ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

真実の追求

 
  真実の追求
 
 
真善美を求めるときに
真善美の感覚だけを追うことは
自分の感覚が上質でなくてはなりません。
 
ある程度は追うことで可能かもしれません。
しかし、真善美について人間が完全になることはありません。
 
人間は真善美よりも
その逆である義・悪・醜の感覚のほうが
得やすいところがあります。
自分の利益や尊厳にダイレクトに害があるからです。
 
すでに書いたことですが
義・悪・醜に出くわすときに
その正反対の対極に
真善美が暗示されていることを忘れてはいけません。
そしてそこには恐らく
正直で、飾りがなく、隠されず、素朴な真善美が
儚げに暗示されていることでしょう。
 
ギラギラ飾り立てた義・悪・醜からも
その対極に暗示されるところの
儚げに暗示される真善美を忘れないでほしいと思います。
 
 
必要な飾りは
真善美を讃えるためのものであることを忘れないでください。
 
言葉の問題として
飾ることが
見かけだけ飾り立てることとは違うのは
真善美を讃えるものは
深くは、悲しみを経ていることであり
近くは、どんちゃん騒ぎにならないことであります。
 
悲しみは、誰にも訪れるものであり
克服することで、人間を成長させて人間性の深みを増し
真善美に通じてくるでしょう。
 
 
また、神様は、
人が、みだらなることを最も嫌われるでしょう。
性的なことだけでなく、何事につけ、
神は、みだらなることを何よりも嫌うと思います。
 
性的なことは、いつも、みだらと言えばみだらなので、
神は、むしろ、人の性的なることを、憐れんでおられると思います。
何故なら、そのとき、人は、あられもない姿になるからです。
 
みだらなることとは、人間とは思えないことです。
人間であることを忘れる、あるいは、捨てることです。
 
だから、あらゆる行為において、みだらなることは起こりうるのです。
ときに、正義を装うかもしれません。
 
神が憎むところの、みだらなることは、人間であることを
すなわち、神ご自身の民であることを忘れて
自らが、自分勝手な神?に成りあがることに他ならないからです。
 
 
祝宴は慰めに成りえますが
しまりのない笑いがいつまでも続くものではないのです。
 
いずれ、人間は、現実に向き合う定めであります。
 
事実は、しばしば偽善者によって隠されることがありますが
 
いつも儚げに、真善美は暗示されているのです。
 
 
(2019年12月09日)
 
 
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