてひれ伏すことしかできなかったのです。

 
数々の嘘とデタラメと汚点とボロをあらわにしながら、なおも、何事も無かったかのように、教えたがるその根性が、既に、福音に反しています。本来ならば、口を閉ざし、生きてきた何十年かを、深く反省するモードに入るはずです。しかし、それをしないところに、楽山やシャロームなどの易坊類の反キリストが表れているのです。
 
取税人には、耳あるものは聞くがよい、と言う、キリストの話を聞く耳がありました。それは、決定的な違いなのです。
 
パリサイ人、そして、シャロームには、聞く耳がありません。自分が神の霊によるものだということだけを根拠とする神がかりから人間離れしているからです。
 

パリサイ人は自分が人より正しく、立派であると思うとすぐ人を見下し、裁き、馬鹿にし、裁いてしまう自分の姿でもあり、

 
まさに、人の祈りをけなす、あなたシャロームの姿であります。
 

また取税人のように、権力をかさに着て、人から不当な税金を搾り取り、弱い自分を守るために、人から見下されることをひたすら恐れ、弱さを隠したり、恐れて、権力に自分の心を売ってしまい、みじめな自分を恥じて苦しんでいる人の姿です。

 
取税人には、耳あるものは聞くがよい、と言う、キリストの話を聞く耳がありました。それは、決定的な違いなのです。
 
パリサイ人、そして、シャロームには、聞く耳がありません。自分が神の霊によるものだということだけを根拠とする神がかりから人間離れしたものだからです。
 

2. shalomです。こんにちは
 2019年12月02日 16:38
エスさまは
ふたりの人は祈るために宮にのぼったと言っておられます。
二人の人をくらべてどちらの人が正しいか、
どちらの人が間違っているかについて話されたのではなく、
神の宮にのぼり、祭壇の前に進み出て、祈ることは
だれも他の人を厳しく裁きながら、神の前にひれ伏すことはできませんし、神の前に自分の罪を悔い改めながら、他の人を罪に定める、裁くことはできず、ただひれ伏すことしかできないと話しておられるようですね。

 
楽山やシャロームなどの易坊類は、ずっと、私が裁いていると言っているが、私は批判しているのであって、それに、まともに答えず、けなし、嘘で欺き、罵っている楽山やシャロームなどの易坊類こそ、心を傷つけて、裁いている醜い罪と偽善の姿なのです。
 

エス様は次のようにも話しておられます。
【口語訳】ルカ
あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか。
12:58 たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。

 
何を言っているのですか。ゴマをすってほしいのですか。あなたは、キリストではなく、御使いでもない、聖霊とも啓示とも、何の縁もない、自己顕示欲だけの偽善者です。だから、また、くだらない妄想を教えようとしてきます。
 
(ネットより)
これはたとえです。告訴する者はキリストご自身であり、被告人は群衆たちです。キリストに逆らわないで、さばきが来る前に和解しなさい、と言われています。
http://www.logos-ministries.org/new_b/lk12.html
 
>聖書の言葉は鋭い諸刃の剣ですね。
 
何がですか。あなたシャロームは、もう斬られているのに。
 
「ですね」は、やめなさい。あなたと共感するところは何もありません。
 
神は、嘘を総て見抜かれます。あなたにとっては剣だから、ひとたまりもないのです。
 

そのことについても次のように書かれています。
【口語訳】ヘブル
神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
4:13 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。
神の言葉に向き合う時、人の心は切り裂かれ、心の思いと志とを見分けることができるというのです。
shalom!

 
神は、人の心をすべて知っておられ、見分けることが出来ます。力においては、どんなに小さいことも、切り裂いて、かつ、見られるのです。嘘吐きは、震えるしかない。
 

3. shalomです。こんにちは
 2019年12月02日 16:39
ルカによる福音書、口語訳)
18:9
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12
わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
(ルカ18:9-14、新約聖書

 
シャロームの引用2より

エスさまは
ふたりの人は祈るために宮にのぼったと言っておられます。
二人の人をくらべてどちらの人が正しいか、
どちらの人が間違っているかについて話されたのではなく、

 
うっかり見逃すところでした。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:14、新約聖書
 
このように、神によって義とされたのは取税人だと書いてあります。明らかに、取税人のほうが信仰として正しいのです。シャロームは、自分がパリサイに似た信条であるために、神に背いて、故意に的を外してパリサイ人を弁護しているのです。
 
読解に必要な聖句を、故意に、自分の都合で無視する、という罪を重ねています。上の解釈から、故意であることは明らかです。シャロームは、そういう人です。シャロームが好きなのは、このような悪だくみです。
 
 
いったい、どこの教会が、いったい、誰が、シャロームに、こんな妄想教理を教えたのでしょう。恐ろしいことです。
 
シャロームは、私の批判について、何一つまともに答えることが出来ません。しかも勉強する意志もなく、自分の妄想教理と妄想信条のだらだら節と、けなしのボロクソ節をもって、おとしめてきました。答えられる信仰がないから、おとしめて、腹いせをする、嘘と作り話を専らとするのであります。
 
何を聖句だけ引用しているのでしょう。神の前に、人の前に、そして、人に対して、啓示と聖霊が根拠だから議論の対象にならない、と言って、訂正不能を誇り、その高みから、わざとらしい讃美言葉と、批判者をおとしめる言葉と、自己顕示欲の教えたがる態度だけを表してきたのが、シャロームなのです。
 
神の前に、人に対して、偉そうに振る舞うのを、ごまかすために、いくら丁寧語を並べても、無駄なのに、ずっと、ずっと、白々しい丁寧語で、嘘の敬虔を装ってきた、それがシャロームであります。
 
もう決定的に、バレているのに、また、書いてくる未練がましさで、ますます、目を覆わんばかりの、みすぼらしさと見苦しさを、これからも、背教の言辞とともに、並べられても、腐った生肉を見るようで、災いだけが蝿を飛ばすでしょう。
 
 
シャロームは、実に、肉体の復活にこだわりました。どこかの国で、死人が蘇ったというニュースを聞いて、盛んに宣伝していました。肉体の復活にこだわるものは、魂の復活と再生に無頓着になります。
 
そのために、人間がどうすればよいのか、まるで学習しないので、まるで考えることが悪いことであるかのように、シャロームは、思考力を破壊し、気づきの感受性を鈍麻させ、人の言うことは聞かず、自分の言いたいことだけを言うようになっています。
 
このように、肉体の復活にばかりこだわることは、人間の心を駄目にします。私たちは、心の復活と再生だけが救いになることを学ぶべきであります。それを、経験しているキリスト者も多いと思います。
 
そこから、人知を超えた神聖の領域まで理解しようとして、いつのまにか、あらぬ非現実を口走る亡者にならないために、聖書の解釈に細部までこだわるのは、学者に任せておけばよいのであって、謎解きや興味本位に走らず、純粋な信仰そのものは、私たちが感じて受け取るものの中にだけあるのだということを知ってほしいと思います。
 
旧約聖書は、おもに、神の、全知全能、絶対完全、永遠不変を述べています。つまり、神と人の決定的な違いを繰り返し表しています。これを弁えないと、シャロームのようになるということです。
 
新約聖書は、キリストと人々の交流の中で、誰が救われ、誰が退けられたかを、表しています。ここから、救いに必要なこと、信仰と希望と愛が人間離れしたところにはないということが分かります。人間離れして神がかることには、人間性を破壊する以外、何も良いところはないのです。
 
そして、キリスト者は、このように伝えられたキリスト、すなわち、イエス・キリストを、個人自らの救い主として、自らの人生に迎え入れることが信仰であり、それは、キリストの憐れみが、生涯を通じて、自分とともにあるように祈ることを覚えることです。キリストが人々に示した共感に、私たちが共感する双方向によって成立するのです。
 
救い主、人生の同伴者、神を教えて下さった最高の説教者、そして、死を超えて、聖書を通して、今も語りかけてくるキリストの御名を通して、創造主であり父なる神に対し、隠さず、隠す必要もなく、精いっぱいの正直さをもって、罪を、そして、負い目も欠点も失敗も、飾ることなく告白し、祈り、導きを願い、待ち望むことのみが、信仰であり、信仰によって約束された救いの必要十分条件なのであります。拝。
 
 
(2019年12月04日)
 
捏造(ねつぞう)
 
 
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