ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

嘘の履歴

 
  嘘の履歴
 
 2020年03月01日
 間違いがある書物は、無価値なのだろうか? (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/23756420.html
 楽山日記(LD)
 
 
楽山の自己正当化は、とうとう、間違いも偉大だ、というところに来ているようです。偉大な人の間違いは、間違いを補って余りあるような業績があるから、なお、偉大なのです。楽山に、あり余るのは、嘘と詭弁の、うんざりするような履歴だけです。
 
この記事全体が、暗示とイメージの刷り込み、印象操作の詭弁です。
 
楽山は、とうとう、嘘を吐いている自分は正しい、と言い始めたのです。
 

『宗教的経験の諸相』を読んでいて、このくだりを読んだときは、思わず膝を打って「やった!」と言いたくなるほど共感できた。

書物というものは、おのれの運命の危機と闘いぬいた偉大な魂をもった人間の内的経験の真実の記録でさえあれば、たとえ多くの誤謬や激情が含まれていようとも、また人間の故意の作為がそこにあったとしても、りっぱに一つの啓示たりうる、ということを認めるものであれば、聖書ははるかに有利な評価を受けることであろう。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.18)
 」

 
楽山の言は、おのれの運命の危機と闘うことから徹底的に逃げて、先人の偉大な魂を裏切り、逆に悪用するところの、偽善者の表面的ボンヤリ言語の虚偽の記録であるために、誤謬ではなく捏造の大嘘と妄想観念であり、また楽山独特の故意の作為の印象操作、刷り込み、詭弁を弄するために、啓示どころか、一つの意見としても、悪意に満ちていて、成立することなどは、決してありえず、人間の醜さの掃きだめのようなものです。
 
楽山は、自分が間違っていることを、正当化するために、一生懸命書いたから間違っていてもいいんだよ、というふうに読解を捻じ曲げて、学者の聖書に対する評価を、自分に当てはめようとしているのです。それは、そのまま、楽山の、ねじけた根性の病理を表しています。
 
もう一度書いておきます。偉大な先人の間違いは、間違いを補って余りあるような業績があるから、それでも、なお、偉大なのです。
 
楽山は、このことを、気づかないのか、作為的にか、書きません。何故なら、訂正も償うことも出来ない楽山に有り余るのは、業績とは真逆の、嘘と詭弁の、うんざりするような履歴だけなので、自己正当化に引用を使えなくなるからです。
 
愚かなことに、楽山は、間違っても正しい、という、めちゃくちゃな矛盾律を、主張しているのです。これが、楽山の、読書にも表れる幼児性です。
 

聖書には歴史的に実際にあった出来事が書いてあり、間違いは一切ないという考え方もあるだろうけれども、その記述はすべてが歴史的事実そのままであるとまでは言えないが、だからといってそのことを理由として宗教的古典的価値までも完全否定されるとは限らないという考え方もあるだろうし、自分はどちらかといえば後者寄りの立場なので、本書のこの箇所には大いに納得できる。

 
聖書から、何も受け取らず、文脈も読めず、ただ、史実かどうかだけに、趣味的興味をもって、舌でベロベロと舐めるように軽く読んだつもりになっている自己満悦から、高名な学者の言うことを、自分に都合よく曲解して、聖なる書と言われるものを、自己正当化という欲望の痰ツボにしています。楽山の書く文章は、その痰ツボに、ばい菌だらけの黄色い唾を吐く行為であります。
 

またこの考え方は聖書以外でも通用するように思う。たとえば、物語は、間違いや破綻があったとしても、その価値を失うとは限らないというのは常識であろうし、音楽の方面では、「ベートーベンは偉大であったゆえに、その間違いも偉大であった」という批評があったりもする。おそらくこれらは真実の一端を示しているだろう。

 
醜い自己正当化が続いています。どういう根性を持ったら、聖書や、ベートーベンをネタにして、おのれを正当化するような、汚い真似ができるのでしょう。
 

間違いは少ない方がいいし、間違いを減らす努力は必要ではあろうが、でもそれ以上にもっと大切なことがあり、これこそがそのものの最終的な価値を決定するというのは本当だと思う。

 
間違いと、故意の嘘は違います。楽山は、理路と情緒がないのに、作為と悪意だけがあるために、人格障害の症状として、先人の書いたものや人格について、無反省に、自分に都合の良いところだけを、その文脈を弁えもせず、先人に対して畏敬の欠片もなく、つまみ食いをして笑っているいる盗人です。
 

*追記 2020.3.1
いつものことながら、書名は失念してしまったのだが、とある本で、聖書の記述に矛盾があることについて、それは意図的なものだとする話を読んだことがある。
もし聖書に矛盾がなく、一つの正しい解釈が成立し得るとしたならば、必ずや自分は聖書を正しく解釈し、その戒めを守っているとして、自己を誇る輩が出てくるだろうから、あえて矛盾した記述をすることで、唯一の正しい解釈を打ち立てることができないようにし、そのような輩が出ないようにしているのだと…。

 
楽山は、自分の矛盾には全くの不感不応でありながら、いつも、他者をネタにして、自己正当化を図ります。楽山が、他者を褒めるとき、それは、楽山にとって利用価値がある、ということでしかありません。汚い欲望の根性、全開です。
 

自分はこれを読んで、聖書に矛盾があったとしても、さほど気にならなくなった。ただひとつ気になるのは、こういう考え方は、カルト教団が知れば悪用しそうだということだ。カルト教団は教義に疑問を持つ信者には、こんな風に説明して煙に巻きそうだなと。「教祖様の教えに、矛盾があるように思えることもあるかもしれません。でもそれは決して、教祖様がその場その場でいい加減なことを話していたからだということではありません。教えに矛盾があるのは理由があるのです。その理由とは…」

 
「…」を書いてないので、中身のない文章になっています。楽山にとっては、自己正当化に結び付けることができれば、理路など、どうでもよい、ということが表れています。
 

宗教の聖典、教義に矛盾があったからといって、その宗教的価値が全否定されるわけではないのは当然ではある。でもこの考え方は時と場合によっては、本来それほどの価値がないものにさえ価値ありと誤認させることにもなりかねない危うさが含まれていなくもないわけで、この点は注意が必要である。

 
つまり、これが当てはまるのは、まさに、楽山だということです。間違いというより嘘だらけの楽山を信用してはいけないと思います。注意・警戒だけを向けるべき人です。楽山に、決して近づかないでください。楽山は、同類になることを求めて、書いてくるのです。
 
このようにして、嘘吐きや詭弁家というのは、名のある他者のことを述べて、間違ってばかりの自分も正しいと刷り込むような書き方が得意のようですが、結局は、自分を斬ることになるのです。
 
そこを明らかにして、そのうえで考えるならば、楽山を、間違っても、学者レベルですね、とか、何やら教祖みたいだ、とか、たとえ社交の世辞でも、褒めて言ってしまうことのないように、注意・警戒が必要です。
 
楽山は、軽い世辞で、安上がりに舞い上がる人です。それが、ボンヤリ言語です。批判的に読めない人は、無視してください。
 
学者の名前を出して、その人の本に書いてあるかからお墨付きであるかのような書き方で自己正当化の誤謬を故意に認めさせるように、言葉だけ拾って歪曲しています。まるで、笑いながら嘘を吐いて、世辞を受けて悦んでいるのが、既に目に見えるかのような、気色の悪い自己顕示欲の表れですから、けっして真に受けて騙されてはいけません。
 
 
(2020年03月03日、同日一部修正)
 
 
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