ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

無駄な悪あがき

 
  無駄なあがき
 
   私の記事「長い引用で欺く」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5057433.html#comments
   シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、既に、信頼度ゼロです。なのに、コメントを長々と書いてきます。楽山の応援かもしれませんが、長々と聖書のことを書いていますが、シャローム自身が、今まで8~9年の記事とコメントによって、反キリストだとバレているので、今回も、嫌がらせ以外の何ものでもありません。
 
シャロームは、私のライブドアブログに、うんざりするような嫌がらせコメントを書きました。楽山批判を邪魔したかったのかもしれませんが、楽山がまとめて書いた記事に対する批判が一応済むとともに、しばらくは、シャローム批判が続くことになります。
 

1. 楽山さん st5402さん こんばんは
 2019年12月23日 22:42
楽山さん stさんは碌に聖書を読んでいないのですから、所詮我流の信仰でしかないのですから、論争しても徒労になるだけですよ。
聖書に聞くことでしかイエスさまに出会うことも信じることも出来ないのです。

 
シャロームは、聖書の一行も理解していないのですから、所詮我流の妄想信仰でしかないのですから、論争しても徒労になるだけだと知っています。
 
聖書に一言も聞いてないばかりか、詭弁と妄想だけのシャロームは、キリストに出会ったことも信じたこともないのです。
 
証拠もあがり、バレてしまった偽キリスト者、偽牧師、そして、反キリストのシャロームが、バレたことを、全部無視して書いてきても、記録が残っているのだし、無駄なのです。
 
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」と言って、キリストを殺す者と似たような信条を持っている反キリスト、シャローム、今日も、門口に罪が待っています。いっぱい書いた分だけ、罪は増し加わります。
 
投稿者の名前を書きなさい。無責任シャローム
 

弟子たちはイエスさまがゲッセマネの園で捕えられた時、イエスさまを見捨てて逃げたのです。
でも、ペテロは大祭司邸の庭で裁かれため引き立てられて行かれるイエスさまのあとを顔を隠しながら、隠れるようにそ~っとについていったのです。
でも裁かれるイエスさまを見つめているペテロを大祭司邸の女中が見つけ、あんたはあのイエスの仲間だろうとそこにいる人たちにわかるように大声で聞いたのです。そんなことが三度もあり、とうとうペテロはイエスを知らない、関係ないとイエスさまを呪ってしまい、その場から逃げ出してしまったのです。
門外に出ようとしてふとイエスさまの方を見ると、イエスさまがペテロを静かなまなざしでじ~っと見つめておられることに気づき、たまらずペテロは泣いたのです。
その後、弟子たちは戸を固く締め切った部屋に人々を恐れ、また自分たちの弱さ、醜さに打ちひしがれて閉じこもっていたのです。

 
昔、あなたシャロームの、こういう説教を、真に受けていたことがありました。騙されていたからです。
 
自分の弱さにも、醜さにも、打ちひしがれるどころか、閉じこもるどころか、なお、声を大きく、たくさん言えば伝わると思っているシャローム、総て、無駄なのです。滑稽なだけです。
 

大祭司はイエスさまが人々を惑わし、神を汚すものだとして、人々の訴えもあり、十字架につけることにしたのです。
しかし、当時のイスラエルには死刑にする権限がなかったので、ローマ総督ピラトによって死刑の判決をさせ、執行しなければならなかったのです。(領主ヘロデのもにも連れて行かれるのですが省略しました)
そこでイエスさまはローマ総督ピラトの裁きに座に引き立てられたのです。ところがピラトにはイエスさまを死刑にする罪が見当たらないので、再三赦そうとするのです。(人々の訴えが妬みのために訴えていることがピラトにはわかっていたのです。)

 
なぜ、聖書の話をしているのですか。あなたは、聖書と、神と、キリストと、信仰総てを「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」と言って裏切ってきただけではないですか。
 

2. 楽山さん st5402さん こんばんは
 2019年12月23日 22:43
しかし、イエスラエルの指導者たちはイエスローマ皇帝に対する反逆なのに、あなたがイエスを死刑にしないのであればローマ皇帝にあなたを訴えると言い始めたのです。
そこでピラトはイエスさまが死に当たる罪人ではないことを知りながら、イエス様に死刑の判決をし、十字架につけたのです。
そしてイエスさまは十字架につけられ、墓に葬られたのです。

 
また、肉体の蘇りを、信仰?として、説教するつもりでしょうか。そのあなたの信仰?の結実が、あなたシャロームの、身の毛の弥立つ醜さだったのです。結果が、既に、総てを語っているのです。あなたシャロームは、嘘吐き、偽善者、詐欺師、妄想カルト、キリストを殺した者たちと同根、サタンと同根です。
 

その三日後の日曜日の朝イエスさまはかつて繰り返し弟子たちに話されたようによみがえられたのです。
最初によみがえられたイエスさまに出会ったのはマグダラのマリヤとイエスさまの母マリアともうひとりの女たちでした。
エスさまはマリアに閉ざされた部屋に閉じこもって隠れている弟子たちに、イエスさまはよみがえられたと伝えなさいと告げられ、女は弟子たちのところに行き知らせたのです。
弟子たちは知らせを聞いてびっくりしましたが、信じられない思いで、ペテロとヨハネの二人がイエスさまが葬られた墓に向かって走りだし、墓の中にはイエスさまの遺体を包んでいた布だけしか見ることができなかったのです。
 弟子たちはイエスさまがよみがえられたなんて信じられずに閉じこもったままだったのです。
するとその後その弟子たちのところによみがえられたイエスさまがご自分をあらわされたのです。
 女の知らせを聞いた時、トマスという弟子はその場にいなかったので、後で弟子たちの話を聞き、私は自分のこの目でイエスさまを見て、この手てイエスさまの手の傷にふれることができなければ信じないと言っていたのです。

 
肉体の蘇りに執拗にこだわった信仰?がもたらしたものは、言葉の飾りに過ぎない丁寧語と世辞と聖書語の乱発、それによる言葉の破壊、嘘吐き、偽善、詐欺行為、妄想信条、共感の欠如、魔術的超常奇跡にこだわり良心を捨てること、すなわち、真実を捨てること、人間でなくなることだと、あなたシャロームを見ていると、実に、よく分かります。
 
肉体の蘇りだけを信じて固執する分、キリストと人々との心の交流を無視して、結果、大切な心を捨ててしまったシャロームは、信仰の恵みを受け取る器を捨ててしまったのです。
 

3. 楽山さん st5402さん こんばんは
 2019年12月23日 22:45
ところがそのあとで、トマスがいる時、イエスさまが再び来られて、トマスにご自分がよみがえったイエスであることを示されると、トマスはわが主、わが神と言って膝まずいたのです。
それでも弟子たちはあまりのことで、信じられない思いでいたのです。そんな弟子たちはエルサレムからガリラヤ湖にかえり、漁をしようといってかえってしまったのです。
 一晩中漁をしても一匹の魚も獲れずに朝早く湖畔に帰ってきたのです。するとだれか浜辺で火を焚いていたのです。
疲れ切った弟子たちが舟をこいで浜辺に近づいてくると、火を焚いている人がそこで網を打ちなさいを言ったのです。弟子たちはプロの漁師ですから、朝明るい朝、漁をしても魚がとれないことがよく知っていたのです。でもその人はまた網を打ちなさいと繰り返したので、弟子たちは網を打ったのです。するとなんとたくさんの魚が網に入っていたのです。
そのとき、ペテロが思い出したのです。同じことがイエスさまの言葉に従ってやはりたくさんの魚が取れたことを!
ペテロはとっさに、主だ!と火を焚いている人がイエス様であることに気づいてとっさに水に飛び込み、イエスさまのもとに生きひれ伏したのです。

 
聖書のストーリーを書けば、信仰を知っていることになるとでも思っているのでしょうか。逆です。聖書のひと言で生き返る魂もありますが、あなたシャロームは、知っているぞとばかり、貧相な知識だけをだらだら書いて、自慢しているだけです。また、いっそう、無反省であり、いっそう、醜い。
 

4. 楽山さん st5402さん こんばんは
 2019年12月23日 22:46
長いこと、聖書の書かれていることを書いてみました。

 
書くだけで、オレが上だと自慢しても、実際の嘘と欺瞞を知られてしまったのだから、バカげています。丁寧語と聖書語が傲慢を作るという実例になるだけです。誰も心にも届かない。あなたは、もはや、だますだけ、そして、だますことで、心に届く言葉の一切を、失っています。
 
あなたは、今、聖書のことを書いているが、あなたシャロームに必要なのは、今までの信仰?を全否定することであり、悔い改めること以外には、ない。
 
したがって、ここにあなたシャロームが何を書いても、それが、聖書のストーリーでも、聖句でも、それは、あなたの役目ではないのだから、無意味な言い訳の手口として全否定されるのです。
 
何か、易坊にでも、言われたのでしょうか。後で、シャロームじゃないとでも言うつもりでしょうか。何の意味もありません。つまり、詐欺師の楽山やシャロームなどの易坊類が書くこと自体に、もはや、何の意味もないのです。
 

裏切って逃げ去り、自分の弱さ、愚かさを恥じ、また人々の目を恐れて隠れるしかなかった弟子たちでした。
エスさまにまた会えるとも、信じることなんて思ってもみませんでした。合わせる顔もない思いでいたのです。
しかし、よみがえられたイエスさまは真っ先に弟子たちによみがえられた姿を弟子たちに繰り返し、ふたたびご自分を表してくださったのです。
またよみがえられたイエスさまと会ったのに、ガリラヤ湖に帰って漁をするしかなかった弟子たちが一匹の魚も獲れず、疲れ果てて帰って来る弟子たちを迎えるために浜辺で火を焚いて待っておられたのです。
弟子たちはただ自分の弱さ、醜さしかない自分たちに失望していたのです。その弟子たちのところにご自分をあらわし、shalom!(平安あれ!)と声をかけてくださり、また疑い深いとマスにさえ、ご自分の方からトマスにご自分を表してくださり、それでも信じられないですごすごとガリラヤの古巣に帰るしかない弟子たちに再びご自分を表され、弟子たちの傷ついた心の痛みを癒し、新たな心を与えてくださったのです。

 
キリストが、赦したのは、ペテロは泣いて悔いたのであり、トマスは疑ったことを訂正し、悔い改めたからです。あなたシャロームは、悔い改めないかぎり、いくら、肉体の復活を、強迫行為のように譲れないと、しつこく書いてきても、信仰に対して、ただ、裏切ってきただけであることをもって、罪を認めず悔い改めず、裏切り続けていることをもって、全否定されるしかないのです。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:26
八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
20:27
それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29
エスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 (ヨハネ書20:26-29、新約聖書
 
キリストの、絶えることのない愛は、心で受け取るべきもの、見ないで信じるものであります。そして、そこに、微塵の嘘もないものであります。愛と肉体と、どちらが大事で、どちらにこだわるべきか、・・前者であることは、明らかであります。それが分からないなら、人間でさえない。
 
肉体の蘇りだけを信じているということは、そこに愛はないのだから、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じであると書いてある聖句を思い出させ、つまり、肉体の蘇りだけを声高にいくら唱えても、いっさい空しく、それは全く信仰とは呼べないものになってゆきます。
 
あなたシャロームから、世辞の讃美言葉の鬱陶しさを何度も聞かされたけれど、真実の愛のある言葉は、一つも聞いたことはないのです。
 
あなたは、何も大事なことを受け取っていないから、書けないのです。
 
肉体の復活については、既に、書いたことがあるので、ここには書きません。あなたに言っても無駄でしょうから。肉体の復活にこだわり、愛も共感も捨てたあなたシャロームは、肉体だけ不死身のゾンビの姿で蘇っているというわけでしょうか。魂が滅びています。怖いことです。
 
悔い改めないシャロームが、いくら、聖書の話をして、嘘の讃美言葉を並べても、ペテロやトマスのように悔い改める、という祈りを経ないならば、一切は、やかましいシンバルに過ぎません。シャローム、黙りなさい。
 

弟子たちはよみがえられたイエスさまが自分たちの罪を赦し、そのままで、ありのままの自分たちを受け容れてくださっていることに気づかされたのです。この気づきはイエスさまが与えてくださった恵みの賜物だということがわかります。
こうしてイエスさまがかつて弟子たちにあなたがたを人間を獲る漁師にしようと言われた言葉が実現され、弟子たちは人を獲る漁師に変えられた新しい生き方が始まったのです。それが教会の誕生であり、始まりなのです。

 
またしても、主が与える、神が与える、という方向に持っていって、悔い改めをしないことを正当化したいシャロームですが、悔い改めるのは、人間です。
迷惑だから、書いて来ないように。
 

5. 楽山さん st5402さん こんばんは
 2019年12月23日 22:47
随分長いコメントになってしまいました。
 聖書の言葉を丁寧に読むことなしにイエスさまと出会い、
 新しい歩みは始まることはないので
 それが人を生かすのは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、いのちである、と言われたイエスさまの言葉の意味なのです。

 
違います。偽善者の戯言です。いくら幽霊のように、霊であって、霊であり、と繰り返しても、それは聖霊ではなく、今までの経過が根拠となって、あなたが書くものが、あなたシャロームの嘘と偽善の背教の悪魔性を証言しているのです。
 

聞く耳のある者は聞くが良いと今もイエスさまは私たちにも語りかけておられます。
shalom!

 
聖書の一言からでも、キリスト者の一言からでも、信仰は生まれ得ます。そこから、人間として謙虚に勉強し、聖書と経験から学習することになるでしょう。それが信仰者の成長です。
 
一方、聖書を暗記するほど読んでも、どれだけ聖書の言葉を覚えても、どれだけ語っても、信仰の欠片も持ち得ない人もいます。真逆のことしか言えず、人より上に立つ思い上がりしか持たない人がいます。つまり、どうしても過大な自尊が取れない人は、自分を飾る神しか浮かばないのです。
 
どこまでも見苦しいシャローム聞く耳を持たないあなたシャロームよりは、人間として、耳なし芳一のほうが、まだ好感が持てます。
 
あなたは、キリスト者ではありません。いつまでも、自己顕示欲で説教してこないように。
自尊と偽善と嘘と悪意の作為が、とても臭いんです。
 
 
物や肉体への超常の奇跡が分からないのは、神に祈ることで、赦されるでしょう。
神は、人には分からないことが多いことを、既にご存知だからです。
 
分かっている態度で、求められてもいない説教をして、妄想信条を改めない者は、どう考えても、自ら赦しを拒んでいるのであって、赦されようがないのです。
 
 
(2019年12月26日)
 
 
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