ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

善悪と判断

 
  善悪と判断
 
 私の前の記事「できることを」
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12577093969.html
 の続きのようなものですが
 
 
アメリカのドラマで、よく聞く台詞です。
 " Do the right thing. "
正しいことをしなさい、やるべきことをしなさい、という意味でしょう。とてもシンプルな言葉だなと思いますが、この台詞に文句を言うつもりはありません。日本でも、日本語で、似たようなことを言うでしょう。
 
 
私たちは、自分でも、社会についても、個人の利益や幸福を妨げることを、悪いことだとを判断しているようです。そこには、加害者がいて、悪人と呼んでいます。そして、自分なりに陰性の感情をいだきます。
 
しかし、私たちは、自分のこと以外では、被害者と加害者について、詳しい経過や、その心の有り様を、知っているわけではありません。
 
つまり、その時その場で、善悪の判断をしているのであって、その判断は相対的だが、それで、行動が必要ならば、行動の基準としています。そうしちゃいけないという理由はありません。そうするしかないからです。
 
ただ、本当に、どこも間違いのない善悪の判断になっているか、その判断には誤りが全くないか、ということについては、私たちは、完璧な根拠を持ち得ません。
 
人間が、判断して、行動するときの、判断は自分でするしかなく、その判断について、誤りの可能性を自覚しているでしょうか。
 
だから、正しい信仰を、ということではありません。信仰者においても、人間としての善悪の判断は、同じです。
 
むしろ、信仰者であるなら、神の絶対に対しての、人間の非絶対性つまり相対性を自覚しているはずですから、非信仰者よりも、よりいっそう、自分の判断に、神に対する恐れをいだいて、決めつけようとする傾向を抑制するのでなければ、信仰に生きているとは言えないはずです。
 
人間は、絶対正しいから実行するのではなく、それしか考えられないから行動するのです。
 
 
ですから、信仰について、信仰者のキリスト教的通念的道徳を押し付けてはいけない、ということは言えるでしょう。信仰は、神と人の関係、キリストと人の関係であり、道徳的行動はそれに伴うものであって、それに勝るものでも匹敵するものでもありません。
 
ゆえに、神が人に与える義は、信仰義認であって、行為義認ではないのです。
 
さらには、丁寧で控えめで、人を責めたりしない、という、これもキリスト教的な通念的道徳となると、殆ど、意味を持たなくなるでしょう。これらのうわべの態度は、むしろ、信仰とは無関係に、人が、単純なイメージで、生み出した先入観に過ぎません。
 
前から言っているように、聖句から、悪口を言ってはいけない、という道徳には注意が必要です。批判のことを悪口というのは、カルトには必発と言っていいほど見られるからです。そして、信仰者自身が批判されたときに、信仰者も、思いやすく、言いやすいことだからです。
 
批判には根拠があることを何度も言ってきました。しかし、批判は絶対ではありません。批判だけでなく、人間の言うこともすることも、絶対の正しさでは、決してありません。
 
つまり、批判を含め、あらゆる意見は、それを否定し改めさせるほどの優れた意見によって、修正される余地を残していなければいけません。それが、敬虔なのです。
 
そういう、動きうる心が大事だということです。
 
 
動かなくなった心は、停滞してゆきます。そして、人間の不完全性すなわち罪の性質によって、そういう心は、停滞にとどまらず歪曲したり固着したりする恐れがあります。いつのまにか、無条件に、それこそ、快楽原則の不快という原始反応のみによって、他者を否定したり、退けたりするようになる恐れがあります。
 
揺るがない信仰、というものを、勘違いしないでください。救いのありがたさに満たされ、そこに満たされた信仰?は、ときに、動く心を失ってしまって、観念のように固定されて、逆に、感謝や讃美のお芝居をさせるようになるからです。
 
揺るがない信仰というのは、忍耐強い信仰のことです。動くからこそ、忍耐が必要だからです。
 
 
判断し行動することには、人間として、疑問の余地がありません。そうするしかないことです。
 
ゆえにこそ、神を恐れるならば、自分で、善悪の"絶対"基準を作らないことが大事です。
 
絶対でなくても、判断することは出来ますし、行動することも出来ます。その思いや行為や、経過と結果は、祈りにおいて、神に捧げられるべきものなのです。そこで、信仰についても、行為についても、内省力が保たれるでしょう。
 
前から言っていますが、信仰は、神と人との双方向です。祈りは、人から神への唯一の音信であり、神に対する発言であります。
 
その信仰の姿勢こそが、立派に、完全に、なりたい、という、人間の思いこみの欲望から、人間を救うのであって、それゆえに、私たちは敬虔でありうるのです。
 
双方向と言っても、神様やキリストや聖霊が、人と同じように、ひょいひょい顕れて、言葉で教えてくれるわけではありません。神聖の臨在の体験を声高に豪語する向きには注意が必要です。自分が神聖な特別の者になりたがる欲望が働いている恐れがあります。
 
天国に行き、神聖になって、永遠になって、神のようにに聖なる者になる、などということは、人間には分からないことであります。神に任されることです。ましてや、生きている地上では、神聖に近づくよりも、神聖との違いを弁えるべきです。
 
しかしながら、人間として、信仰者として、正直な祈りによって、心が洗われるような、神妙な気持ちになるような、気が済むような、重荷が取れるような、安らかになるような、そういう体験を持ったことのある人は、少なくないと思います。
 
それが、少なくとも、人生の終わる時まで、同伴者がおられることによる癒しであり、人間の側から分かる祈りの効用です。神秘は神の秘密として知りえなくても、それは分かることです。
 
それが、ただの気休めでないことは、祈りの信仰によって生きてゆく人が、数えきれないほどいる、そして、いたことが、証しとなっているからであります。
 
いかなる人間も、人間の判断も、絶対ではありません。神の前に、自分が絶対ではないことを示すために、精いっぱい正直に告白する祈りこそが、信仰において最も大切な、悔い改めなのです。
 
 
(2020年02月24日)
 
 
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