ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

執拗な誘導

 
  執拗な誘導
 
   『神学部とは何か』佐藤優
   http://mn266z.blog.jp/archives/22387846.html
   楽山日記(仮)
 
 
性懲りもなく、また、既に批判した記事を載せています。また批判します。
前の批判記事「神学を悪用」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12532942349.html
 

タイトルを見て難しそうな本のようにも思えたが、サブタイトルに「非キリスト教徒にとっての神学入門」とあるし、シリーズ名は「シリーズ神学への船出」としているし、自分でも通読できそうだと思い直して読んでみた。結果はおもしろく読めた。
おもしろくとは当然ながら、笑えたという意味ではなくて、宗教心や知的好奇心を刺激されたという意味合いではあるけれど、考えてみれば神学についての著者の本は前にも読んだことがあるけれども、そのときもおもしろかったし、けっこうな満足感があったのだった。

 
楽山は、何も収穫がない、つまり、自分を脅かさず、自分を変える力がないことに、満足しているような気がします。本を読んでも、読む前と、読んだ後で、何も変わっていない、ただ、自分の思っていた通りのことが書いてありました、自分の理解のままでいい、と言いたいだけではないかと思います。
 

著者の語りは、神学の入口を紹介しつつ、その奥深さを感じさせ、また個人的な体験、思索、感想を述べたりしていて、読み進むうちにもういい歳で宗教や思想に対する関心も薄れてきているはずの自分であっても妙に神学への興味を掻き立てられてしまう。他の人はどうか知らないが、自分に関してはそうなってしまう。

 
掻き立てられた興味の表れが見えてきません。遠くから眺めて、奥深いと言ってしまうから、例えば、読書嫌いの小学生が感想を聞かれて、よかった、と答えるのに似ています。宗教など語れないのに、霊感があるっぽいと思っている楽山は、神学も分かるんですアピールをしたいだけではないかと思うのは、具体的な話がなく、格付けのような批評と判断をして、全体にボンヤリ褒めているだけなのです。
 

巷では、コップの中の争いのようなことを神学論争と言ったりするむきはあるし、神学にはどうでもいいようなことを細かい屁理屈を言って喧々諤々の論争をするものだというようなマイナスイメージも一部にあろうし、実を言えば自分もそういう見方をしていたのではあるが、著者の本を読んでいるとそれは偏見だということがよく分かる。

 
判断だけを書いて、自分は判断できる人と思いたい、しかし、以前からの文章と同じように、根拠は書いていない、つまり背伸びして笑っている子供のように、論争について否定的なのに、論争について、根拠を書かず、否定して、論争は偏見だという結論しか書いていないのです。
 

どうも自分は神学は嫌いだとばかり思っていたのだが、実際は興味があり、すきなのかしれない。本書を読んでいると、そこで紹介されている神学書の全てを読破することは無理にしても、なるだけ多くの神学書の概要を知りたいし、さらっとでも目をさらしておきたいという願望は持たないではいられなくなってくるから不思議だ。

 
神学は嫌いと思っていたが、好きなのかもしれないそうです。神学書を読むのでしょうか。そして、この記事のような、舐めてみました、というだけの感想でも書くのでしょうか。神学にも興味があって通じていらっしゃるのですね、とでも言われれば、うれしくて仕方がない人なのでしょうか。
 
読書というのは、何かを得て成長するためにするのではないでしょうか。本に対して、同意を示しているのは、自分の判断基準の範囲内に本を置いて、本を下に見て、ああだこうだと言っているような気がします。
 
楽山は、以前から、宗教について、成長しない読み方を実践して、それがまるで自分の身を守ることであるかのように書いてきたからでしょう。新しいことなど、学ぶ気はなく、自分が同意または不同意、という観点だけで通り過ぎる読み方なのでしょうか。
 

ところで本書では、自分が前々から興味がある神義論絡みの話題も出てた。たとえば、「「そもそも、果たして悪は本当に存在するのか」という議論がある。「もし、悪がほんとうにあるなら、その悪を作ったのは誰なのか。神が悪を作ったということならば、その神はむしろ悪魔ではないのか」。これは神学や哲学の方で言うところの弁神論(神義論)の問題である。この問題もまだ解決がついていない。」(pp.132-133)などと…。この問い自体にも興味があるが、「まだ解決がついていない」というところも魅力的ではあり、ゾクゾクするほど興奮してしまう。

 
前に、神がいるなら、何故、悪が生まれるのか、という謎解きだけに興味を示していた楽山ですが、またしても、悪は神が作った、ということを語って、結局、神は悪魔ではないか、という言葉遊びの上に「神」を置いているだけなのです。楽山が言う神は、「神」という言葉を書いた紙ではないだろうか、とさえ思われます。神の存在から、はるかに遠い楽山。
 
まだ解決がついていないことがゾクゾクする魅力で、興奮するのだそうです。分からないことに、何も見えていないことに、何も見ないで、ゾクゾクするというのは、あまり聞いたことがありません。解決が付くわけのない問題に、楽山は、やんわり、ボンヤリ、存在の否定を暗示したいのではないかと思います。
 
解決しないのが当たり前なのです。神という言葉を考えれば、謎でしかなく、人が、神を、人知を超える存在として考えているならば、結論など出るはずはありません。楽山は、結局、そのような神を否定したいのでしょう。
 
自分の了見の中で遊んでくれるオモチャのような神?でないと気が済まないのでしょう。遠回しに、神は存在しないということが言いたいだけではないかと思います。退屈で、実りのない、箱庭のような了見の中で遊んでいたいのでしょうから。
 

また本書では、悪は実在するかどうかという議論については、「西方教会、あるいは欧米の一般的な理性が陥りやすいのは、「悪は善の欠如に過ぎない」という考え方である」(p.133)としている。この考え方は谷口雅春の本で読んだ記憶はある。本来は善のみが実在であって、悪は存在せず、それだから灯をともせば闇は消える云々と。これは上の考え方の谷口雅春流の表現だったのだろうか。

 
このような言葉遊びが、楽山は大好きのようです。辻褄だけにこだわったり、自分の脳ミソにある広がりのない概念だけで言葉の世界を云々して、真理を語ったつもりになるのは、楽山やシャロームなどの易坊類の特徴です。
 

さらに本書によれば、ギリシャ正教では上とは違った考え方をしていて、「「悪は悪であり、それが断固として実在しており、善の欠如などといったものではない」」(p.133)という考え方をするのだという。悪についてのとらえ方に微妙な差異があるという程度ではなくて、まったく正反対といえるほど違うというのは驚きでもあり、愉快でもある。

 
言葉遊びの域を出ません。頭の中だけで解決しようとする扱いが、楽山の読書における唯一の方法であることが、一連の記事で明らかになっています。心、実感、経験、現実問題、などを考えたくない箱庭遊びには、付き合わないほうがいいと思います。
 

ちなみに、最近ななめ読みした『日本思想論争史』(今井淳、小沢富夫編)でも神義論について触れてあった。キリスト教が日本に伝えられた時に、日本人側では「全能にして愛なる神が世界を創造したのならば、なぜ人を苦しめる悪が存在するのか、完全なるものから悪が生じるのは非合理ではないか」(p.128)などという批判があり、これはキリスト教側からすればアウグスチヌスのころからの「弁神論の基本に関する難問」だったという。

 
また言っています。少なくとも、楽山が納得するような答えはありません。神は、楽山の思考には収まりません。分かる人は、言葉の辻褄を分かっているのではないのです。否定できず、必要だから、信じているのです。そこを傷つけるのが楽しみというサディスト的記事を、楽山は、書いてきたのです。まるで進歩のない嫌がらせだけを生業としているようです。
 

またこの議論とは少々切り口は違うが、同書によれば日本人側のキリスト教批判では次のようなものもあったという。「少年は「処女性」をもたないゆえに男色は罪ではないという主張」とか、「人妻を奪うことは罪としても、未婚の女性を犯すことは罪ではないとする考え」(p.127)とか、神は産めよ増やせよとしたならば子を得るために第二の女を持つことは罪にはならないだろう等々。

 
このように、言葉遊びに、信仰の罪という言葉を当てて、罪かどうかを、ああでもないこうでもないと考えるのは、楽山のボンヤリ言語の波長にぴったり合うのでしょう。このような思考をしている間、信仰の「し」の字にも届くことはないのです。
 
書いてあるところの、罪ではないという理屈は、実感や現実を無視した考え方であり、ただでさえ複雑な問題を内包する問題に、詭弁を持ちこんで混乱させるものであり、直観的に人間ならば・・という人間的思考の欠落を表しています。
 

なんだかトンデモに思える理屈もあるけれども、とあるブログでイエスの言葉について心の中で姦淫をしたら実際に姦淫したのと同じだというのは人妻に対するものであって未婚女性に対してはその限りではないというような解釈を読んだことがあるし、とすれば上の主張は現代でも真面目に受け止められる部分もないとはいえず、トンデモだと笑ってばかりもいられないのかもしれぬ。

 
ここで、楽山のクソぶりが発揮されています。罪じゃないからと未婚女性の姦淫を促進する言葉になることを考えても見ない愚かさです。下心を疑われそうです。
 
教条主義カルトの自称ヨシュアが、言っていたのと似たようなことを言っています。キリスト信仰に対する嫌がらせ以外の何ものでもありません。楽山は、あちらとも結託しているのでしょうか。堕ちたものです。
 
情欲は湧いてくるものです。今日は、湧かないようにしようと思って、湧かないようにすることなど出来ない欲望です。他人の妻と言い換えたところで同じなのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:27、新約聖書
 
新共同訳は、下記を参照。前の批判記事「神学を悪用」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12532942349.html
女→他人の妻、となっています。
これだったら守れるでしょう、と言いたそうな訳、私は、嫌いです。
 
このように、情欲をいだくことが既に姦淫だと、キリストは言っています。だとすれば、どういう教えでしょう。守れるものが一人もいないということになり、守りなさいという教えではないという解釈しかできないでしょう。
 
つまり、罪なき人は一人もいない、だから、総ての人は、罪を、正直に告白する祈りを捧げて、赦しを乞うことが必要だと受け取っています。
 
楽山の言は、一見、柔和に見せかけながら、恣意的な方向に誘導してゆくボンヤリ言語の詭弁であり、反キリストの方向に持ってゆきたいのでしょう。聞けば病気になるだけですから、受け入れないように、騙されないようにしてください。
 

どうも話が逸れたようなので、話を戻すと、自分が佐藤優の本を抵抗なく読めるのは、予定説に対する考え方がわりと近いためかもしれない。佐藤優はこう書いている。「私の場合は、もともと母体が日本キリスト教会というカルヴァン派の教団だったので、結局はカルヴァン的な発想から抜け出ることができない」(p.84)と。

 
一般読者のために、解説をしようという気はないようです。
 
(ネットより)
予定説(預定説、よていせつ)は、聖書からジャン・カルヴァンによって提唱されたキリスト教の神学思想。カルヴァンによれば、神の救済にあずかる者と滅びに至る者が予め決められているとする(二重予定説)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%88%E5%AE%9A%E8%AA%AC
 
予め決められていても、人は、自分がどちらかということは知りえないわけです。
 

自分はカルヴァンのことはよく知らないが、それでも予定説の概要は聞いたことはあるし、理があるとも思えるし、この辺りが佐藤優の本の読みやすさにつながっているような気がしないでもない。またついでに書くと、自分は小説がすきであるが、小説には通常、伏線というものがあって、偶然に見えし事柄も後になれば実は偶然ではなかったという展開になるのが当たり前であって、その背景には運命論、決定論みたいなものがあったりする。

 
神学の話を、小説の話にしているのは、信仰として語れないからでしょう。楽山は、後で、偶然ではなかったというヒントとなる伏線を、自分は知っている分かっているとでも言いたいのでしょうか。何ごとにつけ、知っている感を出してくる楽山ですが、これが、救われない者の伏線かもしれません。
 

佐藤優はさらに次のようなことも書いている。「人間誰しも、人生で一番最初に触れた世界観的な思想、つまり生き死にの原理を説く思想の刷り込みからは抜け出せないというのが、私の結論である。私の場合は、結局それはカルヴァン派的なキリスト教だったのだ」(p.84)と。
ここも自分にはよく分かる心持ちがする。

 
抜け出せないのが楽山であったとしても、抜け出すことを諦めるのでしょうか。そのほうが、自分の責任ではないような気がするからでしょうか。いかなる責任も負いたくない楽山らしい逃げ口上です。刷り込みは解けないと言う意見に努力もせずに同意するのでしょうか。
 

自分は日本的な無宗教で育ったせいか、その後いろいろな宗教、思想、価値観に触れて一時的に別のものにかぶれてしまったとしても、結局は生まれながらの日本的な無宗教に戻り、それ以外の学びや知識はみな生まれながらの日本的無宗教を補強強化することに活用されるという結果に終わっているようにも思えるので…。これについては良いとか悪いとかいろいろな正邪善悪の判断は有り得るだろうけれども、どうもその判断に関わらず、自分の場合はただそのようになる以外にはないようではある。

 
楽山が言うところの、日本的無宗教などというものがあるのでしょうか。ただ、楽山が、無関心から、宗教について真剣に考える気がない、ということを、日本人だからということにしたいだけではないかと思います。本を読んで、何も変わらない、数行を要して、何も言っていない、ただボンヤリ言語で宗教をもてあそんでいる無関心が、楽山だと思われます。
 
 
今まで楽山の記事を読んで批判を書いてきて思うのですが、必ずと言ってよいほど、否定肯定ではなく、半否定半肯定になっているか、何かの誰かのせいにしてごまかしているようです。それで、難しい本を読んで書いたから、批判するなら、読んでからにしろ、などと言ってくるわけです。
 
私は本を批判しているのではなく、まさに、そういう楽山のいい加減さを批判しているわけです。そういうテーマにおいては、楽山の記事だけで十分に目的は達しえていると思います。
 
めんどくさい本など読む気になりませんし、インテリ気取りは、シャロームも同じであり、引用して、自分を他者、特に言葉面だけで、権威に肯定させるというやり方が嫌だから、読まずに、そういうやり方をする楽山やシャロームを批判してゆくことのほうが主目的になるのです。
 
 
(2019年12月06日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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