しらばくれる
しらばくれる
2019年12月22日
「st、楽山 問題を振り返る」抜粋
http://mn266z.blog.jp/archives/22718002.html
楽山が長い記事を書いてきました。あるいは、再録かもしれません。私は、批判記事を書いていますから、楽山のどこがおかしいかを指摘してきましたが、そのとき返せないものだから、私の記憶が薄らいでくるのを狙うかのように、全部を批判することができないような、恐ろしく長い記事を書いてきます。そして、細かいリンクをつけて、話を戻そうとしたり理路を混乱させようとしてきます。
これが、詐欺師の手段なのだな・・と思うしかありません。
楽山が書いた2,3記事、全部リンクまで読むことを拒否するような、長い、長い、記事に溢れている虚偽の、ほんの一部であります。楽山に都合の良いコメントだけを集めたと言ってもいいでしょう。平凡や普通を装っても、悪意は見抜かれたのだから、無駄です。
今に始まったことではないけど、ストレートでないこういう人は、嫌な奴、と思います。
楽山に対して、どちらが完璧かを競うことは無意味です。それに、信仰の話は、完璧を目指すことではありません。
楽山の記事の中身をちょっと見てみると、同じことを言っていたり、論点整理と言いながら都合の良いことだけを出して、つまり事実の選択という詭弁によって、経過の記録をゆがめているからです。コメントが書かれていた当時、ストレートに返せなかったことを示しているだけでしょう。
まともそうな筆致の見せかけで、あざ笑うかのように、好きなように恣意的に操作してくるのです。記事の長さを考えても、易坊類に共通していますが、楽山に良心がない、という思いを強くするのも、そういうときです。まともな交流をする気のない者の、相当な作為と悪意です。そういうやり方しかできないのだろうと思っています。
ですから、私としては、長い記事や、既に批判した再録について、いちいち反応して批判することはせずに、特に偽善的な部分に絞って批判記事を書くなど、私の出来ることをしていくという方針です。
楽山は、問題を振り返ってなどいません。振り返れば、まともにストレートに返せない楽山が、悪だくみをしているだけです。
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*実際のところ
ちなみに楽山日記とは何なのかと言えば、実際のところは、平凡人が平凡なことをつづっているだけのブログだ。閲覧者はわずかしかいない。
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とんでもない。楽山やシャロームなどの易坊類の書く文章は、カルトらしい、執拗で、かつ、作為に満ちた虚偽であります。何か言われると、しばらくして、一度に返せないような、ほじくり返す記事を書いてくることに、それが表れています。
発信して、ストレートに、批判されると不都合なのでしょう。何故なら、それを受けて、また、ストレートに返すだけの説得力を見せたことがないからです。
楽山と彼らは、悪意だけで生きている意図があると思います。「平凡人が平凡なことを」に騙されないようにしてください。非凡で非情で非常な悪意に満ちた者たちです。恐らく、成りすましもするような、お仲間の群れなのでしょう。言葉と信仰を軽く見て、かつ、決して反省しない類人たちです。
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yahooブログ時代のことではあるが、楽山日記は、stさんから沢山批判されても、閲覧者は増えなかったし、stブログからの流入も確認できなかった。stさんがコメ欄にきて連投し、議論をはじめたときは、閲覧者は増えるよりも、むしろ減っていた。特に女性の閲覧者は、普段は全閲覧者の三、四割いたが、ほとんどゼロになってた。
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楽山は、閲覧者数のことを書いていますが、私は、キリスト者の務めとしての私の役割という自覚で書いています。閲覧者が増えるかどうかは、批判するかどうかには、全く関係ありません。
務めでありますから、成否に関わらず、書ける間は続けることになります。できることを、決して、効率悪いからという理由で、放棄することはないのが、信仰上の務めです。
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知名度の高い人気ブログであれば、批判、炎上によってアクセス殺到ということもあるかもしれないが、楽山日記のような閑散ブログの場合は、もとから興味を持っている人は稀であるし、そういう楽山の批判が書かれたり、コメ欄炎上したところで、誰も読まないということなのだろう。
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誰も読まなくても、上に書いたように、このように、すましていながら、悪意ある者に対しては、私は、その悪意を知った者として、書くべきこと、書けることを書いて、一つ一つ、指摘し、警鐘を鳴らしてゆかねばなりません。
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また仮にわずかながらも楽山日記を愛読してくれる人がいたとしても、そういう人はstさんとは考えは合わないだろうから、stさんの楽山批判を読んでもそれに影響される人はいないだろう。
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楽山は、お仲間のことを言っているようです。また、丁寧語や、ボンヤリ言語に騙される人もいるでしょう。だから、なおさら、影響や成果にかかわらず、信仰上の務めは生じるということです。
偽者は、偽者として、偽者の扱いを向けるしかないのです。それが、神聖と信仰を舐めた者たちへの報いの一つとなってほしいという願いに基づいて書いています。
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ようはstさんが、楽山がああだこうだといくら書いても、現実は変わらないということ。おそらくこれは、shalomさん、マリアさんについても同じだ。stさんがマリア批判をしたところで、それ以降もマリアさんとこは人気ブログであり続けてるし、shalom批判をしたところでshalomさんが皆から糾弾されるということもないし、shalomとの会話を拒否する人もいないだろう。
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現実が変わるかどうかという現象や見込み、ではなく、信仰者として、できることをしているか、という自問自答によって、批判し続ける動機を得ているということです。
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私から見た現実はこのようなものではある。stさんは、マリアさんのブログでは下のような決意表明を書いていたし、命がけでカルトと戦っているつもりかもしれないけど、そろそろ現実に気づいてもいい頃ではないかと思う。
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その現実が、この楽山の記事、また、今までの記事やコメントとして、執拗な作為と悪意と欺瞞を表しているということです。
それに、私は、そろそろ、死んでもおかしくない年齢に到達しているので、暴力ではなく、法的制裁でもなく、批判を続けることに、結果によらず、迷いはないのです。一生、出会いたくないような者たちに、私は出会ってしまったのですから。
批判の動機は、結果の見込みにあるのではなく、悪魔性を見たという批判開始の動機にあります。道半ばで私がくたばることは承知の上です。
楽山やシャロームなどの易坊類の、ネット上ですが、文章と事実と記憶をたどれば、いつも、
ここまで、真実と、キリストと、信仰を舐めてかかる者はそうはいない、と実感します。
真実を軽くみた者は、私と私の批判が自然消滅しても、彼らの思い通りにはいかないことを、いずれ、知ることになるでしょう。それぞれ、善いことに使うにしても、悪事に使うにしても、フルに活動できる心身の期間は約70~80年くらいしかないのですから。
(2019年12月23日)
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