ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

敵を愛し?

 
  敵を愛し?
 
 
人間は、教えの中で、共感できて、受け入れられるものしか、受け入れることは出来ないのです。つまり、理解できる信仰の賜物には共感が可能です。
 
それを超える賜物を受け取るときは、いつも驚きであるはずで、理解はできないはずです。
 
すなわち、人間の共感を超える賜物について、聖書に書いてあるからと、受け入れた気色を自らに強いたり、自慢したりするのは、パリサイ人への道です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:43
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44-45
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46-47
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48
それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
 (マタイ5:43-48、新約聖書
 
前に、愛せるならば、敵とは呼ばない、ということを書きました。
 
神のごとく完全な者になりなさい、という教えだと、そのまま受け取って、完全になろうとすれば、結局、異論に対して発狂し怒り狂い罵詈雑言を浴びせるような教条主義者に堕ちるだけです。
 
この教えに対して、人間としての答えは、主よ、私のような者にはできません、という告白しかないのです。
 
キリストが、昔、地上に来られ、また、今、信仰者に同伴するのは、まさに、そのためであります。守れない罪人のために、キリストが来られたことを忘れてはいけません。
 
正しい聖書解釈というのは、人間が受け取れる解釈ということです。それ以外は、理解不能です。分からない箱に保留してください。
 
とても守れそうもないことを、そう書いてあるから、という理由で、自らの反省もしないで押し付けてくるなら、その者を、決して、受け容れてはいけません。
 
情欲の聖句と同じく、そのまま守ることなど人間には出来ません。それを、これ見よがしに誇って見せる者を信用してはいけません。その者は、少しばかり知識があって、ほんの少しばかり道徳的であったりしていることだけで、人よりも勝る自分と思いたいだけです。
 
この聖句を、そのまま守れと言うなら、キリストの荷は、恐ろしく重く、耐えられないものとなるでしょう。守っているかのような敬虔芝居を警戒してください。
 
教え → 守ります(できるだけ?) ではなく、教え→ 出来ません → お赦しくださいと祈る としか受け取れないのです。そのことによって、人は、罪人であることを実感し自覚し、キリストのもとに居つづけることができる、という信仰の文脈を覚えてください。
 
前にも書きましたが、神の前に、正直以外は、一切、通用しません。人間の善悪の判断など、神の前には、神の善悪の基準に比べれば、糞尿のように汚れたものです。
 
神の前に、正しくなることが信仰ではありません。それは、人間には、この地上では、無理なのです。神の前には、ただただ、正直であってください。
 
私たちは、確かに、判断し行動します。しかし、神の前に、その善悪について、私たち人間の立場では、お赦しください、以外の信仰はあり得ないのです。神に対して、守りました、分かっています、知っています、などは、神の前に、何にも分かっちゃいない傲慢の罪ということです。
 
キリストによって、犯罪人は、天国を約束されました。地上では死刑になることに変わりはありません。何故、救われたのでしょう。正直に、罪を認め、赦しを乞うたからに他なりません。
 
神の前に、正直であり得る者、あろうとする者なら、もはや、人の前で、白々しい故意と悪意の嘘は吐けなくなるでしょう。これが、行為としての、信仰の結果です。そして結果は様々です。したがって、人間の善行そのものは、信仰の芯でも条件でもありません。
 
行いを重視するのは、発言を含めて、そこからしか、信仰の是非を、人間が判断できないからです。しかし、その判断も、絶対ではないのだから、私たちの信仰の中心に、言動そのものを置くことは、到底、無理だと気づかなければいけません。
 
人間には、真理というより、真実というものがあります。絶対ではないが、一定期間、正しいと判断しており、変わることがなく、改めようもないことです。私たちの、行動の基準となるのは、そのような人間の相対的で可変の真実であり、神の真理ではありません。ここを誤解すると、信仰ではなく狂信に向かうのです。
 
つまり、神に向かって、できません、という告白は、信仰の芯であり、無くてはならないものであり、いつ、いかなるときも、私たちについて回ることであります。それを自覚できなくなるならば、極めて重大な信仰の危機なのです。
 
キリストは、何でも赦す気前を持って来たのではなく、どうしようもない罪に押しつぶされそうな人々を選んで、癒し、赦し、信仰の義を与えた、ということを忘れてはいけません。
 
 
(2020年03月01日)
 
 
昨日のスピーチから:
今日も、しっかり、ばんぜん、じゅうぶん、ばんじゃくな、だんじて、すべての、かくほ、すべて、ばんぜんの、みきわめる、しっかりと、あらゆる、おしまない、さっきゅうに、まもる、さいゆうせん、ちゅうちょなく、ないあくそういだいじんとして、せんとうにたって、けつい、・・つとめてまいります・・
 
評論家の意見:一般論に終始、国民の納得を、・・
 
私)
温度・湿度が上がると、ウイルスの生存率が下がるらしいので、暖かくなるのを待つことになるか。オリンピックは微妙だ。・・冬のオリンピックでなくてよかった・・?
 
 
(2029年03月01日)
 
 
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