ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

霊感と共感

 
  霊感と共感
 
 
信仰は、理屈ではなく、共感である
と言えば
霊感などを持ちだしてくる人もいるかもしれない。
神の導きや聖霊を知るためだからと。
 
人間の霊感がどれほどあるのか
私は知らないが
いちばん大事なものは
人間性に密かに用意されている。
それは心霊現象の霊感ではなく
人間的な共感するための感性である。
 
愛を理屈で語れないのは
いちばん大事なものが知識ではないからだろう。
 
特別なものを何か特別の超能の霊力で扱うのは
超人願望の現れであることが多い。
 
人間には
刺激によって反応するという当然のことがあり
また人間は
他者と共感するという性質を持っている。
 
共感は、共に感じると書くから
二人以上が、同じ感じ方をすることだろう。
だとすれば、共有している感性が必要であり、
共感は、稀ではなく起こることであるから、
多くの人に、備わっているものであり、
特別の霊感や超人になる必要のないものである。
 
共感性は、むしろ、好ましい人間らしさの特徴だろうと思って
私は、たぶんに、憧れているところである。
つまり、私は持っているつもりでも、不十分だから成長したい。

いくつになっても、信仰の話を書くようになっても、終わることはない。
 
(ネットより)
共感(きょうかん)、エンパシー(empathy)は、他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。もしくはその感情のこと。例えば友人がつらい表情をしている時、相手が「つらい思いをしているのだ」ということが分かるだけでなく、自分もつらい感情を持つのがこれである。通常は、人間に本能的に備わっているものである。しかし、例えば反社会性パーソナリティ障害やサイコパスの人物では、“共感の欠如”が、見られる[1]。近藤章久は深い共感と直観を精神治療の根幹とした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F
 
つまり、共感することが出来ないのは、異常と言ってよい。
 
信仰は、理屈ではなく、共感である。
 
今の時代では、聖書のキリストの言動や
キリストに救われた人々の言動、
そして、キリストと救われた人々との交流の記事に
共感するところから信仰は生まれてくる。
 
つまり、信仰は、とてもシンプルである。
 
へりくだり、かつ、罪人であることを自覚するしかない人々に
キリストは、この上ない共感の慈愛をいだいて接した。
 
そして、そのキリストの道は、
共感のない者たちによって殺される道でもあった。
 
処女懐妊、奇跡、肉体の復活、贖罪は、教理かもしれないが、
私が罪を犯す、キリストが代わりに十字架にかかる、私は罪を赦される
だから救われた、という理路が、それほど、ピンとくる話だろうか。
・・愛だろ、愛、・・とか言われそうな気がする。
 
キリストを信じる人は、
キリストの十字架にによって救われるという理路よりも
二千年前に、イエスという人が、自分の身代わりになって死んだ
という教理よりも、先に
キリストの人となりや、意図を感じることで、
既に、キリストを好きになっていることが多いと思う。
 
信仰の本質は、救われたと感じることであり、救いの理屈ではない。
 
今までにないキリストの人々への対し方を読むことで、
今までにない感動と共感を覚えることが信仰の始まりである。
 
 
したがって、理屈で、神はいないとか、完全な全知全能の神がいたら何ゆえ悪がはびこるのかとか、神の創造より進化論のほうが分かるとか、腐るほどあるような、ベタな疑いの話など、キリスト信仰者にとっては、煩わしいだけで意味を持たないのである。
 
また、神は、父性か母性かとか、信仰は人それぞれでカルトも間違っているとは言えないとか、霊感があって迷信深いから神の臨在を感じるとか、感情を抑えて論理を通すとか、断りたいのに断れないという困った状況に信仰をたとえるとか、押しつけだと言い張るとか、宗教書を読むときは、自分の霊感に従って読むのがもっとも大事とか、信仰を何か卑近な揉め事に喩えるような安易な小理屈などの、信仰の本質からどんどん遠ざかるような、安易さにも、うんざりしている。
 
また、一方で、天地は神が造った、アダムが罪を犯したことで悪魔の支配がはじまった、悔い改めは神が与える、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などという、人間離れした大昔の辻褄合わせや、自分を罪の話の圏外に置いた身勝手な自己正当化とかは、それこそ、共感することの出来ない者の、自分は聖書を読んで分かっているという自慢話に過ぎない。
 
宗教は、科学に対立するわけではない。
信仰は、学問でさえない。
 
物を相手にする理系の学問は、人を相手にする文系の学問に、無神論の主張に利用されるが、進化論のような、大昔の事実の学説などは、今の、人間一人の生き死にに何のかかわりがあるだろう。
 
そういう対立は無意味にしか思えないし、聖書絶対で、神の聖書の文字通りの創造を信じる人々は、神を讃えようとして、うっかり、自分が偉大なことに関わっているというアピールをしているに過ぎないとさえ思えるのである。
 
聖書とキリスト信仰に、創造説も、進化論も、今を離れて人間は生き得ないことを、逆に、再認識させる意味しかないように思える。だから、創世記や、数々の奇跡的な神のわざも、その史実性に今の人間がこだわることは、かえって、いちばん大事な信仰の愛も共感性も失わせている権威主義のように思えてならない。カルトが、まさに、そうなのである。
 
カルトは、そういうテーマを、わざと、書いてきて、それが、キリスト教の運命を左右する重要なテーマであるかのように、印象を吹き込もうとする。
 
そして、ある者は、その議論において、キリスト教の主張よりも科学のほうを優位と見なすことで、キリスト教とキリスト信仰を婉曲的におとしめたいだけなのだろうと思う。
 
いろいろな論争が、宗教と科学、カルトとキリスト教、教派の違い、信じ方の考え方の違いによって、明朗なキリスト信仰から、いろいろあって難しいですね・・というような共感を装う雑な見なしで、カルトに利用されているようだ。いちばん大事なことは、そんなところにはない。そんなことで、人間が、生きたり死んだり滅びたりはしない。
 
何か自分が持っているものを確定しないと気の済まないような、そのようなことに、こだわることこそが、人間としての営みや思考や情緒に、余計な飾りをつけ、余計な理屈をつけ、偉そうに見せたがる者たちの欲望とともに、信仰の中身を損なってゆくことを憂慮している。
 
 
神の民、キリストの羊は、死んでゆく自覚から、生かされる自覚へと、よみがえることによって、生き方の価値基準が変わることによって、地上の生の終わるときまでを、神聖の偉大さに比べて極小な自らであるがゆえの小さい希望から信じ仰ぎ、心を砕いて生きてゆくのである。
 
旧約は、おもに、神と人の違いを伝え、新約は、おもに、キリストの慈愛と同伴を伝えている。
 
神は偉大な創り主であり、キリストは慈愛と共感に満ちた飼い主である。その言葉について、必要以上に派手な飾りをつけるのは、自尊のためであり、安っぽくはなっても、正しい信仰にはならない。共感できないからである。
 
 
(2020年02月05日、同日一部修正)
 
 
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