ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー教について(20)

 
  アドラー教について(20)
 
  2019-11-11
 【読まなきゃ損❗️】人を傷付けたら、必ず自分に返ってきます❗️
 アドラー心理学サロンです。
 https://www.adlersalon.com/entry/2019/11/11/233008
 
 
説教というより、断定や豪語による言い張りの感が強くなっています。勢いが強く、その分、理路が乱れやすく、ときに、有頂天気分の勢い発言もあるようです。
 

人の悪口を言ったり、嫉妬したり、けなしたり、責めたりする虚しくて浅ましいことを考えること自体が、その対象となる相手よりも自分自身を強く傷付けています。
「悪口を言ったり、他人を傷付けたり、陥れるような人には必ずその報いがある」
こんな話を、あなたも一度や二度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
まさにその通りなのです。

 
人を無視したり、その時の冷たい言葉や態度にも、似たようなことが起こりえます。無視~軽視されたと感じたことがあるなら、その時のことを思い出してみるといいでしょう。
 

青臭い正義を振りかざすつもりも、非現実的な道徳的、宗教的な主張をするつもりも一切ありませんが、心理学的に実証されている事実なのです。
なぜかと言いますと、自分の思考や行動、言動は、望むと望まざるとに関わらず、自分の潜在意識に深くインプットされていくからです。

 
無視したという記憶も、潜在意識の中にインプットされてゆきます。無視したから忘れたつもりで、楽になったと一時は思っても、何かの切っ掛けで、その捻じれた様子が表れることがあります。つまり、あらゆる心の無理は、貯えられ、ときに、何らかの病的状態を招きうるということです。それは、情緒や思慮のゆがみとして表れてくることもあるでしょう。自分は気づかず、他者だけが感じるという事態ならば、かなり重症です。
 
気に入らない刺激や情報を無視して、学ぶことがなければ、学習結果が表れず、同じような無視を続けなければいけなくなり、しかも、その無理に気づいていないと、あるとき、修復されなかった傷として、あるいは、痼りとして、時を経て、新たな不都合を生むかもしれません。
 

潜在意識というのは、無意識的に自分の行動に影響を与えて自分という存在を作り上げている意識のことであり、自分が自覚している顕在意識とは区別されます。
先ずは、潜在意識と顕在意識の違いについて紹介させていただます。
潜在意識は無意識と同義語で、生命を維持する活動である呼吸や食事、睡眠などの習慣は潜在意識レベルで行われている活動となります。

 
(ネットより)
あなたの人生を大きく左右する潜在意識(無意識とも言います)。
https://1happy.jp/senzai.html
無意識(むいしき、独: das Unbewusste、英: unconscious[1])とは、意識を失っている状態(ふつうの心理学や精神医学での用法)、または精神分析学を創始したジークムント・フロイトの発見に始まる心的過程のうち自我では把握できない(意識できない)領域を言う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98
 
潜在意識(無意識)は自覚されない心的過程を意味します。
 
呼吸などの生命活動は、ただの無自覚の生理現象であり、心的作用があるわけでもないので、潜在意識とは言わないのではないでしょうか。
 

顕在意識は自分で自覚ができている意識のことを表しており、「今日は早めに寝よう!」などと意識して行う活動は顕在意識によるものです。
アドラー心理学では、無意識と意識を包括する全体としての"私"を取り扱うので、潜在意識の話をするのは少し変なのですが(笑) 大切なお話ですので潜在意識の機能面については解説をさせて頂きました。

 
潜在意識は、潜在しているのです。そう簡単に説明できるものではありません。そういうところでさえ、言葉を並べて、説明したつもりになり、解決したつもりになるのは、いっそう危険です。
 
あるとき、言いたいことを言って、あとはあなたの課題ですと、去って、放っておく人になるかもしれません。それで、お気楽に生きているつもりでも、潜在意識のゆがみは、心を、少しずつゆがめてゆく可能性があります。しかも、ゆがみは、なかなか自覚されにくい性質を持っています。そして、言われたほう、無視されたほうの心は、もっと深刻になりえます。
 
聞かなければ、楽になったような気がするでしょう。けれど、学習がなければ、成長しないために、自己中に気づかず、自己中を返されて初めて気づくことになり、それは、相当な心の病巣となる可能性があります。
 
言い放って終わり、そして、何も人の言うことを聞かないでいる自分に気づくことになるかもしれません。あるいは、そういう人だと見なされて、必要以上に、逆に無視されてゆくかもしれず、知らないうちに、信頼されなくなっているかもしれません。
 
他者に貢献するし気配りもするから大丈夫と言うのは、自分の基準ですから、貢献を受ける側とは異なる場合もあるでしょう。
 
言動は、注意や気配りを怠ると、常に、その言葉や行為のみならず、それ以上に、その心、その人に、いずれ返ってくると考えたほうがよいのです。
 
無視して、気が楽になるのは、刺激のない所に自閉して逃避しているに過ぎないかもしれないのです。
 

無意識的に当たり前のように行なっている生命活動を司る潜在意識は、前述の通り普段話している言葉や日常生活レベルでやっていること、ぼんやりと少しでも考えることに非常に敏感に感化されてしまいます。

 
敏感というより、不条理に感化されて、心全体に悪影響を与えてしまう恐れすらあります。
 

例えば、いじめをしている学生がいたとして、その人達は暴力を振るったり、人の嫌がることをしたりとネガティブなことばかりを考えては、積極的に行動に移しています。
こうした人達は、相手よりも自分自身を傷付けている可能性がかなり高いのです。
なぜなら、潜在意識は暴言を吐いた時の言葉の主語や、暴力を振るった加害者と被害者を区別できないからです。
つまり、知らず知らずのうちに、他人に八つ当たりをして憂さ晴らしをしているように見えて、自分の自尊心を痛め付けては潜在意識に「自分の愚かさ、惨めさ」を大量にインプットしているからです。

 
加害者と被害者を区別できないのではなく、加害者であることに、顕在意識が反応しない分、潜在意識が溜めこむということでしょう。知らず知らず、事態が悪化してゆくのですが、気づきにくくなり、決定的になってしまう可能性ということです。被害だけでなく、加害と加害のもたらすものも、ストレスになってゆきます。ストレスの多くは、気づきにくいものです。
 
他者を、気に入らないからと無視する習性を身につけてしまうと、いつのまにか、自己中になり、無視というのが、対象のある心的作用となり、加害者に起こるのと同じような事態の悪化を招くかもしれません。
 
刺激がなければ楽なようでも、その分、心が揺さぶられなくなり、月並みな理路を辿るほうに向かい、感動する言葉を求めなくなりそうです。
 

他人から言われたことは、自分には影響はあっても最終的にどう思われようと、何を言われようと、どんな気持ちでどんな行動を取るのかは自分で決めることができます。

 
おかしいですね。行動の決定のうち、意識されない原因に基づくことは、その段階では、自分で決めることができるとは言えません。何故なら、潜在意識は無意識の世界だからです。
 
さらに、最終的にどう思われるかということは、一生に影響を与える可能性があります。人間という存在を、ぞんざいな言葉で扱うことのリスクが、表れている文章です。
 

しかし、自分でやったことは、自分の生命活動を司る程に強烈なエネルギーである潜在意識によって、ネガティブな思考、行動、言動をひたすらに引き起こしては、同じ部類の人種を引き寄せてしまうのです。
つまり、すべては科学的に自分に返ってきてしまうのです!
断言します!

 
上に書いたように、科学的に、潜在意識の理解が、ぞんざいです。
 
今、やっていることが、そういう結果に結び付く可能性も考えるべきでしょう。引き寄せるのは、悪い仲間だけでなく、怖い敵であるかもしれないのです。・・断言するための言葉についての考察の甘さが表れている・・
 

いじめや嫌がらせをするような人達は、今後ますますネガティブさに磨きをかけて、まともな人間と関わることができないまま、落ちぶれ同士で傷を舐め合うだけの人生を送ることになります。

 
・・ことになります・・と、まるで呪いのような決めつけ表現になっています。個人的感情が丸出しです。教えるよりも、言い放って豪語したい情動と欲求の表れでしょうか。
 

どこかで反省して、「他人のせいにしていないで自分のことは自分でやろう。自分が傷付けた人達には深く陳謝し、勇気を持って自分の人生を生きよう!」とまで思えないとまともな人生は送れません。

 
一方で、気に入らないことを無視することは、反省をしなくなってしまう恐れがあると思います。
 

人の悪口を言ったり、他人に嫉妬してあることないことデマを広めては嫌がらせをしたり、他人のあら探しをしては、欠点を見つけ出してグチグチと文句を付けるような人に幸せな人は1人たりともいません!

 
そういう見せかけの幸いに酔い痴れる者は、確かにいて、自分では、平安に満たされていると言っていました。そこから、そういう者は、平気で嘘を吐くのです。さかんに世辞を言うこともありますが、そういう者の基本的な感情は、あざ笑いです。理路はなく、自己中であり、かつ、自分が上、他者が下、という訂正不能の見下ろす姿勢が基本となっています。
 

そういえ人達は調子に乗っているように見えるだけで、一時の落ちぶれ同士の馴れ合いで自分を安心させているだけ。

 
カルトには、そういう人が多いと思います。現状に不満、他者に軽蔑、社会に怨恨、というものが、鬱積している者たちでしょう。
 

言わば、他人を傷付けることは自分の心のリストカットのようなものですね。麻薬にも近い危険な行為なのです。

 
他害と自傷を混同するべきではありません。しかし、両方の場合もあり、心が棘(とげ)だらけになってゆきます。
 
それを防ぐために、世事と世辞だけを学んで、あとは気に入らないことを無視するようにしても、闇が深くなるだけなのです。
 
反省するべきなのに、反省だけはしない人として、むしろ、そういう人から逃れるために、もはや、関わらないこと以外にはなくなってゆきます。
 

悪口を言うような人、悪口仲間同士でも信頼し合えていません。「次は自分の番かな?…怖いからもっと弱そうな奴の悪口を自分から言っておこう!」といった具体で永遠に落ち着けることはありません。

 
「次は自分の番かな?…怖いからもっと弱そうな奴の悪口を自分から言っておこう!」・・ブログ主は、心理劇でも志しているのでしょうか、どういう芝居の台詞の脚本なのでしょう。
 
仲間同士でも信頼しあえていないなら、その人の行く末は、だいたい決まってきますが、権威的に従えている、または、仲間に対してだけは余裕を見せている、という段階は、有害で厄介なのです。
 

幸せに満たされた人生を生きている人に、嫌いな人に執着して暴言を吐いたり、嫉妬するような人は1人もいません!

 
そりゃ、いないでしょう。自覚的に、幸せなのですから。
 
ただ、幸せのつもりでいても、実際は、自己中の自己満足だけの人もいて、とても傍迷惑になることがあります。
 

普段から、自分を大切にして自分の思う悪いことはせず、自分が良いと思うことをしよう。
そうすればあなたは自分の潜在意識を豊かに保つことができて、どんな逆境にも挫けない勇気を得ることができ、自尊心を高く保って満たされない思いをすることはありません。

 
自分の思う良いことが本当の良いこととは限らない、という、内省が出来ない人は、自尊心だけ高くて、被害者意識が強く、言動において、とても傍迷惑になります。
 

常に自分の思考、言葉、行動はポジティブになっているところを想像するだけで、何だか幸せな気分になりませんか?
この状態になれれば、幸せで楽しく、自分の意志で前向きに人生を生きる人達の縁にも恵まれます。
自分の潜在意識を裕福にしてあげよう!

 
ポジティブは、無反省とは違うことを忘れてはいけません。潜在意識は、裕福にしようと思って裕福になるものでもないです。有頂天豪語ですね。
 
自分の意志で前向きに人生を生きる人達の縁は、他者を無視して与えられたり気づいたりできるものではないのです。むしろ、どんどん、そういう縁は遠くなるような気がします。
 
 
(2020年02月26日)
 
 
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