ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

神を語る軽口

 
  神を語る軽口
 
   「宗教を語る軽口」コメント欄
    http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4940772.html
    シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
シャロームは、神の父性が分かるらしいです。比喩的に男性的だから、創造主を、父なる神よ、と祈ることはありますが、神は父性だ、父だ、男だ、などと決めつけることは出来ないのです。神は、神です。そういう神と人の違いの弁えを、いくら言っても分からないのが、シャロームです。
 

1. shalomです。おはようございます
 2019年12月15日 08:35

「神を、父性とも、母性とも、決められる人間はいません。」
 」
エスさまは弟子たちにこう祈りなさいと言い、
「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように・・・」
と教えられました。
また「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。人をご自分のかたちにかたどって、男と女を造られました。」(創世記1章27節)と書かれています。
「神を、父性とも、母性とも、決められる人間はいません。」というあなたの考え方は聖書信仰に基づいてはいません。
それとも「神に変ってst5402は言う」というおつもりですか。
われらの父よ・・・父という言葉は単に性別を意味するのではなく、

 
それくらいは知っていますが、神は、人間の父性の概念で語れる御方ではありません。
 
あなたシャロームは、ボケたのか、神を、父性と決められると思っているようだが、人間は、人間の父性しか知りません。創造主の父性を決めつければ、決めつけた人の頭の中に、神を置くことです。それこそ、神と同格のつもりでいる偶像崇拝であるという証拠なのです。
 
私が言ったのは、人間の父性や母性で語れない、語れると思う者は、神を恐れない者だ、という意味です。しかし、あなたシャロームは、気安い自分信仰なので、創造主を決めつけてしまうのです。
 
父なる神よ、というのと、神は父性だ、というのは全然違います。後者は、人間の傲慢です。あなたには、分からないでしょうね。
 
それに、母性を大事にしているのは、マリアを大事にしているらしい楽山のほうです。マリアは、母性だが、楽山の決めつけが酷いので、上のようなことを書いたのです。
 
だから、文句があるなら、楽山に言ってください。また、滑っているシャローム
 
キリストは、神を父と呼びます。それは、神の子だからです。キリスト信仰者が、神を、父と呼ぶのは、人間の言葉で本当に父なのかは分からないけれど、秩序のためではなく、キリストが赦してくださるであろうという理由に他なりません。
 
シャロームは、秩序がどうのと言っていますが、そのシャロームは、反キリストであり、秩序を云々できる人ではありません。神は父性だ、などとシャロームが言うのは、それだけ、自分は知っているという思い上がりに他なりません。
 

関係のあるべき秩序を表している大切な意味があるのです。
他の人の信仰や考え方を批判するのであれば、聖書を熟読してください。むりでしょう・・・か?・・・ね!

 
あなたが信仰?と呼んでいるものには、何の秩序もないのに?・・冗談じゃない。
 

今日も少しだけ読ませていただきました(苦笑)
先日コピペしてst5402さんの昔のコメントに(苦笑)と書いておられたのを思い出しましたので恐る恐る書いてみましたが・・・・
何かなが~いコメントありますか?
新しい年もまたお訪ねすると思います。
よろしくお願いします。

 
何言ってるのか分からない。あなたは、自分が覚えていることは、相手も覚えているという前提で言っているようだが、人間理解が無い証拠になるでしょう。
 
特に、あなたのような反キリスト偽善者のことは、資料として以外、早く忘れたいだけなのです。
 

出来れば新たな歩みをしておられるst5402さんのブログ生活と出会うことができればと期待しています。
また新しい批判の標的になられる犠牲者がないように・・・
とは言え、今年もまだ終わったわけではありませんので、

 
あなたの犠牲者を出さないためには、あなたシャロームが沈黙する以外ないと思います。
 

st5402さんが楽山さんの記事について性懲りもなく云々・・・と書き綴っておられるのは、まさに性懲りもなく8年も続けられたあなた自身の姿を、わたしや楽山さんに投影しておられることにお気づきになられるようにと思います。
Merry Christmas!
shalom!

 
前にもありましたが、自分の反省も出来ない人、あなたシャロームは、全部、私が悪いと言わないと気が済まないのでしょう。これが、投影という言葉の悪用というものです。あなたシャロームのような詭弁家には、こういう学問的に見せるやり方が重宝しているのでしょう。臭い話です。
 
(ネットより)
心理学における投影(とうえい、英: Psychological projection)とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき(否認)、自分自身を守るためそれを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう(帰属させる)ような心の働きを言う[1][2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%95%E5%BD%B1
 
相手のせいにするときに使うのは、何の妥当性もない悪用だということです。
 
だから私は、あなたの企みによる勝手な決めつけを投影とは呼ばず、また、あなたがやったように使うことは、しないのです。
 
あなたシャロームの言は、相手である私のせいにしているだけだからです。
 
みじめですね、シャローム・・
 
 
シャロームのようなカルトにおいて典型的ですが、聖霊聖霊体験を口にする回数が多いほど、自分の言動に、信仰上の箔を付けたい欲望のほうに向かっていると考えるべきでしょう。
 
聖霊は聖三位の一つ、人は口に恐れを持つべきです。
 
自分の心の良いと思うことは、みな、聖霊の・・というような讃え方は、過剰な聖三位への讃美の弊害であり、神聖の名前だけを出すのは、カルトの自己正当化の常套手段であることを知っておく必要があります。
 
神は、その立場を考えれば、人に恐れられる必要はありますが、全能を考えれば、人に褒められる必要はないのです。心のこもっていない讃美言葉は、いちいち、神に見抜かれていることを肝に銘じるべきでしょう。
 
 
キリスト信仰は、知識や教養ではありません。条文でもありません。しかし、キリスト信仰には、ある種の、受け取る器が必要です。
 
その器は、完全?になり、負けない?ようになる、という信仰を求めるところには、決して生まれません。
 
何故なら、そこは、信仰を入れるために空いていなければならないからです。空いているからこそ、他の余計なものがないからこそ、そこには、信仰の、住まうところとなるのです。
 
器が、空っぽであり、自慢したがる高慢も、立派になりたがる欲望も、そこを支配していなければ、そこは、信仰という、潤いと温もりに、どんなものよりも先に、満たされるでしょう。
 
そこは、悲しみの涙が、解放され、立ち直るための回復の温度に、変わるところです。
 
キリストが生まれ、人間性をもって30年+公生涯を生きたのは、まさに、そのためなのです。
 
 
(2019年01月04日)
 
 
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