ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

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 楽山日記(LD)
 
 
楽山と書いてありますが、筆致とコメント5より殆どシャローム( shalom、シャロム、あなた、彼) のコメントです。楽山は、最後の1コメだけのようです。
 
シャロームは、私のブログにコメントを書いても叩かれるだけなので、仲間である楽山のブログに、だらだら、だらだら、聖書の解釈めいたことを書いています。

知らないうちに、知らないところで、こっそり仲間に、批判者の悪口を書いているさまは、卑怯な偽善者らしい振る舞いです。だから、聖書解釈の部分は、ただただ、うっとうしいだけなのです。
 

1. 楽山(自由)2019年12月23日 23:04
1. 楽山さん st5402さん こんばんは2019年12月23日 22:42
楽山さん stさんは碌に聖書を読んでいないのですから、所詮我流の信仰でしかないのですから、論争しても徒労になるだけですよ。
聖書に聞くことでしかイエスさまに出会うことも信じることも出来ないのです。

 
聖書の解釈において、人間性を欠いた超常からの自分勝手な解釈を書いてきたのは、他でもないシャロームのほうです。そして、シャロームは、「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」というキリスト信仰と正反対の信条を、訂正しなかった時点で、キリスト者ではないのです。何を書いても、既に、すべてバレてしまったのだから、無駄なのです。
 
シャロームの解釈が、部分的に正しいなどと思わないでください。以下のシャロームの解釈に、言葉上、正しいところがあったとしても、その分、シャロームが、いかに背いているかを表すだけだからです。そういう見方が、だましてくるカルトには必要になります。
 
シャロームの、自分はこんなに聖書を読んでいるんだ、という自慢が始まります。私が知らないことをいいことに、お仲間の楽山に、私が邪悪だと言いくるめるために、あるいは、批判されているストレス解消に、反省できない男が悪口と自慢話をしているわけです。
 
シャロームのこういう振る舞いも、人格破壊の症状として、真実を追求する人間ではなく、こそこそ陰で悪口を振りまくドブネズミのような習性として、体質を表しています。
 

弟子たちはイエスさまがゲッセマネの園で捕えられた時、イエスさまを見捨てて逃げたのです。
でも、ペテロは大祭司邸の庭で裁かれため引き立てられて行かれるイエスさまのあとを顔を隠しながら、隠れるようにそ~っとについていったのです。
でも裁かれるイエスさまを見つめているペテロを大祭司邸の女中が見つけ、あんたはあのイエスの仲間だろうとそこにいる人たちにわかるように大声で聞いたのです。そんなことが三度もあり、とうとうペテロはイエスを知らない、関係ないとイエスさまを呪ってしまい、その場から逃げ出してしまったのです。
門外に出ようとしてふとイエスさまの方を見ると、イエスさまがペテロを静かなまなざしでじ~っと見つめておられることに気づき、たまらずペテロは泣いたのです。
その後、弟子たちは戸を固く締め切った部屋に人々を恐れ、また自分たちの弱さ、醜さに打ちひしがれて閉じこもっていたのです。
大祭司はイエスさまが人々を惑わし、神を汚すものだとして、人々の訴えもあり、十字架につけることにしたのです。
しかし、当時のイスラエルには死刑にする権限がなかったので、ローマ総督ピラトによって死刑の判決をさせ、執行しなければならなかったのです。(領主ヘロデのもにも連れて行かれるのですが省略しました)
そこでイエスさまはローマ総督ピラトの裁きに座に引き立てられたのです。ところがピラトにはイエスさまを死刑にする罪が見当たらないので、再三赦そうとするのです。(人々の訴えが妬みのために訴えていることがピラトにはわかっていたのです。)

 
こういう話は、シャロームから、私も聞いたことがあります。読みづらいだろうなどという気遣いもなく、自分は分かってるんだという立場で、・・これ自体が反信仰ですが・・、自己顕示をして、正義を装うシャロームの習性です。これで、弁明になっているつもりなのです。信仰を甘く見て、神と人との違いを弁えないと、ここまで、訂正不能の愚かさを晒すことになるという実例です。
 
今まで、ずっと、シャロームは、キリスト受難の話を、完全に、他人事として書いている、ということです。キリスト受難の原因は、私たち総ての人間の罪の性質なのですが、そういう視点を、シャロームは、全く持てない人です。
 
単調な「のです」口調の繰り返しも不自然と思わず、悪い奴らを、悪く書いて、なんてやつらだ、と断言している限りは、キリスト信仰には、一歩も近づけはしないのです。信じているつもりで、どんどん裏切りを重ねてゆくパターンであり、ペテロは泣いて悔い改めたが、シャロームは豪語して自慢して、自分ではない人たちを責め続ける偽善者の道を一途に進んで、ばらばらに壊れています。
 

2. 楽山(自由)2019年12月23日 23:05
2. 楽山さん st5402さん こんばんは2019年12月23日 22:43
しかし、イエスラエルの指導者たちはイエスローマ皇帝に対する反逆なのに、あなたがイエスを死刑にしないのであればローマ皇帝にあなたを訴えると言い始めたのです。
そこでピラトはイエスさまが死に当たる罪人ではないことを知りながら、イエス様に死刑の判決をし、十字架につけたのです。
そしてイエスさまは十字架につけられ、墓に葬られたのです。
その三日後の日曜日の朝イエスさまはかつて繰り返し弟子たちに話されたようによみがえられたのです。
最初によみがえられたイエスさまに出会ったのはマグダラのマリヤとイエスさまの母マリアともうひとりの女たちでした。
エスさまはマリアに閉ざされた部屋に閉じこもって隠れている弟子たちに、イエスさまはよみがえられたと伝えなさいと告げられ、女は弟子たちのところに行き知らせたのです。
弟子たちは知らせを聞いてびっくりしましたが、信じられない思いで、ペテロとヨハネの二人がイエスさまが葬られた墓に向かって走りだし、墓の中にはイエスさまの遺体を包んでいた布だけしか見ることができなかったのです。
弟子たちはイエスさまがよみがえられたなんて信じられずに閉じこもったままだったのです。
するとその後その弟子たちのところによみがえられたイエスさまがご自分をあらわされたのです。
女の知らせを聞いた時、トマスという弟子はその場にいなかったので、後で弟子たちの話を聞き、私は自分のこの目でイエスさまを見て、この手てイエスさまの手の傷にふれることができなければ信じないと言っていたのです。

 
シャロームが、よみがえったキリストを知っていたなら、どうして、今まで、嘘やでっち上げを批判返しに使うでしょう。
 
シャロームが、聖書の話をするたびに、解釈が間違っておればシャロームの自分信仰が明らかになり、解釈が間違っていなければ背きが明らかとなるだけなのです。
 
シャロームが、かつて牧師として、このような説教を本当にしていたのならば、おおよそ、傍迷惑で、聞いても、うんざりするような話です。伝えようという意志ではなく、これだけ知っているから逆らうなという傲慢から書いているシャロームの醜態です。
 

3. 楽山(自由)2019年12月23日 23:07
3. 楽山さん st5402さん こんばんは2019年12月23日 22:45
ところがそのあとで、トマスがいる時、イエスさまが再び来られて、トマスにご自分がよみがえったイエスであることを示されると、トマスはわが主、わが神と言って膝まずいたのです。
それでも弟子たちはあまりのことで、信じられない思いでいたのです。そんな弟子たちはエルサレムからガリラヤ湖にかえり、漁をしようといってかえってしまったのです。
一晩中漁をしても一匹の魚も獲れずに朝早く湖畔に帰ってきたのです。するとだれか浜辺で火を焚いていたのです。
疲れ切った弟子たちが舟をこいで浜辺に近づいてくると、火を焚いている人がそこで網を打ちなさいを言ったのです。弟子たちはプロの漁師ですから、朝明るい朝、漁をしても魚がとれないことがよく知っていたのです。でもその人はまた網を打ちなさいと繰り返したので、弟子たちは網を打ったのです。するとなんとたくさんの魚が網に入っていたのです。
そのとき、ペテロが思い出したのです。同じことがイエスさまの言葉に従ってやはりたくさんの魚が取れたことを!
ペテロはとっさに、主だ!と火を焚いている人がイエス様であることに気づいてとっさに水に飛び込み、イエスさまのもとに生きひれ伏したのです。

 
シャロームは、何を思い出すでしょう。初めて人をあざむいたときでしょうか。キリスト教は安いと思った時でしょうか。人を騙そうと、でっち上げの説教で網をしかけたら、思った以上に、人が釣れて、先生と呼ばれたときでしょうか。いい気になったシャロームの、のぼせ頭の、有頂天豪語は、聖書によって、全否定されるでしょう。
 
このシャロームの、立っているところの、上から下への、むしろレスを書く気を奪うような、自己中と傲慢と、無節操な書き方を覚えてほしいです。こんなのにつかまったら、思考と情緒と人生を破壊されるだけなのです。
 

4. 楽山(自由)2019年12月23日 23:09
4. 楽山さん st5402さん こんばんは2019年12月23日 22:46
長いこと、聖書の書かれていることを書いてみました。
裏切って逃げ去り、自分の弱さ、愚かさを恥じ、また人々の目を恐れて隠れるしかなかった弟子たちでした。
エスさまにまた会えるとも、信じることなんて思ってもみませんでした。合わせる顔もない思いでいたのです。
しかし、よみがえられたイエスさまは真っ先に弟子たちによみがえられた姿を弟子たちに繰り返し、ふたたびご自分を表してくださったのです。
またよみがえられたイエスさまと会ったのに、ガリラヤ湖に帰って漁をするしかなかった弟子たちが一匹の魚も獲れず、疲れ果てて帰って来る弟子たちを迎えるために浜辺で火を焚いて待っておられたのです。
弟子たちはただ自分の弱さ、醜さしかない自分たちに失望していたのです。その弟子たちのところにご自分をあらわし、shalom!(平安あれ!)と声をかけてくださり、また疑い深いとマスにさえ、ご自分の方からトマスにご自分を表してくださり、それでも信じられないですごすごとガリラヤの古巣に帰るしかない弟子たちに再びご自分を表され、弟子たちの傷ついた心の痛みを癒し、新たな心を与えてくださったのです。
弟子たちはよみがえられたイエスさまが自分たちの罪を赦し、そのままで、ありのままの自分たちを受け容れてくださっていることに気づかされたのです。この気づきはイエスさまが与えてくださった恵みの賜物だということがわかります。
こうしてイエスさまがかつて弟子たちにあなたがたを人間を獲る漁師にしようと言われた言葉が実現され、弟子たちは人を獲る漁師に変えられた新しい生き方が始まったのです。それが教会の誕生であり、始まりなのです。

 
悔いることができて、悔い改める人々に、復活のキリストは顕れています。それは、今でも、超常現象の肉体の復活などではなく、いちばん大事な心に、起こっていることです。
 
聖書は、人自らの悔いることを知る心に、魂の奇跡が起こっていることを、弟子たちの失意と悲しみを通して表しています。
 
魂の奇跡は、悔いない者、反省しない者には、起こりません。シャロームの言うところの、ありのまま、というのが、何よりの詭弁です。以前、偽善も罪だから赦されると言ったシャロームは、何をしても、ありのままだから自分を神?が守ると信じ込んでいるのでしょう。いったいどこの神?でしょう。それが、シャロームの心の中の凶悪な偶像であることは明らかです。
 
今までの経過から、傲慢、自慢、自尊、単方向、言い放って終わり、しまりもなく、だらだら続く文章の量で勝負、真っ向から信条の不一致、言行不一致、卑怯、偽善、自己顕示欲、・・シャロームの言から読み取れるのは、傍若無人サイコパス人格の、自慢話でしかありません。追い詰められて、ますます、悲惨なバタ狂い。しかも、批判者にではなく、お仲間に言う自慰行為。
 

5. 楽山(自由)2019年12月23日 23:09
5. 楽山さん st5402さん こんばんは2019年12月23日 22:47
随分長いコメントになってしまいました。
聖書の言葉を丁寧に読むことなしにイエスさまと出会い、
新しい歩みは始まることはないのです。
それが人を生かすのは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、いのちである、と言われたイエスさまの言葉の意味なのです。
聞く耳のある者は聞くが良いと今もイエスさまは私たちにも語りかけておられます。
shalom!

 
聖書の言葉を丁寧に読むことなしにキリストとの出会い、そして信仰の歩みは、始まることはなく、ゆえにこそ、まさに、シャロームは、大仰に、聖書について書いているが、聖書の言葉を、根底から、総て裏切ってきました。シャロームは、信仰の道を、一歩も踏んではいないのです。
 
聖書から、どう解釈しても、どれだけ引用しても、どれだけ長々と話をしても、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などという信仰は成り立ちません。悪意だけの嘲笑いのシャロームに、弁明は、全く成り立ちません。偽善者の醜い有り様だけが浮き彫りになっています。
 

6. 楽山(自由)2019年12月23日 23:13
1,楽山(自由)~5、楽山(自由)コメントはshalomからのコメントです。
私のコメントは削除されるかもしれませんので、長いコメントですが、念のためこちらにもコメントを投稿しました。

 
いつでも、どこでも、聖書の先生と呼ばれて、いい気になりたいシャロームは、もはや、意地汚い詐欺師に相応しいことしか、してこなくなっています。
 
嘘で、世渡り、そして、自己正当化、そのような生き方を、他者にも伝染させようと、さらに嘘に嘘を、背教に背教を、偽善に偽善を、重ねるシャロームです。既に、バレているのです。無駄なのです。とても、みにくいです。
 

7. 楽山(自由)2019年12月24日 19:09
こんばんは。
コメント、ありがとうございます。
1~6まで、どうして自分の名前が使われているんだろうと思ったけど、自分の設定ミスでした。すみません。
名前表示の初期設定というとこに、「楽山(自由)」と入れてしまってたせいですね。「名無し」に修正しときました。

>楽山さん stさんは碌に聖書を読んでいないのですから、所詮我流の信仰でしかないのですから、論争しても徒労になるだけですよ。
 」
これはなかなかに手厳しいですね。

 
ここだけが、楽山のコメントのようです。
 
楽山は、恐らく、今までの私とシャロームの、遣り取り自体を殆ど読んでいないと思います。だらだら書いてくる偽りの聖書の話を聞いて、楽山は、手厳しいですね、と言って終わりです。ここで、楽山が私の悪口を書かないのは、書いたら自分が、そのぶん、批判されるからでしょう。
 
手厳しいですね、・・仲間としての無条件肯定と、社交の仲間ぼめ付き合いしか、経験したことのない者は、こういう付き合い方と、・・エヘヘ・・とでも形容するべき軽さで、当たらず触らずの、ボンヤリ返答になるのでしょう。
 
信仰は、人間の真実を追求します。嘘を重ねたり、偽善の仲間ぼめをしたり、社交のボンヤリ言語でお茶を濁したりはしません。
 
 
(2020年03月13日)
 
 
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