ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

汚い読書

 
  汚い読書
 
 2020年02月11日
 理想の世界の存在と現象世界との関係について
 (『宗教的経験の諸相』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/23483194.html
 楽山日記(LD)
 
 
読書という行為にも、ある種の人間においては、汚い、と言わざるを得ないことがあるようです。
 

しばらく積読にしたまま放置していた『宗教的経験の諸相(上)』を開いてみたら、冒頭の原著序に著者の結論は論考の最後にあるといかにももっともな助言があったので、根がどこまでもせっかちかつ単純にできている自分としてはさっそく著者の言う通りにしないわけにはいられず、下巻の後記を確認してみた。なかなかに難解な文章ではあるけれども、三歩進んで二歩下がるようにして文字を追うならば、幸いなことにおぼろげながらではありつつも著者の思想は理解できなくもない。有体に言えば著者の文章の背後には評判通りの心霊主義的な思想が深く根を下ろしているようだ。

 
(ネット検索)
ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA
 
ウィキペには、W・ジェイムズは、哲学者、心理学者と書いてありますが、霊が分かるっぽい?楽山は、心霊主義と言っています。
 
「著者の思想は理解できなくもない」というのは、楽山が、自分の霊能力を誇示するのに、都合の良い文章が見つかったということに過ぎません。楽山は、自己顕示欲という偏りによって、冷静な読書が出来なくなっているようです。楽山の解釈は理解によるものではないと思います。
 

まず著者は、思想家を自然主義者と超自然主義者とに分け、次に超自然主義者を洗練された超自然主義と愚かしい超自然主義とに分け、前者は理想の世界とこの世界とを交わることのないものとし、

 
こういう分け方は、その学者の説であって、本当に分けられるかどうかは、別であります。評価というものは、多くのことを説明しうるか、また、その説明が新しい理解を促すかということになるのです。
 

後者は理想の世界とこの世界とは交わることのないものではなく、理想の世界からの何らかの影響をこの世界が受ける可能性は否定しないというものであるらしい。そして著者は自らを愚かしい方の超自然主義に属するであろうとしている。

 
楽山の筆致は、いつものように、曖昧なボンヤリ言語ですから、はっきり言っていませんが、理想の世界というのは、上に書いてあるように、超自然の世界のことなのでしょう。つまり、読んだ本が、楽山の大好きな心霊の世界を言っていると楽山は思い込んでいるようです。
 
そして、現実の世界が何らかの影響を受ける、というのは、霊が分かるっぽい楽山自身を正当化しして、自分は特別な存在だと思いこみたいからなのでしょう。
 
"心の理論"でも、似たような、超常を自分に引き寄せる?かのような解釈をして、私は、それが、実に幼稚な空想と言うべき誤謬であることを指摘しました。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
 
また、奇跡の話においては、とんでもない理路の詭弁があり、楽山の理路の検証能力と常識的な理路の組み立てが破壊されていることを指摘しました。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12562025912.html
 
そのようなことがあって、楽山が人に自説を信じさせるには、詭弁などの騙しのテクニックを使うしかないし、使ってきたし、これからも使うだろう、という判断になっているのです。
 
超自然は、現実に影響しても、超自然つまり超常なのだから、その影響の仕方など、人間に分かることはない、ということを考えないで、自分を超常の影響を受けて驚くべきわざを知り、かつ、行なう人だと思い込みたいのでしょう。
 
しかし、影響を受けるということは、この世界に影響するような超常世界がある可能性という考え方ですから、一般的な可能性の話であって、我欲と我執のナルシシスト楽山の思い込み超能力を指示も支持もしてなどいないのです。こういうところにでも、楽山は、自己愛によって本の話を自分に引き寄せ、自分を高めようとしてくるのです。
 

また著者は数多の宗教的経験が証明していることはただ一つであって、それは人は自己よりも大きいあるものと合一し、それによって平安を得ることが可能だということであるという。あるものとは自己の内の自己を超えたもののことを言っているのか、自己の内とも自己の外ともいえる理想的ですべてを受容しうるもののことを言っているのかどうも判然としないところもなくもないが、心霊主義的な解釈によればそれがなにを指しているか、そう悩むことなくおおよその意味は了解できそうではある。

 
人文科学の学者の主張というのは、自然科学の法則や定理と違って、大方、決定的な結論に至ることはありません。説として、説得力と信頼度によって、一定の位置を占めるだけなのです。
 
にもかかわらず、楽山は、自分に都合の良い主張を、自分に当てはめて、しかも、暗示的な表現で、実は、決めつけているのです。これが、カルト的な偽霊能者の自覚と自尊に囚われた楽山の書物アサリの目的なのでしょう。
 
このような目的で、本を、冷静に読んだとは全く言えませんし、ますます、カルト精神に、学者の名前まで利用して巻き込もうとしているのでしょうか。まるで、超能力者とか高名な学者とかを気取る子どもが、実際は、九九を覚えられず、掛け算を何度も間違えている格好です。
 
人間としての身の程を弁えないということは、本当に人格を偏らせ、破壊してゆきます。
 

とはいえ当然ながらそれを体現し、実感として知ることは誰にでも即日可能というわけではないだろうが、一応の知識として記憶にとどめるだけであればその意欲さえ保持しているならば誰にでも可能のはずではある。

 
即日可能というわけではないだろうと言っていることに注意するべきでしょう。直ぐには無理だが、いつの日か、超常からの影響を悟ることができるだろうという可能性を自分に当てはめているのです。自分が霊が分かるっぽい超能力者?であることの意欲を保持することを正当化しています。
 
同時に、楽山が、ボンヤリ言語で、今まで、いかなる狡い詭弁や、婉曲表現で、キリスト教とキリスト信仰をおとしめてきたかを考えれば、この人だけは、霊の力など身につけてほしくないと願わざるを得ません。
 
楽山は、なんとか、自分はちゃんとしていて、柔和で、超常の霊の恵みに値する能力と、客観性を併せ持ちうる、ということを暗示したいようだが、いっさいは無意味です。
 
何故なら、楽山の、霊の話、"心の理論"の理解、聖書理解、奇跡についての話、いずれも、あきれるほど、幼稚な誤謬に過ぎなかったからです。学問までも悪用する楽山が表れているだけです。
 

最近はどうももっぱら超のつかない自然の世界のことに興味は限定されがちであり、実在界とも呼ばれることがあるだろう理想世界の方面の事柄については以前ほどの関心は持ち得ぬようになり、さらにはそういう課題が存在することさえも忘れていることも増えてきていたのではあるが、

 
真っ赤な嘘とは、このことです。この記事も、それまでの記事も、自分を飾るためだけに書いてきたとしか思えないものです。ナルシシストの自己顕示欲と、それに全く値しない楽山の実態だけが浮き彫りになってきた経過です。
 

やはりこういう文章を読むとなんとなしに懐かしい心持がしないではいられないのだからおかしなものだ。やはり自分では意識することもない心のどこかではそれを欲し続けているということなのかもしれぬ。

 
楽山の霊が分かるっぽい自覚を指示する材料は何もないにもかかわらず、楽山は、自分は悟って教える立場なんだ、特別なんだ、特別なんだと、藁(わら)をつかもうとして、いつも失敗してきました。今も変わらないのは、それだけ、我執が訂正不能に無反省に執拗に粘着していることだけなのです。
 

結局のところ、理想は外にあるとは限らず、もしそれが中にあるというならばそれがふさわしい時にいずれは浮上し影響力を行使するようなるであろうし、

 
このように、理想が中にあることを自分で言っています。狡猾なのは、自分の霊力と言わず、理想を主語として、中にあるという言い方をして、一般的な事柄に見せかけて、自分を高めようとする哀れな醜態をさらしていることです。
 
今までのことを知らない人なら、うっかり受け入れてしまいそうな表現を使うのが、楽山の詭弁家たるゆえんなのです。
 
ここは、楽山自身のことを書いているのですから、実際に言いたいのは、心霊の力が自分の中にあって、いずれ浮上し影響力を行使するようになる、という妄想的な予言?をしているわけです。
 
いつの日か、自己中しか持たない楽山が、霊能者として脚光を浴びると夢見ているなら、寒気のすることです。霊能というものが存在するとしても、楽山なんぞの手に負えるような安っぽいものではないでしょうから。
 

それならそれを信頼して無理に力むことなく、自然体で寛ぎつつ待つというのが自分には合っているということなのだろう。

 
楽山やシャロームなどの易坊類は、自然体を全く知りません。
 
彼らが書いてくる文章は、よく読めば、いつも不自然であり、文脈がつながらず、無根拠で一方的であったり、詭弁であったり、印象操作であったり、何を言いたいのか分からなかったり、言うまでもない当たり前のことであったり、おとぎ話か空想か妄想であったり、作為的にバカ丁寧であったり、わざとらしい芝居がかったものであったり、奇奇怪怪なものになっています。
 
自然というより、不全か憮然あるいは悲惨と言うべきでしょう。しかも、本人は、まともなつもりで、いい文章を書いているつもりで、載せてくるのです。
 
楽山は、今まで、あらゆる詭弁を弄して、婉曲的に、ボンヤリ言語で、キリスト教には負の、心霊と超常には正の、印象の刷り込みをしてきました。それらは、全部、どこにも通用しないような無理を通そうとしたものです。"自然体で寛ぎつつ"などと、よく言えたものです。真っ赤な嘘。
 
中身がないのに、ぼうっとしたまま、空を見上げて、口を開けて、良いものが降ってくるのを、待っている姿勢です。これは、もともと、恵みばかりを欲しがる信仰の誤った姿勢に当てるたとえだったのですが、ここで、楽山にぴったり当てはまるとは、むしろ驚きです。
 
ここまで執拗に、詭弁を弄して、印象操作を弄して、自己顕示してくる楽山に対しては、やはり、自己愛性人格障害、という見方をせざるを得ないのかもしれません。シャロームに対する判断と極めて近い判断になりますから、体質的なものか、それとも、悪意ある企みか、いすれであるかにかかわらず、決して近づいてはいけない人格です。
 
楽山に合っていること、楽山がするべきことを言うなら、だましの細工をしないこと、自らの置かれている立場を弁えること、今までのことを悔いて反省すること、これらは人間として当然のことですが、それができないならば、黙ることしかありません。しかし、楽山は黙らないようですから、逐一、批判を貼りつけるしかないでしょう。
 
 
(2020年02月15日)
 
 
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