ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

vs偽善者

 
  vs偽善者
 
 実際の遣り取りではありません。仮想です。
 
 
私と、私たち総ての
人間の命とその終わりのことは
既に、神の計画の中に入っている。
 
ゆえに、私は安らぎを与えられているが
 
ゆえに、お前は怯えることになる。
 
 
お前が神を讃美すればするほど
それに逆らうのは
嘘だと知らずにお前によって
相手にぶつかっていったお前自身の
おびただしい言葉だ。
 
 
全能を甘く見ているお前が誰かを騙すとき
神もお前を騙すだろう。
 
だからお前は
丁寧で優しい言葉を使った白々しい芝居を
易々と見抜かれる。
 
だからお前は文脈を細工したつもりで
文脈から嘘を見抜かれ続けている。
 
 
国と力と栄えとは
かぎりなく神のものである。
 
ゆえに神の前に嘘を吐くお前からは
いくら貯えても、ことごとく剥がされる。
 
 
心貧しきは幸いなり。
 
お前は心を捨て貧しさを捨てた。
 
悲しむ者は幸いなり。
 
お前は不都合のとき
笑ってごまかすか怒り憎むだけとなり
悲しむことができない。
 
 
試練より立ち直る人は悔い改める。
 
お前は試練を経ることさえできないで
ゆえに試練が与える手がかりにさえ気づかない。
堕落と偽善の罪は人間の感性を鈍らせるからだ。
 
 
終末の日の裁きなど無いと信じ込む者よ
既に神を恐れず
人を恐れなくなった者は
恐れを知らぬ悪意が心を奪っているから
裁きは既に内側から始まっている。
 
ゆえに証しとして
善を見ても悪を見ても
お前は自分の言葉を紡げず
お前は他人の言葉を当てるしかなくなっている。
 
 
お前は真理?の立場に立ってしまったから自分で自分を守るしかない。
ゆえに、いつも、上の立場からしか物を言えなくなった。
併せてその態度が無礼であることに気づかなくなり
世事と丁寧語で上塗りするしかなくなっている。
さらに間違いを認めなくなったので
人間関係において
豊富に投げかけられる真実へのヒントにも気づかなくなった。
 
まわりが大人になっても、お前は、今も
子供じみた幼稚な言い返ししか出来ていない。
 
 
自信、また、自分を信じるとは、おじけをなくす意味で用いられる。
 
自分信仰は、自己製の絶対無謬性気取りをもたらし尊大となり傲慢となり
それこそ、その自己無謬性の、実は、誤謬と妄想性だけを問われるだけになり
それを無視することで、さらに人格の鈍麻から自己破壊に至る。
 
 
(2020年03月08日、若干修正して再録)
 
紡ぐ(つむぐ)
易々と(やすやすと)
無謬(むびゅう)=間違いのないこと。
 
 
Q: この記事の中に私の悪意が表れていますが、どこでしょう。↓↓
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp/
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
https://philosophy.blogmura.com/christian/
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 
A: もちろん、すべてです。
 
悪意に対しては、不快や敵意を感じて、無視することもあるでしょう。批判するとしても、理路の分からない相手に対して説明・説得は通じません。
 
辛辣な比喩を書くこともありますが、大事なことは、何ゆえ批判するかをいつも弁えて、そこから逸脱していないことの確認をすることと、自らの悪意をコントロールしていることです。ほとんど感情で物を言う相手に対して、こちらも感情に走ったら、批判になりません。
 
冷静に書いているつもりのときも、怒りはあります。そこには、どこか、悪意が働いています。人間は悪意を完全に捨て去ることは出来ません。悪意は人間の中に生きているからです。
 
だから、善意で話し合っていても、ちょっとした言葉や態度にイラッと来たりするのです。だから、あだ討ちのようなものを見て、やり過ぎと思っても、少しばかり気持ちよくなるのです。
 
陰性の感情は、急性の怒りや悪意があり、慢性の憎しみや恨みなどまでありますが、抑制しているつもりでも、チリチリと種火のように燃えているものです。
 
無理に悪意を持たないようにしようとすると、善意の真似だけの芝居をするような自己満足から偽善に至ることがあります。悪意を排除することよりも、悪意を自覚することのほうが大事です。自覚する限り、人間離れしてひどくなることは抑制可能だからです。
 
つまり、私たちが、怒りと憎しみと悪意という陰性の感情に対して出来ることは、せいぜい自らの理路と情緒と人格への影響を最小限にすることでしかありません。
 
だから私たちは

わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
(マタイ5:44より)
あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
(同5:48より)
 」
これらを守ることができないのです。
 
だから、また、申し上げます。聖句を読んで、なぜ、
 
主よ、守れそうにありません、主よ、守れませんでした、主よ、分からないのですが
 
と祈れないのでしょう。 
 
全能の神は、以上すべてのことを、既に、ご存知であるのに、どうして、余計な荷を追い、それで自らを飾り、気張り、言い張り、キリストの荷を忘れるのでしょう。
 
 

 
私は、感情的な表現から、次第に、分析的な方向に変わってきたという自覚がありますが、なお甚だ不十分であり、死ぬまで学習が続くわけです。対立する相手は、大方、カルト思想です。
 
カルト思想というのは、根拠も道理も常識も社会性もなく、きわめて安易に短絡して、自分を高めてくる劣悪な出来ですから、批判に対して、カルトは、理路で返せず、ごまかしの詭弁や罵詈雑言で返すしかなくなり、そうなってしまうことが、さらに、カルト的思想であることを、カルト自ら、証明することになります。
 
カルトは、言論の自由を悪用して、好きなように平気で人道に反することを言いふらします。言論の自由には責任が伴いますが、そういう責任を一切取らないのもカルトの特徴です。
 
カルトは、主張の根拠が、まるで無く、根も葉も土台もない所から思想を立てるので、結局、自己中の言い張りになり、社会悪になる必然を持っていると言えるでしょう。
 
カルトが犯罪行為に及ぶまでカルトとは言えないのなら、犯罪行為に及ぶ前日はカルトではないのかということになります。
 
被害が出る前に、早期に、逮捕できない段階でも、他者に危害を及ぼしかねない思想であるということを根拠をもって批判することは、これもまた、言論の自由なのです。
 
 
おしまい