ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー教について(9)

 
  アドラー教について(9)
 
   2019-12-08  
  【永久保存版】あなたを待つ不幸のどん底を回避する方法は…
  https://www.adlersalon.com/entry/2019/12/08/093454
 
 
嫌らしいカルトの誘い文句です。奇を衒(てら)って、無責任に保証し、保証には内実がありません。
 

あなたが大切だと思っている人達は必ずあなたを裏切って、あなたの不幸のどん底に突き落とします。
そうなることを、私が保証します。
あなたが今、幸せだと思ってることも、本当はあなたを苦しめて不幸にすることなのですよ。
これからあなたは、ある時を皮切りにして、不幸に生きる時間の方が人生の大半を占めることになります。

 
根拠を示さず、逆説的なことを言い、不安を煽っています。
 

でも大丈夫、この記事を読めば、あなたは人生の大半の時間を損することもなく、読んでない人より遥かに大きな時間を節約できて、すぐに幸せになれることでしょう。

 
そして、万事解決の安請け合いです。ネットでは、責任の取りようがないことを利用しています。
 

むしろ、本記事を読まなければ、あなたは決して幸せにはなれない気がしてなりません。
起きた出来事そのものには、「幸福」も「不幸」も無い。つまり、どんなことが自分の身に降りかかってこようと、それをどう自分が解釈するのか次第なのです。

 
しかし、誰が見ても不幸ということがあります。その中には、カルトに囚われることによる不幸も含まれます。異常に偏った考えに縛られてゆくでしょう。
 
アドラー教の陥りやすい欠点は、言葉をそのまま受け取って、自己中、学習不能、訂正不能、そして、人格の鈍麻から破壊につながります。
 

あなたの思っている「不幸」の実体とは、その不幸な出来事そのものではなく、世間で不幸だとされていることであり、つまり、他人が作り出した定義なのです。

 
こういう解釈次第という考え方は、不幸の実体をというものを、その多様な出来事そのものではなく、カルトが自らの思想に合わせて単純に作り出した定義なのです。
 

自分の外側にある他人や環境は、何一つ自分の思い通りになることはありません。

 
むちゃくちゃな言い過ぎです。人間嫌いの言葉です。極端に走ると気持ちがいいのでしょうか。
 
何一つ自分の思い通りにならないなら、人間は生きてゆけません。少しは思うとおりになるところがあり、そこを見つけることで人間は生きています。
 

もちろん、他人の考え方を変えてもらおうとしたり、世の中にある何かを変えようとする努力はできますが、最終的に変わるのか変わらないのかは本人次第なのです。

 
当たり前のことです。当たり前と、極端と、走り回っているようです。
 

外側にあるものに対して、「自分には合わない」とか、嫌いだの不幸だの嘆くことはそれこそ傲慢というものです。

 
誰もが、自分に合うところを求めているわけですが、どこが傲慢なのでしょう。
 

何であなたごときの為に、他人が合わせてあげないといけないのです?神様とか王様にでもなったつもり何ですか?という話になってしまいます。

 
何でアドラー教ブログ主ごときに、他人が合わせてあげないといけないのです?神様とか王様にでもなったつもりなんですか?という話になっています。
 

「あの人がこんなだから」や、「あの人が迷惑だから」なんて言って「やめて下さい」と伝えたりするくらいならまだしも、文句ばかり言って自分の不幸を嘆くのはおかしなことです。

 
要するに、ブログ主が言いたいのは、人のせいにばかりして、不幸を嘆くだけになるのは、おかしなことだということでしょうか。いつまでも、くよくよすることは、確かに、不幸なことです。
 
人に対しては、冷静に、その言動を見ることが必要です。その上で、どこが、おかしいかを指摘するのは、おかしくもなんともなくて、批判と言います。批判する意志がないならば、自分がどうすればよいかを、冷静に考えるべきでしょう。
 

「自分のこと以外は、自分には変えられない」こう割り切ることは、どこか諦めているような感じがする人もいるのではないでしょうか?
これは諦めではなく、割り切りです。

 
この記事では、課題の分離、という印籠を出さないのですね。易しい言い方を心掛けているのでしょうか。まだ、自分のことと他者のことを、いつも、はっきり分離できると思っているようです。
 
課題達成に、他者が必要な場合、他者の課題達成に、自分が必要な場合、自分も加わりたい場合、区別できないことを、まだ知らないのでしょうか。
 

他人が作り出した不幸の定義を、自分のものにまでしなくていいのです。自分には自分なりの幸せと不幸があるのです。

 
当たり前のことです。上のこととは、つながらないように思われます。
 
他者のことで、思い煩わないことが必要なのです。
 
他者は他者と、いつも割り切って、気にしないでいると、いつのまにか、冷たい人という評判が立っているかもしれません。
 
不幸を感じるのは、心ですから、心の無い理屈や命題は、心を乾燥させ、冷たくします。心に血がにじむと、ピリピリして、声を荒げて断定豪語したり、怒鳴ったりします。
 

病気になってしまい、余命があと僅かだと宣告されたとしましょう。この時、不幸を嘆いて恨み節を呟きながらこの世を去るのか、最後の最後まで、今の自分にあることに感謝して笑顔でこの世を去るのかは自分で選択できることなのです。

 
驚くべき発言です。アドラー教によって、不治の病も笑顔で過ごせるのだそうです。ますます、学問というより、宗教らしくなっています。そのようなことは、机上の理屈で考えて結論の出ることではないのです。
 

世間で言われている「良し悪し」、「幸福と不幸」の定義に従わなくてもいいのです。自分がどう思うのか、自分がどんな人間なのかは自分で決める自分の課題であり、他人の課題ではありません。

 
自分で決める自分の課題は、自分がどんな人間なのかではなく、自分がどんな人間になりたいのか、ということです。豪語癖が、また、短絡しています。
 
自分がどんな人間なのか、ということこそ、自分には分かりにくく、分からないまま生きていることが多く、他者の意見が他者の意見が大切になることでしょう。
 

「他人に好かれる私」ではなく「自分が好きな私」になりましょう。

 
これは、自己愛を促す言葉になります。自己愛は、行きすぎると、自己中心になります。このように、誤解と曲解を招きやすい言葉を、気安く発する傾向が、アドラー教にはあります。
 

この世界は何一つとして、誰かを幸せにしたり、不幸にしたりする為に存在しているものはありません。
常に世界はあるがままに存在しているだけです。

 
世界に住む私たち人間には、様々な思惑があるのです。他者が無関係である場合は、極めて少ないでしょう。常に他者に気を使えというのではないが、全く無関係に暮らすことは出来ないのです。
 

なので、自分の外側に幸せを求めるのではなく、自分の中で幸せだと思えること、満足できることを全力で取り組んでいくことが重要です。

 
内向きを勧めています。そこに他者はいないのか、そこに他者はいるのか、どこでも、いるほうが多いでしょう。
 

その取り組みの過程自体が自分を幸せにしてくれますし、どんな結果が出てもそれは次に何をしようかと考える楽しみでしかないのですから。

 
いったい、どんな、自己の世界を想定しているのでしょう。どんな結果が出ても楽しみになるなら、相談する必要もないのです。自分がどうあれ、相談者は楽しんでいないから、相談するわけです。自分は分かっている感を出しているに過ぎないでしょう。
 

それでもどうしても人の目が気になって、自分の気持ちに素直になれない人へ
自分の外側にあるものに幸せを見つけようとすること自体は悪いことではないと思いますし、どうしても人は人の目を気にしたり、自分の外側にあるものに期待をしてしまいます。
ただ、どうしても自分の外側にあるものは、そう都合良くはならないので、期待を裏切られてしまい、失望感と絶望感に苛まれてしまうことになります。

 
これは、すなわち、他者に依存してはいけないということです。
 
この依存について言っておきたいのは、何の魅力もない人が、自分に依存していると言って、気に入らない相手を病人に仕立て上げることがあるので、そういう相手と分かったら近づかないように、また、自分がそう言ってしまう人にならないように、注意してください。
 

なので、可能な限りは自分の外側にあるものに過度な期待をしないで、他人に影響されないで自分らしく生きることが大切なのです。

 
ここで、当たり前のことを言っていますが、他人の影響も必要な場合があり、影響を受け過ぎないように、ということです。ブログ主の話というのは、可能な限り、という、当たり前の結論になることが多く、つまり、目の覚めるような良いこと、とは言えないと思います。
 

だからこそ、人の目が気になる自分を否定するのではなく、人の目は気になるものであることを受け入れて気にしないようにしましょう。
こちらの考え方であれば、誰かに期待してしまうことを防ぐこともできます。

 
おやおや、人目は気になるものであることを受け容れて気にしない、・・矛盾律になっています。
 

人の目を気にしたり、他人に期待してしまう心理は、人間が自分の身を守る為に持っている防衛本能のようなものであり、どんな人でも人の目はそれなりに気になるものですし、人に勝手な期待をしてしまうものです。

 
先ほど述べた、依存につながるものだと思います。他者への、寄りかかりです。寄りかかられたほうは、荷が増えることになります。
 
依存は、自立していない人に起こりやすいのですが、依存、依存と、他者に言う者も、自立していない可能性があります。もしくは、酷いエゴイスト・・最も悲惨なのは、自分が近づけておいて、突っぱねるタイプです。無責任と自己中が甚だしい人格です。
 

ただ、自分の思い通りにならなかった時に、他人は思い通りにはならないから仕方ないんだと、自分を納得させられるように思考を切り替えるようにすればいいのです。

 
諦めの境地を語るのでしょうか。諦めるかどうかは、個人によって、段階によって、違うでしょう。諦めて、思考を切り替えるのは、すればいい、という簡単なことではなく、メインのテーマにもなりそうなことです。ときどき、空しい大ナタを、さりげなく振ってくるブログ主です。
 

人としての性質そのものを否定してしまうと、自己嫌悪になってしまったり、過度に人の目を気にしないことばかり意識して本来の自分ではやらないような奇行に走ってしまう危険性もあります。

 
どういう意味で言っているのでしょう。人としての性質そのものを変えるかのようなことを説教してきたのではないでしょうか。それは、とても難しいことです。
 
また、過度に、という言葉で、その否定を言い訳にしているようです。気にするなと言って、過度に気にしなくなるとマズい、と言って、また、次には、気にするな、と言うつもりでしょうか。一貫性もなく右往左往している理路です。豪語することの空しさを思わせます。
 
アドラー教の作用か副作用が出てきているのではないでしょうか。なんだか、ブログ主の迷いのようなものを感じます。アドラー教を豪語してもぱっとせず、誤解も多くて、結局は、豪語に値するものが乏しいということではないのでしょうか。
 

自分をありのまま受け入れて、自分なりの幸福感を得られる生き方をしていけばいいのです。

 
こうなれば、という理想を結論にしています。結論に至る説明が、著しく不足しています。
 
 
(2019年01月14日、同日一部修正)
 
 
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