ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー教について(8)

 
  アドラー教について(8)
 
   ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン) 2018-08-25
   【できないの⁉️】他人の正義はスルーしよう
https://www.adlersalon.com/entry/2018/08/25/%E4%BB%96%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E3%82%92%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%81%99%E3%82%8B
 
 
キリスト教の言葉を使うカルトの批判に時間を費やしてきたので、アドラー教(アドラー心理学)批判は久しぶりです。
 
正義という言葉を使う必要のないところで、奇を衒って使うと、大きな誤解と曲解を誘導することになるでしょう。全部、こういう人もいるけど・・という話であり、また、正義というより、支配欲のことです。
 

アドラ心理学サロンです。
それは間違っている!などと言い、あなたの意見を否定して、自分の意見を主張して押し付けてくる人はよくおります。
どうすれば良いのか分からなくてなり、納得いかないまま従ってしまった方も多くいらっしゃるのではないでしょうか?
今回は、自分が正しいとしたことを主張し、あなたを「操作」または「支配」しようとしてくる人への対処方法を解説します。

 
サブタイトルによれば、人によって正義が違っているのが、当たり前という前提で話が始まっているようです。
 
他人の正義、という言葉は、恐らく、課題の分離、という言葉と同類で、他人の正義は、他人のものだから分離するべき、という説教になっています。しかし、言葉だけでは言い切ることの出来ない課題を含んでいます。
 
正義や真実について、議論や話し合いを、人間はするということです。それを、処世術のように、こうしなさい、ということは出来ないことなのです。
 
正義ではなく、自分勝手な押し付けに対することなら、分かりますが、正義という言葉を使うことで、倫理や道徳一般に、言葉だけで適用されるという誤解を生むでしょう。
 

単刀直入に結論から言うと、他人の正義はスルーするしかありません。
自分の正義として、こういう時は男/女ならこうするべきだ!や、こんな発言をするあなたは許せない!といった正義を振りかざし、自分の思った通りの行動をさせようとする人はとても多いです。

 
正しくは、押しつけをスルーするのです。押しつけや決めつけは正義ではないからです。説教者は、良い言葉を、悪口に変えています。
 

何を正しいとし、間違っているとするのかは、その人次第であり、生き方や考え方が人によって異なることと同様なのです。

 
その人次第であるところと、人間一般に言える場合もあり、その人次第というのは、広いようで、とても狭い見なしになります。以前から、そういう見方や言い方が目立つ説教者です。
 
一般的な人間共通の真実の追求を無視した説教です。真偽や正邪を考えるな、という無思考の勧めになっています。こういう短絡的豪語の多いブログ主であります。
 

相手の発言や行動の目的はあなたに思い通りの存在にしたいもしくは、否定したいという思いであることがとても多く、こういった正義に振り回されると自分を見失い、自分自身の人生を生きることができなくなる可能性があります。

 
このように、ここに至って、ようやく相手の支配という悪を言っているわけですが、相手が、自分を「否定したいという思い」、そして「自分を見失い、自分自身の人生を生きることができなくなる可能性」であることも、助言であることもあるのです。
 
ケースバイケースであることを、被害的念慮にしているようです。他人の正義は、みな、悪でしょうか。参考とするべきところは全くないでしょうか。甚だ疑問です。
 

正義を押し付けられた場合には、その正義ついては差し置いてお付き合いできるように止めてくださいと伝えるか、その人と距離を取るようにしましょう。
下手に他人の正義の主張へ意見を言ってしまうと単なる言い争いになり、喧嘩となってしまいます。

 
このように言葉で、言ってしまうと、無視することが一番ということになります。正義の、個別と一般の区別を付けていないから、正義という言葉全体を殺してしまうことになるわけです。
 
ブログ主は、自己中という指摘に対して、自己中ではないと主張しますが、根拠を示さずに否定文にしただけでは反論にならない、ということを知らないようです。
 

正義についての議論は、建設的な会話にはそもそもならず、感情的で「あなたが嫌い、気に入らない」が前提になっていることが多い為、不毛な時間と体力、精神力の消耗にしかなりません。

 
「正義についての議論は、建設的な会話にはそもそもならず」と、すごいことを言っています。ブログ主は、よほど、人間嫌いのようです。代わりに、人間を支配したがっているように思えてなりません。
 
正義でくくられることではありません。相手の嫌悪や支配欲は、そういう言葉で考えるべきです。
正義が問題なのではありません。相手の支配欲が問題なのです。
 
奇を衒って、思い切って、正義全般をおとしめないようにしてください。
 
正義が、処世術であしらえるものだなどと軽く見ないようにしてください。
 

この権力争いを制しても、次に待つのは何らかの「復讐」にしかなりません。
権利争いに負けた相手は、何らかの方法であなたへの攻撃をする機会を窺い、必ず復讐してきます。
この復讐へ対応することもまた不毛であり、メリットは無くてもデメリットしかありません。

 
ブログ主は、よほど、憎たらしい人でもいるのでしょう。他者は、みんな敵だと言っているようなものです。人間関係を権利争いで語っています。
 
悪しきは、正義ではなく支配欲だということが、権力争いという言葉で明らかになっています。
 
すぱっと、かっこよく、格言のように言い切りたい願望か欲望があると、冷静な話が成り立たなくなるでしょう。言葉を大切にしない人の特徴です。
 
豪語・断言する前に、権力争いは、身近なところで起こると、支配欲を正義に見せかけることがある、ということを言えないのでしょうか。こういうところが、信頼度を低下させます。
 
どんなときにも、権威的に、物を言ったり、押し付けたり、決めつけて貶めてくる人が、このテーマの対象であることを忘れないでください。そういう人はいます。しかし、ブログ主は、それこそ、そういう人がしそうな書き方をしているのです。言葉遣いが、最初から戦闘的で、荒すぎるのです。
 

距離を取ろうとしても、穏便に済ませてくれない方には、周囲の人や警察などの外部機関に相談してでも無理矢理引き剝がしましょう。

 
これは、もう、説教の段階ではなく、被害をどう防ぐかの話になっています。説教者は、こういうことを言葉で言うだけで仕事をしたつもりなのでしょうか。
 
穏便に済ませられないときは助けを呼ぶ、当たり前のことです。
 

ほとんどのパターンで何らかの反応をしなくなれば落ち着くことが多いのですが、執拗な場合にはその場で一時的に相手の正義を受け入れて受け流す方が良いこともあるかもしれません。

 
このような教え方をしていると、正義一般について、むしろ、我を通して、他者の意見を無視したり軽蔑して、あしらおうとしたり、世辞でごまかし、嘘を助長する可能性があります。責任は説教者にあります。
 

もちろん、その場で一時的に相手の正義を受け入れたとしても、ずっと従う必要はありません。
その方とその後に距離を取るなどの対処を取れば済む問題なのです。

 
1行目で当たり前のことを言っています。そして2行目では、距離を取るなどと言葉をやわらげていますが、裏切り行為を勧めているのです。
 
さらに、対人的距離の問題ですが、これは、距離を取れば済む、という簡単な問題ではなく、下手に実行すると、信頼できない人というレッテルを押される結果になるでしょう。
 

これは「負け」と捉えずにあなたの権利を守ったと考えましょう。

 
そもそも他者の支配欲が干渉してくる話なので、権利を守る、防衛する、というのは当然のことです。当然の権利を守ってはいけない場合があるのでしょうか。
 
下手に適用を誤って実行すると、信頼を失い、無視されることにもなり、「負け」と同じような結果になるでしょう。物も言いよう、という説教で、言い逃れと言えるでしょう。
 

他人の正義は思い切りスルーして、自分の人生の目的を追求することに専念しましょう。

 
スルーする行為が、既に、思い切りを要する行為ですが、気に入らないことは無視するという行為によって、理路も、情緒も、共感も、鈍麻して成り立たず、思いやりと配慮に欠けるところの、ボンヤリ人間になっているものもいます。世辞以外、話が成り立たない愚鈍な人格破壊に陥るリスクがあるのです。
 
何か、とても大事で、とても有用なことを発見して、言い得たと思うのでしょうか。言葉が乱暴なだけです。
 
感情的になったら逃げるしかありませんが、本気で、正義のつもりで、相手が言ってくる場合もありますが、そんなときには、検討する時間が必要です。
 
一つの説教言葉にしがみつくことでは解決しません。言葉の多様な意味を、いつも把握し、柔軟に適切に適用することは、人間には、思っている以上に困難で、行き過ぎた適用の仕方をしてしまいがちなのです。
 
>自分の思った通りの行動をさせようとする人はとても多い
 
どういう思いか、どれくらい多いのか、どういう場合か、それら総てに、他人の正義という言葉からの説教として覚えてよいものか、扱いが軽すぎると思います。
 
教えを得た後が、教えられる前より、自他ともに、事態が悪くなる可能性があります。みれば、たいてい、自己中とも紛らわしく、そんなに便利な言葉ではありません。
 
カルト臭いところというのは、言葉遣いがぞんざいであることが多いです。
 
 
(2019年01月13日)
 
 
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