ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー教について(21)

 
  アドラー教について(21)
 
  2019-02-15
 【永久保存版】陰口、悪口、嫌がらせへの最強の対処策
 アドラー心理学サロンです。
https://www.adlersalon.com/entry/2019/02/15/%E3%80%90%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%89%88%E3%80%91%E9%99%B0%E5%8F%A3%E3%80%81%E6%82%AA%E5%8F%A3%E3%80%81%E5%AB%8C%E3%81%8C%E3%82%89%E3%81%9B%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%BC%B7%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%87%A6
 
 
単方向の豪語が目立っています。よほど人物に恵まれなかったのだろうかと思いますが、ときに恨みを込めているような書き方は、解説ではなく、煽りたいという気持ちでしょうか。
 
人を傷つけたら、自分に返ってくるわけですが、返ってきたものを気にしないために、課題の分離が悪用されるのではないかと懸念しています。
 

あなたの陰口や悪口を言ったり、あなたに嫌がらせをする人たちはどこにでも、どんな場所でも多かれ少なかれ必ず存在します。
あなたのことをあら探ししては、一方的に嫌い、見下そうとしてくる人たちのことなんて気にかける価値すらありません。
とにかく無視して、相手にしないことです。

 
よほど、ひどい人物を想定しているようですが、このように言うことが、気に入らないことを無視する単方向の習性につながる可能性を考えていないことが不思議です。つまりは、強く言い、豪語して、支持者を増やすことしか考えていないからではないかと思われます。
 

感情的になり、「あなたが嫌い」、「あなたを傷付けたい」を目的として、あなたを傷付けることばかり考えているような人たちと分かり合おうとしたり、見返してやろうと何て決して思う必要はありません。

 
傷つけることばかり考えているような人たちに対して、関わり続けて、見返してやろうなどと思う人がいるんでしょうか。
 

そんな人たちとは、そもそも理性的な会話が成立しませんし、あなたが気分を害して自分の時間を無駄にするだけです。

 
理性的な会話が成立しない相手に対しては、その旨を、根拠とともに伝えるべきです。そして、相手が納得することはないので、こちらがダメージを受けることのないように、相手を何とかしようなどとは思わないで、避難することを考えるべきです。
 

アドラー心理学では、他者との相互理解を勧めている一面はありますが、アドラー心理学の目的論から考えれば、「あなたを傷付ける」ことを目的とした人間と関わること自体が無駄な時間と労力となります。

 
課題の分離によって、自分の課題以外を無視するのであれば、相互理解は成り立たないでしょう。言葉だけ、深めるということも空しさが表れています。傷つけてくるだけの相手と関わることは、無駄などということではなく、危険であります。
 

自分を嫌い、陰口や悪口を言ったり、嫌がらせをしてくるような人たちの自分を見る目を変えさせて、理解し合って仲良くなりたい人は少数派だと思います。
むしろ、距離を取って関わらないようにするくらいでいいんですよ!

 
当たり前のことです。誰でも、自分を守る権利があります。
 

そんな自分を嫌い、自分のあら探しをしては、陰口と悪口ばかり言って、自分を傷付けようとばかりしてくるなら、そんな人たち嫌い返しましょう。

 
嫌い返すのは、復讐に近いことですから、相手をまだ意識することになります。相手と関わらないこととは矛盾するでしょう。
 

ただ、嫌うことにも労力が入りますので、ひたすら無視をして相手にすることすら止めた方が賢明でしょう。

 
ひたすら無視をして、ひたすら嫌われ、ひたすら機械返すことを繰り返していると、危ないことになる可能性があると考えないのでしょうか。感情が既に影響を受けているからです。
 
嫌い返すのではなく、相手が近くにいても、相手に影響を受けないようにすることです。傷つけてくるばかりの人に対しては、そうするしか身を守る方法はないと考えるべきなのです。
 
傷つけるだけの人に対しては、影響を受けない、そして、こちらの言ったことを、相手が聞くことを、もはや期待しないという距離を置くべきなのです。
 

見返そうとして、努力して自分の価値を知らしめようとしたり、そうした自分を嫌う人たちが思わず尊敬してしまうような人間になろうとするは必要だってありません。

 
ブログ主は、ちょっと、しつこく言っています。どんなときでも、身の安全を図ることと、心が傷つくのを防ぐことは、当然の権利なのです。だから、ことさら言うまでもないことなのです。
 

最初からそんな人たち、相手にしたりする価値なんてありませんので、自分を高めてそうした人たちの視界にも入らず、視界にも入らない、同じ空気すら吸う必要の無いところまで自分の価値を高めて別次元の世界に行けるようにしてしまうことをおすすめします。

 
いつどこが、傷つけるだけの人と判断する最初なのか、不明瞭です。
 
空気さえ共にしない、という、誇張した言い方ですが、別次元とかではなく、ただシンプルに、脅威から身を守るということです。
 

アドラー心理学には「承認欲求の否定」という考え方があり、強い承認欲求を持つと自分の本来やりたいこともできず、誰かに認めてもらうことを目的として他人の人生を送ることになってしまうという考え方があります。

 
承認欲求を完全に捨ててしまうことは、他者のために、どうしたらよいか、という思いやりの生き方を捨てることにつながるでしょう。上のような、ひどい人の場合に身を守ることが大切であり、一般的に一律に成り立つことではありません。
 

あなたは、自分を嫌い、陰口や悪口を言ってきては、嫌がらせしてきて、自分を傷付けようとしてくるような人たちに認められるように生きて、自分の人生を浪費したいのですか?
そんな人は恐らくいないと思います。

 
嫌がらせだけをしてくる人は、確かにいるのですが、こちらが本気にならないことが大切です。相手は、こちらが本気になって慌て出すのを待っているからです。
 

もちろん、見返してやる!と思って努力して成長できることは素晴らしいことです。
ただ、それでは折角のあなたの人生が、あなたを嫌う人たちによって変えられてしまう可能性があります。
アドラー心理学の課題の分離の考え方で説明しますと、あなたのことをどう思い、嫌うか嫌わないかは他人の課題であり、あなたの課題では無いのです。

 
相手の課題は、自分の課題の結果としても起こりうるわけです。人と人は、生きている限り、相互作用があり、相手の、相手の、と言うばかりで、関係を無視すると、自己中の無反省になります。関係の中で、緊急非難も含めて、いかに、自立するかという方向で考えるべきでしょう。
 
売り言葉に買い言葉、になると、苦々しい感情が残ります。
https://biz.trans-suite.jp/19858
 
つまり、売り言葉は、買い言葉に影響を及ぼすということです。いかなる時も、感情が勝ってしまうと、まともな結果は得られません。課題の分離は、分離したものを自覚することであって、分離させることではありません。だから、豪語は、必要ないのです。
 
自分の課題かどうかは、相手にもよります。良心的な人には思いやりを感じますから、自分の課題として、嫌われるようなことはしないでしょう。その場合、自分の課題に、相手のことが含まれることもあります。自分の課題と相手の課題、そんなにいつも明確に分けられるとは思えません。冷たく切り離す人にならないように注意してください。
 
一種類の言葉で、単方向の言葉で、総てを言い得るということはないのです。
 
ひどい人に対しては、見返してやる、などという思いも、捨てたほうがよいのですが、あえて相手に言うのなら、不快であること、問題にしていないことを、何か言ってくるたびに、返すだけでよいでしょう。
 
ひどいのになると、いつも自分に注目しているような言い方をしますし、いつも上から見下ろしてきますし、さらには、自分が言われそうなことをこちらに向けてきます。
 
例えば、依存、投影、自他未文化、など熟語を分かりもせずに当てはめたり、平気で、事実のでっち上げ、平気で嘘を、こちらに向けてくることもあります。ここに至ると、こちらに向けた悪い言葉を広めて、悪い風評を期待しているだけになります。
 
人を傷つけたら、自分に返ってくるわけですが、返ってきたものを気にしないために、課題の分離が悪用されるのではないかと懸念しています。
 

他人の課題に介入して、相手を自分のこと嫌わないようにしようとすること自体が本質的には不可能であり、あなたが余計な悩みを抱える結果となってしまうかもしれません。

 
前にも書いていた同じような課題の分離と介入という言い方ですが、だいたい、常識として、弁える上においては、特別の言葉は必要ないと思います。相手にもよるということを言い分けていないのは、不備と言うべきでしょう。感情的というか、・・言葉上、やさしくなったり、喧嘩腰になったりしている・・
 

それならば、このアドラー心理学の課題の分離の考え方をもとに、アドラーは他人の課題にも介入すべきではなく、自分の課題に他人を介入すべきではないとしておりますので、あなたのことを嫌い、陰口や悪口、嫌がらせを受けても、そんな人たちに自分の課題への介入は許さない!と考える方が良いと思われます。

 
自分の課題には、しばしば相手への思いやりが含まれるのであって、その場合、介入するというのとは違うし、また、介入させないぞと身構える必要もないのです。
 
依存傾向のある人には、自他未分化の人が多いわけですが、介入させないぞとばかり自立を過剰に意識して、課題の分離という言葉にしがみついていると、分離が防衛機制となって、人を無視して斬る方向に向きやすくなって、冷たい、または、怒りっぽい人になる可能性があります。
 
言葉に、こだわり、しがみつくことを、教条主義と言いますが、言葉から、乾燥した言葉の理屈をひねり出しては、豪語する、そして、同じことを何度も言う、という、例えばカルトなどに共通した特徴になりやすいでしょう。
 

基本的に、他人のあら探しをしては、陰口や悪口を言いふらしたり、嫌がらせをするような人たちは劣等感に満ち溢れており、他人を見下して惨めな自分たちの傷を舐め合い、劣等感を穴埋めしようとしているような人たちです。
つまり、永遠に成長することのない人たちであり、あなたにとってその存在を認識すること次第が無駄どころか害にしかならないのです。

 
また、恨みを晴らすかのような、恨み返しの言葉のようです。他者を、そのように見なすことが、既に、相手の影響を受け、相手に対して身構えていることになるでしょう。
 

何でもかんでも他人のせいにしては、自分は悪くないと吠え、他人に対して「こうあって欲しい」という自分の希望ばかり押し付ける甘えん坊でもあります。
そんな人たちに、あなたは認めてもらう意義や価値があると思いますか?

 
ここは、少しニュアンスが変わっているような気がします。甘えん坊と言えるくらいであれば、敵対意識も、それほど必要ないのではないかと思います。甘えん坊に認めてもらう意義や価値を考えるのでしょうか。甘えん坊という言葉で表されるのは、わがままな迷惑であり、攻撃性ではないと思う。
 
万難を排して逃げて遠ざかって避けるべき害毒は、自己中の人です。どんなに丁寧語で近づいてきても、反省しないし、罪悪感を感じないし、訂正しないし、言うには言うが聞かない、という、サイコパスにつながりそうな人格です。
 

むしろ、こうした人たちは、どんな形であれあなたが反応してしまうと、自分たちには反応されるだけの価値があるんだ!と実感してしまい、問題行動を繰り返させてしまい、ますます惨めな状態に陥って出てこれなくなってしまいます。
この人たちの為にも、相手にせず一切反べきではないのです。

 
甘えん坊には、冷たく、無関心で、無視をもって処することを言っているのでしょうか。甘えん坊の程度にもよるでしょう。対象の様態が不明確な書き方が多いようです。
 

ほとんどの人たちは、そんな人たちに認めてもらいたくもなければ、そんな人たちの「こうあって欲しい」という希望を叶えてあげたくもないことでしょう。

 
それでいいのではないでしょうか。どうしても、アドラー教の言葉を使う必要があるでしょうか。考えてみると、既に、アドラー教以外の言葉で、対応のノウハウは、考えられ、語られているのではないかと思います。アドラー教は、単純化したゆえに、多様性を見失っていると思います。
 

自分を嫌い、見下してくる人たちに対しては、「見返してやる」と思ってその人たちがすごいと思う存在になろうとしてあげる必要性すらなく、とにかくそうした人たちから距離を取れるように、関わる必要が無くなる方向で自分のやりたいことに打ち込み、自分をより高みに導いていくことで、そんな人たちと同じ空気を吸う必要も、そんな人たちを視界にも入れなくて済み、やりたいこともできる満たされた自分の人生を、より幸せに生きれるようになります。

 
自分を嫌い、見下してくる人たちに対して、見返してやる、などと思うことは少ないと思います。自然体を思うなら、付き合う必要がないなら付き合わず、自分のテーマに深く関わっているなら、もうしばらく付き合ってみる、などという対処ができるのではないでしょうか。話を、高尚な言葉らしく見えるもので、こみいった、めんどくさいものにする必要はないと思います。
 

結論としましては、自分の陰口や悪口を言っては嫌がらせするような人たちへの対処方法は、ただ、ひたすらに無視をして相手にせず、自分の課題に介入して邪魔してこようものなら、徹底的に邪魔させないように使えるもの、援助してくれる人たちに頼ってでも拒否してしまいましょう。

 
好ましくない相手を、陰口、悪口、嫌がらせ、そして、甘えん坊、などと表して、程度など多様であるのに、ひたすら無視して邪魔させないという鉄則のようなもので一律に処してよいような書き方をすれば、聞く人は、誤解や曲解で、極端になったり、甘くなったりするでしょう。
 
分け方と処し方が、柔軟になるように表すべきですが、ブログ主は、アドラー教の言葉を無理して当てはめて、境界不明瞭な教訓になっているようです。このことは、相手についての判断において、正確さを欠くことになり、受け取る側の判断の強弱が表れる余地があり、強から極端な短絡が、弱から徒労が生まれそうな気がします。
 
 
ちなみに、自己中になると、しかも、それを信条にしてしまうと、気に入らないことや不都合を無視することになります。
 
そうなると、気に入らないこと受けて止めてどう処理するかという学習をしないわけですから、心の成長がなくなってゆくのです。だから、いつまで経っても、安っぽくて浅薄な理路しか持ち得ない人格になるでしょう。
 
一つの、あるいは、一方向の、言葉、心構え、教訓、説教、などによって、心の安定が、一生担保されることは無いと思います。人間は、学習し成長する生きものだから。
 
心の安定や平安と、刺激を廃した安穏を、混同しないでください。
 
刺激の無視による安穏は、刺激がないので、つながるものがありません。
 
心の平安は、次の課題への意欲、すなわち、生きる力につながります。
 
 
(2020年02月27日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html   
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
https://philosophy.blogmura.com/christian/
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html