ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

言葉と波動

 
  心の波動
 
 
心を表し伝えるために言葉を使います。
このブログもそうです。
しかし、私たちが罪深いように
人間の心を表すために使う人間の言葉も罪深く
心を、いつも、
間違いなく正確に言葉にすることは不可能です。
 
心を表すために対応させている言葉は
それこそ人それぞれの学習経過により
微妙に、時に、著しく
人によって違うものを伝えてしまい
誤解と曲解を生じます。
 
 
心と言葉が正確な対応でないゆえに
言葉に対応させているつもりの心は
言葉を確定することによって確定されるものではない。
 
言葉は心を託す暗号の一つで
言葉で対応するための心は
喩えるなら波動のようなものだろう。
 
固定した形を持つ言葉と
揺れ動く現象である波動を持つ心
一対一の対応などしようがないのである。

  
心の波は振幅を持っていて
言葉および感覚可能な媒体によって
あるとき感動という大きな波を生じても
別の時には振幅は減衰している。
 
感動は、いつも新しく
過去の感動は、感動したという記憶に過ぎず
感動そのものではない。
 
ゆえに、感動を伴うべきこと
例えば信仰において
言葉としての信条を唱えるのは
記憶を強化するが
感動を強化しない。
ゆえに、信仰を強化しない。
 
感動、癒し、慰め、恵み、赦し、などの
信仰にとって、なくてはならないものは
言葉の反復によっては強化されない。
 
しかし、私たちは、
信仰を表すのに言葉しか持たない。
 
言葉に関わることで
信仰を新たにすることについて
聖書は、端的に述べている。
"悔い改めなさい"と。
 
悔い改めることは
求道者が信仰者になる時だけではない。
信仰者の信仰生活の主軸である。
何故なら
それは祈りに他ならないからだ。
 
私たちは地上で完全になることはない。
ということは、気づかぬうちに罪を犯している。
だから私たちは精いっぱい正直に祈る必要があり
それこそが悔い改めである。
 
悔い改めによって
改めて学習することが
信仰の成長である。
 
私たち信仰者は悟ってなどいない。
神の前には、いつも恥ずかしい存在なのだ。
その恥じらいを敬虔と呼ぶ。
 
恥を知らない者になってはいけない。
 
祈りも不完全である。
祈りも恥ずかしい言葉である。
祈りが完全になることはない。
 
しかし、いかに不完全で恥ずかしくても
繰り返し、折に触れて、正直に、祈る必要があるのは
私たちが、不完全の自覚を持つゆえにこそ
神は、その寛容をもって、神の民である私たちが祈るのを
いつも待っておられるからだ。
 
祈りは、人から、神への、唯一の音信である。
 
 
(2020年02月17日、同日一部修正)
 
 
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