ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー教について(13)

 
  アドラー教について(13)
 
  2019-03-04  
 【永久保存版】他人軸でなく、自分軸で生きるって…こういうこと⁉︎
 https://www.adlersalon.com/entry/2019/03/04/%E3%80%90%E6%B0%B8%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%AD%98%E7%89%88%E3%80%91%E4%BB%96%E4%BA%BA%E8%BB%B8%E3%81%A7%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%81%E8%87%AA%E5%88%86%E8%BB%B8%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%A3
 
 
前から、一方的、断定的な教え方が、気になっています。自分軸は既成ではなく、一定でもなく、個人の獲得する項目です。つまり、自分軸からの判断の正しさは、絶対ではありません。
 
そこに、アドラー教の軸を一元的に恒常的に当てはめることは出来ません。課題の分離、承認欲求の否定は、どこまで?という問題が付き物であって、一つのの軸に納まるものではないのです。
 
言ってみれば、生きる効率や、健康のためということなど、ケースバイケースがいっぱいあると思うのです。必要もなく、個人の事情を考えず、それはあなたの課題といって無視することは、それこそ、自己中となって、必要のない波風や症候群につながる恐れがあります。
 

アドラー心理学サロンです。
あなたは、自分軸で自分の価値観に従って、自分らしく生きることができていますか?
多くの方が、他人に合わせてしまって自分を見失い、他人軸の人生を送ってしまっています。

 
価値観は成長にしたがって、変化しうるものです。自分らしさも、同じように変化し得るものです。他人の価値観で生きることのないためなのです。最初から自分の価値観というものが確定しているかのような書き方は、ものを知らない人の言うことです。
 

他人軸で生きることは、世間一般的な常識に捕らわれたり、他人の価値基準に従って生きることとなります。
つまり、自分で自分の価値観に従って生きることができていない状態です。

 
まるで、自分の価値観が元々あって、それを知らないから、他人の価値基準に従っているような言い方ですが、間違っていると思います。価値観は、学習によって、変わり、成長するのです。
 

これは、アドラーの観点から見ても他人と自分の課題の区別もできていなければ、誰かから認めてもらおうとする強い承認欲求を持っていることになります。
こうなれば、アドラーが危惧した通りに自分の人生が生きられずに、誰かが良しとした他人の人生を生きることになってしまいます。

 
こういう書き方が、アドラー教が、自己中心だと言われるゆえんでしょう。
 
自分の価値観は、自分が生きて、他人の価値観にも触れながら、獲得する性質のものであって、自分の価値観、自分の価値観、と言えば分かるという自覚ではないと思います。
 

他人の人生を生きるということは、自分でしか自分の気持ちを満たすことができないので、自分の中で見出さなければ手に入ることのない幸福を得られないことになってしまうのです。

 
自分の価値観の中に、他人の価値観への評価や参考事項も含まれていなければなりません。あるとき以降が、自分だけの価値観というのは、自己中の訂正不能の学習不能と同じです。
 

こうした他人軸での生き方を改めるには、アドラーの提唱している他者と自分の課題の分離、それから承認欲求の否定をすることが前提となります。
アドラーの課題の分離については、他人が自分の生き方や考え方をどう思っていてもそれは他人の課題であり、他人の課題には介入できないと割り切ることが必要です。

 
アドラー教は、この、課題の分離を振り回していますが、前から、自分の課題の中に、他者のことも含まれていることを無視して、自分の、自分の、課題、課題、と煽り続けているわけですから、振り回せば振り回すほど、自己中との境界が不明瞭になるということです。
 

そうして他人の目を気にしてしまい、誰かに自分を合わせてしまうことは自分の課題に他人からの介入を許してしまっていることになります。

 
他人からの介入という侵略のようなことではなく、他人のことを、自然に、自らの課題に含められなければ、自己中になります。ここの、アドラー教の一つ覚えは、とても怪しいと思う。
 

つまり、自分のことを他人がどう思うのかを気にしてその他人の認識を変えさせようとすることは、たとえ自分を変えることであれ、他人に過度に干渉して説得することであれ、他人の課題に介入してしまっていることとなります。

 
他人のことを気にすることを、他人の認識を変えさせようとすることと同列だという先入観で語っています。違いますね。そこから、他人に"過度"に干渉という言い方にすり替えることは出来ません。過度かどうか、それは、個人によって違います。こういうことを十把一からげに断定する傾向がアドラー教にはあります。
 
他者を気にするも、思いやるも、個人の経験や状況からの、個人の判断です。アドラー教こそが、個人の課題に介入しようとしています。
 

他人の課題に介入してしまっている以上、理論上はあなたも自分の課題に介入されても仕方ないと割り切ることが必要になってしまいます。

 
ですから、当然のように、他者を思いやることまでも、介入と言って、介入しているのは、アドラー教のほうです。言葉が乱暴な断定になっているのです。
 

アドラーの承認欲求の否定を身に付けるには、過度な承認欲求はあなたから自分らしさを奪い取り、特定の誰かに認めてもらえる自分に変えてしまいます。つまり、この時点で自分らしく生きることができなくなってしまうのです。ただ、人間は完全には承認欲求を捨て去ることはできません。
あなたの中で、変えたくないものを明確にしてここまで他人の為に自分を変えてしまうと自分が自分ではなくなってしまうというボーダーを理解しておくことがポイントとなります。

 
このように、ボーダーは、個人によって違うのですから、介入という言葉で、まとめて断定すると、他人を気にする、気遣う、思いやる、などと言うことも、うっかり含めて、捨ててしまう恐れがあるのです。
 

そもそも、どんなに他人からの自分に対する噂話や評価を気にしても、他人は自分の望むような評価をしてはくれないものです。

 
他人についても、評価をしてくれないと断定してしまえば、他人を悪者にして、自分中心、すなわち、自己中に向かう方向を促進することになるでしょう。
 

他人だけではなく、あなたも含めて人間には自分の知ることしか知らないし、経験できることしか経験しておらず、統一された基準で人やモノを評価することはできないので当然のことです。

 
「統一された基準で人やモノを評価することはできない」のだから、断定的に課題の分離を唱えることの弊害を考えるべきでしょう。まさにアドラー教は、課題の分離という言葉で「統一された基準で人やモノを評価」してきたという自己矛盾ではないでしょうか。
 

この課題の分離と承認欲求の否定という二つのアドラーの提唱する考え方が、他人軸ではない、あなたらしい自分軸の生き方をする為には基本となります。

 
課題の分離と承認欲求の否定を、個人によって状況によって変わってくる問題として、統一された基準で画一的に評価するような書き方をしないことが、アドラー教が、軸を押し付けることにならないために必要なことだと思います。
 
他人を気にする、という言葉では表せないほど、他人への心の向き、気遣い、思い、思いやり、評価、などというのは、複雑な高等感情を含むものですから、術語・言葉・教え一つで、なんでもかんでも一様に斬ったり語ったりはできない性質のもので、人と状況、さまざまな場合に、個別のデリケートな対応が必要になることなのです。
 
 
(2020年02月02日、同日一部修正)
 
 
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