ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー教について(15)

 
  アドラー教について(15)
 
2019-02-15  
【永久保存版】陰口、悪口、嫌がらせへの最強の対処策
https://www.adlersalon.com/entry/2019/02/15/%E3%80%90%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%89%88%E3%80%91%E9%99%B0%E5%8F%A3%E3%80%81%E6%82%AA%E5%8F%A3%E3%80%81%E5%AB%8C%E3%81%8C%E3%82%89%E3%81%9B%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%BC%B7%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%87%A6
アドラー心理学サロンです。
 
 
最悪の例をもって、暗示的に全体を云々するのは、詭弁ですし、表れてくるのは、よっぽど嫌いな人がいて、いやな目にあった経験でもあるのだろうかということです。・・こんなん、いるんですよ、いやですね、無視するしかありませんね・・と言いたいようです。
 

あなたの陰口や悪口を言ったり、あなたに嫌がらせをする人たちはどこにでも、どんな場所でも多かれ少なかれ必ず存在します。

 
陰口や悪口を言う人が、いつも陰口と悪口しか言わないとは限りません。一時的な場合もあるでしょう。本当に嫌がらせをする人というのは、一部の特定のヒトであることが多く、複数の人にそう思われていることも多いでしょう。自分の心得だけで解決するよりも、同意見の人がいるかどうか、聞いてみることも必要だと思います。
 

あなたのことをあら探ししては、一方的に嫌い、見下そうとしてくる人たちのことなんて気にかける価値すらありません。
とにかく無視して、相手にしないことです。

 
一方的かどうかは、冷静に判断する必要があります。そして、無視するといっても、それができにくい場合もあるでしょう。またしても、ブログ主は、一面的に豪語しています。
 

感情的になり、「あなたが嫌い」、「あなたを傷付けたい」を目的として、あなたを傷付けることばかり考えているような人たちと分かり合おうとしたり、見返してやろうと何て決して思う必要はありません。

 
よほど、ブログ主は、嫌われ、傷つけられそうになったのでしょうか。その相手は、本当にそういう人なのでしょうか。今までの豪語から見ると、まさか、ブログ主のような人ではないでしょうね。分かり合うことと、見返すことは、両極のようですから、結局、様々だということでしょう。
 

そんな人たちとは、そもそも理性的な会話が成立しませんし、あなたが気分を害して自分の時間を無駄にするだけです。

 
感情的に物を言う人はいると思いますが、それは、必ずしも、悪意だけとは言えない場合もあります。物の言い方は、理性と感情が、入り混じっているものです。その因果に、自分が含まれている場合も、あるときは自分が原因である場合もあるでしょう。そういう内省をしなくていいような言い方は、慎むべきです。
 

アドラー心理学では、他者との相互理解を勧めている一面はありますが、アドラー心理学の目的論から考えれば、「あなたを傷付ける」ことを目的とした人間と関わること自体が無駄な時間と労力となります。

 
傷つけることを目的とした人間というのは、サイコパス的な人間かもしれませんが、容易く、そういう見なしをすることは禁物ですから、相談相手を探すことが大事です。無視しろ、関わるな、と言って片付けてはいけないと思います。サイコパスは、追いかけてくることもあります。
 

自分を嫌い、陰口や悪口を言ったり、嫌がらせをしてくるような人たちの自分を見る目を変えさせて、理解し合って仲良くなりたい人は少数派だと思います。
むしろ、距離を取って関わらないようにするくらいでいいんですよ!

 
さきほどは、「気にかける価値すらありません」「とにかく無視して、相手にしないことです」と言っていたのに、ここでは、距離を取って関わらないようにするくらいでいい、と言っています。感情の勢いで、物の言い方が変わるブログ主のようです。
 
相手が関わってきたときには、どうすればよいのでしょう。
 

そんな自分を嫌い、自分のあら探しをしては、陰口と悪口ばかり言って、自分を傷付けようとばかりしてくるなら、そんな人たち嫌い返しましょう。
ただ、嫌うことにも労力が入りますので、ひたすら無視をして相手にすることすら止めた方が賢明でしょう。

 
嫌い返す、ということができるのでしょうか。それで、解決するのでしょうか。しかも、また、無視して相手にしないことを重ねて言っています。
 

見返そうとして、努力して自分の価値を知らしめようとしたり、そうした自分を嫌う人たちが思わず尊敬してしまうような人間になろうとするは必要だってありません。

 
それは、上に書かれているような攻撃的な人に対して、こちらが依存している場合を除いて、誰もしないのではないでしょうか。
 

最初からそんな人たち、相手にしたりする価値なんてありませんので、自分を高めてそうした人たちの視界にも入らず、視界にも入らない、同じ空気すら吸う必要の無いところまで自分の価値を高めて別次元の世界に行けるようにしてしまうことをおすすめします。

 
「最初からそんな人たち、相手にしたりする価値なんてありません」と、どうして分かるのか、ブログ主は、徹底して一目散に逃げるように言っています。暴力でも振るうなら、必然的にそうなるでしょうけど。
 

アドラー心理学には「承認欲求の否定」という考え方があり、強い承認欲求を持つと自分の本来やりたいこともできず、誰かに認めてもらうことを目的として他人の人生を送ることになってしまうという考え方があります。

 
承認欲求の強い人は、依存関係にある人ではないでしょうか。そういう場合、ずるずると引きずられてゆくのでしょう。依存していなければ、暴力でもないなら、自分軸を表すことは、必然として、出来ると思います。何かを指示される必要があるのでしょうか。
 

あなたは、自分を嫌い、陰口や悪口を言ってきては、嫌がらせしてきて、自分を傷付けようとしてくるような人たちに認められるように生きて、自分の人生を浪費したいのですか?
そんな人は恐らくいないと思います。

 
いないなら、言う必要もないでしょうに。気づかせようとしているのでしょうか。しかも、相手について、また、とんでもない人を想定しているようです。
 

もちろん、見返してやる!と思って努力して成長できることは素晴らしいことです。
ただ、それでは折角のあなたの人生が、あなたを嫌う人たちによって変えられてしまう可能性があります。

 
見返すことができるかどうかでしょう。ひどい人というのは、実績によって見返しても、それを認めないか、ますます、嫌悪と怒りを募らせる人もいるでしょう。変えられるというより、被害をこうむらないように注意が必要です。ひとまとめに、こうしろ、と言うことよりも、やはり、個別に、相談できる人を探すべきでしょう。
 

アドラー心理学の課題の分離の考え方で説明しますと、あなたのことをどう思い、嫌うか嫌わないかは他人の課題であり、あなたの課題では無いのです。

 
自分が相手を嫌うと、相手も自分を嫌うことが多いでしょう。相手の課題であるところの、自分を嫌うかどうか、ということに、自分が干渉していることになります。なんだか脆弱な理路という感じがします。
 

他人の課題に介入して、相手を自分のこと嫌わないようにしようとすること自体が本質的には不可能であり、あなたが余計な悩みを抱える結果となってしまうかもしれません。

 
自分を嫌うかどうか、という相手の課題に、自分が影響を与えないということはないでしょうから、不可能とも言えないでしょう。ありうることを、理屈で、不可能と言っても仕方ないでしょう。
 
複雑な人間関係の問題を、課題の分離で、すっきりさせることは出来ないと思います。課題は、確定的に分離することは出来ないように思われます。
 

それならば、このアドラー心理学の課題の分離の考え方をもとに、アドラーは他人の課題にも介入すべきではなく、自分の課題に他人を介入すべきではないとしておりますので、あなたのことを嫌い、陰口や悪口、嫌がらせを受けても、そんな人たちに自分の課題への介入は許さない!と考える方が良いと思われます。

 
こういう間違いは、自分の課題に相手の存在が含まれ、相手の課題に自分が含まれる、ということを無視してしまう短絡から生まれます。
 

基本的に、他人のあら探しをしては、陰口や悪口を言いふらしたり、嫌がらせをするような人たちは劣等感に満ち溢れており、他人を見下して惨めな自分たちの傷を舐め合い、劣等感を穴埋めしようとしているような人たちです。

 
そういう悪ばかりという人たちは一部です。それを、ボロクソに言っても、その見なしが、悪口か忠告か批判か微妙であるような問題を、思考停止に誘導してしまうでしょう。一面的なことで、全体を法則のように決めつけるのは詭弁だと思います。
 

つまり、永遠に成長することのない人たちであり、あなたにとってその存在を認識すること次第が無駄どころか害にしかならないのです。
何でもかんでも他人のせいにしては、自分は悪くないと吠え、他人に対して「こうあって欲しい」という自分の希望ばかり押し付ける甘えん坊でもあります。

 
ブログ主は、一部の人を、成長しない、有害で幼稚だ、とボロクソに言うことで、気晴らしをしているにすぎないのに、それで、幸福への道を説いているつもりなのでしょうか。
 

そんな人たちに、あなたは認めてもらう意義や価値があると思いますか?
むしろ、こうした人たちは、どんな形であれあなたが反応してしまうと、自分たちには反応されるだけの価値があるんだ!と実感してしまい、問題行動を繰り返させてしまい、ますます惨めな状態に陥って出てこれなくなってしまいます。

 
一部の人たちを、付き合う意義や価値がない、問題行動、みじめな状態、と言って、さんざん、こきおろしていますが、そのように、はっきりした極端な悪の人々との、付き合い方というか付き合わないということを言って、なんになるのでしょう。
 
もっと、繊細で微妙な心遣いが必要とされるのが、人付き合いというものです。人付き合いを、こういう短絡で考えて生きているのなら、そのことこそが、問題行動というべきでしょう。
 

この人たちの為にも、相手にせず一切反べきではないのです。
ほとんどの人たちは、そんな人たちに認めてもらいたくもなければ、そんな人たちの「こうあって欲しい」という希望を叶えてあげたくもないことでしょう。

 
ブログ主はボロクソに言ったのだから、「この人たちの為にも」は、余計です、というか、治す気もなく絆創膏を貼るようなものでしょう。
 
いったい、誰に認めてもらいたいのでしょう。自分を最初から最後まで認めてくれるような、そんな都合の良い人というのが、ボロクソな人と同様に稀ではないでしょうか。
 
他者を分類するように思い見なして自分の欠点などを考えないで自分中心のあり方を説くのは、他者に依存せず自立した生き方を説くのとは説き方の方向が違うと思います。課題の分離を巡っては、このような、自尊と他罰の考え方になりやすく、問題が多いと思います。
 

自分を嫌い、見下してくる人たちに対しては、「見返してやる」と思ってその人たちがすごいと思う存在になろうとしてあげる必要性すらなく、とにかくそうした人たちから距離を取れるように、関わる必要が無くなる方向で自分のやりたいことに打ち込み、自分をより高みに導いていくことで、そんな人たちと同じ空気を吸う必要も、そんな人たちを視界にも入れなくて済み、やりたいこともできる満たされた自分の人生を、より幸せに生きれるようになります。

 
自分を嫌い、見下してくる人たちに対して、自制が全く必要ないような言い方をしています。付き合えるか付き合えないか、という問題と、自分がいかにあるべきか、という問題は、別であって、課題の分離によって、全部解決、などというのは間違っていると思います。
 

結論としましては、自分の陰口や悪口を言っては嫌がらせするような人たちへの対処方法は、ただ、ひたすらに無視をして相手にせず、自分の課題に介入して邪魔してこようものなら、徹底的に邪魔させないように使えるもの、援助してくれる人たちに頼ってでも拒否してしまいましょう。

 
人間関係の問題に、まるで、防犯のような対処を教えています。
 
"自分の陰口や悪口を言っては嫌がらせするような人たちへの対処方法"として、自分の欠点の可能性を考えないで無視して、自分中心に、対象だけに原因を求める考え方は、著しい片落ちであり、他罰的な人格を造るだけになるでしょう。
 
問題となる原因や理由を、自他の問題そして状況について考えないで、対処することは、自己中のやり方です。そういう対処の仕方を続けていると、気に入らない相手を、次から次へと無視してゆくことになるでしょう。
 
援助してくれる人たちに頼るのは、そのような無視したり排除したりする110番のようなことではなく、いっしょに、冷静に、客観的に、原因を考えてくれる人を求めることに他なりません。
 
 
(2020年02月09日)
 
 
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