ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

召命

 
  召命
 
 
(ネットより)
召命:
1.「呼ぶ」「名をもって呼ぶ」こと。
2.聖書の中に多用されている、神の恵みによって神に呼び出されること。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AC%E5%91%BD
召命と使命は常に対(つい)になっています。神に召された命は、人々のために使われる命なのです。そして、一人ひとりの顔だちが違うように、一人ひとりの召命と使命は違うのでしょう。
https://seseragi-sc.jp/sasage/1501-5.htm
 
キリスト教には信条というものがあります。
教理のうち柱となるものを記したものです。
 
しかし、その教理を、思い込み信じ込むことが信仰ではありません。
キリスト者に誰でもなれるというわけではないということです。
 
キリスト信仰には、秘跡とも、魂の奇跡とも呼びたいことがあり、
それは、キリスト信仰者になる上で、必須であります。
 
そこから、聖書を通じて、信仰の神髄であるところの、キリストの同伴を信じるに至ります。
 
キリスト者は神に選ばれる、ということは、優劣を意味してはいません。
これが、キリスト者が、異教や無宗教を下に見てはいけない理由であります。
 
さらに言えば、神は、キリスト信仰者だけを救い、他は滅ぼす、あるいは、滅びるに任せるのか、という問題があります。神が、キリスト信仰以外の人を召命して、何らかの使命を与える可能性を否定できません。
 
何故なら、キリスト者でなくても、優れた洞察をもって、人間と世界に貢献した人の存在を、少なからず、学んできたからです。
 
したがって、信仰者が、他の宗教や、非信仰者を、低く見て憐れむのは、
異教や無宗教への、いわれなき侮辱といってよいでしょう。
 
批判されると、批判者を軽視してあざ笑い、
皮肉を言い、当てつけや嫌がらせだけを当ててくる習性を持つ者がいます。
 
また、異教に対抗心をもって、キリスト教の優位性を書く者もいました。
熱心な信仰を表したつもりのようだが、
身の程を弁えていないために、知りもしない異教を侮ったのでは、
依怙贔屓の優越自慢に過ぎないのです。
 
信仰は、一種の縁であって、
神の力で他の人々よりも偉くなることではありません。
 
弱い人が、弱さを認めて、弱さゆえに、神に寄る辺を求めるのが、信仰です。
ある意味、以前より、強くなるという言い方も出来ますが、自慢することではありません。
 
信仰者には、多くの、思いこみや勘違いや誤解があります。
私個人として実感があることです。必要なのは、学習し成長することです。
 
カルトには、多くの、思いこみや曲解や妄想があります。
その誤りは、放置すると、自己中となり、反社会的になる可能性をはらんでいます。
 
 
さて、主を誇れという聖句があり、やたら、神を讃美する者がいます。
讃美することは、無条件によいことでしょうか。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
1:26
兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27
それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28
有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29
それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31
それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
 (1コリント1:26-31、新約聖書
 
その出典は旧約の次の聖句のようです。
 
 (エレミヤ書、口語訳)
9:23
主はこう言われる、「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。
9:24
誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる」。
 (エレミヤ9:23-24、旧約聖書
 
2つの聖句より、いつくしみと公平と正義を行っている主を知ることを讃えるのが讃美です。では、私たちは、主なる神を知っているでしょうか。否です。よくは知らないのですが、知りたいと思って信仰の道を歩んでいるのが、私たち信仰者なのです。
 
その存在を知ることは、それだけでも人間にとっては救いとなりますが、それは、主なる神そのものを知っていることにはなりません。知っていると言うには、恐れ多い御方であります。
 
そして、人の知恵や、人の世界の強さを、神の前に誇ることのないように、聖句は語っているのです。全く聖書の言葉を理解せずに、自分を高めるために、神を讃美する者は、神と信仰を嘲笑って、自らを高めているに過ぎないのです。
 
神が、愚かな私たちを選んだのは、私たちが賢くなったからではなく、偉くなったわけでもなく、どんな人間でも、神の前に誇ることがないためなのです。それは、自分は神を知っているとばかり、やたら讃美して、自らの信仰を誇ることのないためであります。
 
自ら、神の前に誇ることのない者は、人の前に誇るでしょうか、否です。神の前に誇らない者は、自らの弱さ、愚かさ、罪深さを知っているので、人の前でも誇ることはありません。そして、神を誇って信仰自慢をすることもありません。それが敬虔です。
 
つまり、聖句は、やたら神を讃美することを是としてはいません。
 
もし、讃美だから、いくらしてもいいだろうと思って、讃美しまくっている者がいたら、戒められるべきであります。
 
聖句の中の「誇る者は主を誇れ」とは、自分を誇ってはいけないという意味であり、地上での自らの高さ、強さ、賢さを誇るのではなく、信仰を自慢するという意味でもなく、ただ、総てのことについて、誇りを主に帰せよ、という意味に他ならないということです。
 
 
(2020年01月28日)
 
 
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