ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

減らず口

 
  減らず口
 
   私の記事「信仰とは」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5125376.html
   楽山やシャローム(shalom)などの易坊類
 
 
楽山やシャロームなどの易坊類は、いよいよ、本態であるところの、荒らしらしくなってきました。私としては、記事を書いて公開し、コメント欄へは、あとで、気が向いたら書き込みます。楽山やシャロームなどの易坊類に、振り回されないように。
 
人格の破壊が進んで、いたるところに、醜態を表して残しながら、なおも、正常を装う芝居として、聖句や、正論を、書いたつもりのようだが、まるで説明にも説得にもなっていないのは、既に、裏切りの背教が明らかになっているからです。
 

1. st5402さん おめでとうございます 未だ名無しです。
 2020年01月01日 17:51

 
名無しという、荒らしが来ています。
 
今まで、名前を書けと言って、ようやく、シャロームと書いてきて、ここで、未だ名無しは通用しません。たとえ、成りすましの楽山やシャロームなどの易坊類であっても、通用しない名無しを書いたことが、あなたのインチキを証明しています。卑怯者の"インチキ"と名付けておきます。
 
見る価値のない荒らしコメントが全開です。
 

聖書は信仰について次のように述べています。
 「さて、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに称賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。」と書かれています。

 
 (へブル人への手紙、口語訳)
11:1
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
11:2
昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
11:3
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
 (ヘブル11:1-3、新約聖書
 
例えば、新島襄(1843~90年)は、見えないが、天地創造者である神を信じたのです。
http://seishonyumon.com/words/1950/
つまり、見えない存在を信じたのです。
 
「見えるものは現れているものから出てきたのでない」と書いてあるにもかかわらず、インチキは、見えないものまでも、念じて思い込むことで見たかのように信じたことにして語るのでしょう。
 
信仰は、気合いや思い込みで、生まれるものではありません。どうしても分かっていることにしたい偽善者の、おぞましい貪欲による思いこみの妄想と、見苦しい傲慢の現れです。
 
見ていないものを我欲に沿う都合の良さに従って、見たかのように確信してゆくカルト信仰?においては、真実の不都合な部分はことごとく排除され、総てが自分に都合の良い自己正当化の材としてとして、解釈も含めて捏造されてゆきます。
 
見ていない事実とは、上の聖句にあるように、この世界が神の言葉で作られた、ということです。つまり、このことによって、私たちは、主なる神、そして、父にして永遠の友なるイエス・キリストを認め、その真実の前で、精いっぱい誠実であろうとするのです。シャロームは、このことに、インチキの妄想と嘘によって、ことごとく背いてきたゆえ、反キリストなのです。
 

st5402さんの「信仰とは」という説明とは異なるようです。
少々わかりにくい言葉のようですから「昔の人たちは」と続いています。「昔の人たちは」とは信仰によって生き、称賛された人たちのことです。また、この言葉の後に実際に信仰によって生きた人たちの名前がたくさん記録されています。その多くの人たちは信仰がどのようなことであるかを生きることによって証ししている証人です。わたしたちは聖書によって、信仰はどのようなことであるかを多くの証人によって、教えられますが、聖書には「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を耐え忍んで走りぬこうではないか。」とすすめています。

 
文字と言葉面の違いをもって、異なるから、違うから・・という文脈を作っています。心を理解できない者の特徴です。
 
昔の人たちについて知りうるのは聖書からですが、神によって信仰の義を与えられた人々は、一人も、シャローム・インチキのような詭弁や嘘や妄想には走っていません。
 
そのような立派な証人に囲まれているのに、「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」などと言って、罪を認めない、悔い改めない、という、信条を捏造したシャロームが、何を言っても説得力はないのです。このような楽山やシャロームなどの易坊類には、決して、関わってはいけません。
 

2. st5402さん おめでとうございます 未だ名無しです。
 2020年01月01日 17:52
その学べるもっとも重要なことは「わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。」というのです。
ですから、神の言葉である聖書の冒頭の言葉は
「はじめに、神は天と地を創造された。」という言葉によってはじめられ、その天地創造をされた生ける神に対する私たちの信仰は聖書の言葉によって支えられていることを教えられています。

 
文字通りに受け取って分かった気でいるインチキの話に、誰も、頷いてはいけません。信仰の心を受け取れないものだから、教条主義の文字通りの鵜呑みに走っているシャローム・インチキのインチキな説教など、決して受け取ってはいけません。楽山やシャロームなどの易坊類には、信仰に必要な心がありません。だから、名前を隠して、ゴミくずのような説教をまき散らして、荒らすしかないのです。
 

聖書によって証しされている三位一体の神に対する信仰は
死すべき、有限で、相対的な人の言葉ではなく、神の証しの聖書の言葉によって支えられているのです。
さて引用された聖書の言葉はどこに書かれているでしょうか?

 
上のへブル11:1-3は、楽山やシャロームなどの易坊類などが利用できるような聖句ではありません。罪を認めず悔い改めをしない反キリストは、聖句も、私の書いたことも、理解できないものだから、また、分かっているふうを装って、いちゃもんを書いてきます。
 
神の言葉を踏みにじり、自尊のために悪用している者には、言葉尻だけで満悦して、人を悪意で問い詰める、という偽信仰だけが与えられるという表れです。悪は悪を表し、偽善は偽善を表すしかなくなるのです。
 
今さら、まともそうなことを言っても、教える態度と見下す態度に変わりはなく、今まで、口から出まかせのボロ布のような話をしておきながら、さらに、自己正当化の解釈を重ねても、既に、嘘と偽善と背教と暴虐は証明されており、繕いようがなくなっています。
 
単方向で言いたいことだけを言い張ってきたシャローム・インチキに対しては、話にならない反キリストであることをもって、根こそぎの否定で臨むしかない成り行きなのであり、にもかかわらず、それを微塵も気にしないで、インチキが、いけしゃあしゃあと書いてくることこそ、偽者の証拠固めにしかならないのであります。
 
しかも、現実検討するだけの思慮がないので、状況からズレて大きく的を外れても気づかない、場と状況に相応しい発言が全くできなくなる、それが、シャロームのような者に、地上で不可避的に訪れる報いなのでしょう。
 
このように、偽善者のインチキは、自分を省みることができない体質であるために、代わりに、逆に質問を浴びせ、知ったかぶりで、問い詰めてきます。とても、良き訪れを伝えるという福音伝道の立場ではありません。自分が上だという尊大を示す醜態を演じる宿命が表れるだけなのです。
 
私は、聖句が、どこに書いてあるかなど暗記してはいません。幸いなことに、検索すれば、すぐ見ることができるのです。シャロームかもしれないインチキは、ネットも分かっていないようです。
 
シャロームなど彼らは、三位一体の神を信じてなどいません。何度も引用しますが「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」という真逆の信条や、気取りだけの思想や、子供だましの詭弁によって、自分の中でだけ、相手をやっつけた満悦に浸りたいのです。楽山やシャロームなどの易坊類は、悪意以外、何も手段にできない反信仰者です。
 

改めておめでとうございます!
良い年であるようにと祈りつつ、新年のご挨拶を贈ります!
2020年元旦

 
シャロームには、既に、書くな、来るな、と言いました。また、私の記事やコメントに対して、弁明や反論の成り立ったことは一度もありません。にもかかわらず、わざわざ来て、正論?を言ったような気になっている心無い反キリストを、変えることは不可能です。
 
私が、ブログで批判する目的は、もはや、彼らを説得することではなく、彼らに勝つことでもなく、できるだけ広く、彼らに決して関わってはいけないと伝えることだけなのです。
 
にもかかわらず、また、書いてくることで、何とかなると思い込んでいる楽山やシャロームなどの易坊類に対して、もはや、人間の訪問者としての礼儀を守ることはしないつもりです。
 
インチキには、年賀の代わりに、これからも、赦されざる罪と偽善の広い門から暗闇へ、ズルズル堕ちてゆく日々が続くのでしょう。ここに至って、名前を出さないことが通用するという自己中判断が成り立つと思っているようですから、また一段階、破壊が進行したようです。
 
私は、楽山やシャロームなどの易坊類を説得するような記事もコメントも書かなくなって久しいのですが、楽山やシャロームなどの易坊類は、私に依存しているのでしょうか。縋りつくように、書くことを止めないのです。
 
今までも、そして、どこまでも、健全や正常から、どんどん外れてゆきながら、なおも、自己満悦しているかのような有り様は、傍で見ていても、とても人間とは思えないものです。
 
 
信仰を理解するのに、条文のように、言葉を絶対化しても、人間の言葉しか知らない私たちに理解はありません。物や肉体への魔法のような超常の奇跡を期待しても現実の埒(らち)は開きません。総てが益となることを勘違いして、欲望と自尊をたくましくするだけなら、都合の良いことだけを言ってくれるカルトを求めて、空しく巡るだけになるでしょう。
 
聖三位の、神、キリスト、聖霊について、人は、聖書を通して学びます。そこに登場する人々と、私たち個人の事情は、似たところもありますが、時代も違っていて、ひとつひとつのことについて、聖書も、詳しく教えてくれるわけではありません。
 
このことから、私たちの人生こそ、聖書によって知ったことを考えて生かす機会であり、また同時に、人は人の出来ることをして、出来ないことを神に任せるという生き方の学習なのでしょう。限りある人知であるからこそ、それを、地上の人間として生きる間、精いっぱい働かせることが信仰の務めとなるのです。
 
私たちが、何故と考えあぐみ、非合理と感じてしまうところの、地上の悲しみに暮れる時にも、私たち一人一人の心に、祈りを通して、近しく親しく永遠の友として同伴し、絶えることなく潤いと温もりを注ぎながら、主なるご自身の所有となったゆえ手放さず私たちの命を歩ませる至上の慈しみが存在する、という魂の奇跡があることを、どうか、忘れないでください。
 
 
(2019年01月09日)
 
 
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