ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー教について(23)

 
  アドラー教について(23)
 
  2018-10-29
 【永久保存版】満たされない気持ちを満たす方法
 アドラー心理学サロンです。www.adlersalon.com
 https://www.adlersalon.com/entry/2018/10/29/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E5%BF%83%E3%82%92%E6%BA%80%E3%81%9F%E3%81%99%E6%96%B9%E6%B3%95
 
 
無視という意味に受け取られそうな言葉が頻繁に使われていますが、無視と、思い煩わない、ということの違いを、考えないではいられません。前者は無学習と無刺激による自覚的安穏、後者は忍耐と学習による精神衛生です。
 

「毎日、仕事や家事に追われてしまい余裕が無くなって気持ちが満たされない。」
「満たされない気分から抜け出すことができず、モヤモヤしたままやる気が起きない。」
「毎日が退屈で、いつも疲れている。」
こうしたお悩みを抱えて苦しまれている方は沢山いらっしゃいます。
そうした方々は、仕事や家事、子育て、人間関係、学校などの外部的なことからこうした苦しみを抱えられている方がほとんどだと思われます。
まず、心が満たされないとはどういった状態のことなのかを認識しましょう。
心が満たされないのは、何かが足りないという「不足感」が原因となります。
何か物足りないと感じて心が満たされないと思われている方は多くいらっしゃいますが、実は「不足感」によるものだと分かっている方は実は少数派なのです。

 
満たされない、という言葉が、既に、不足感を表しているのですが。
 

何らかの外部的なモノである、やりがい、成績、恋人、友人、服、家などの形あるものであるかに関わらず欲しかったモノが手に入ればこの「不足感」は一時的に満たすことができます。
しかし、あくまでも一時的な充足感でしかなく、時間が経つとそれがあるのが当たり前となり、また「不足感」に苛まれます。

 
個々の、やること、やるべきこと、例えば to do から、やりがい、そして、生き甲斐にまで、結び付くといいのですが。
 
ちなみに、to do は、大騒ぎという意味もあるようです。
https://ejje.weblio.jp/content/To+do
まさか、too do ?・・分からない。
 

そこで本記事では、満たされない気持ちに苦しめられている人たちへ向けて、どのように原因となっているこの「不足感」を埋めていき、満たされない気持ちから脱出するのか、その方法についてアドラー心理学を基にご説明していきます。
1人でも多くの方が、満たされない不幸な心境を抜け出して、充実した毎日を送れるようになれれば筆者としては望外の喜びです。

 
満たされない生き方を脱出して、といって、何か言われて、負の感情をいだいたら、無視することにして、満たされる生き方になるのでしょうか。
 

目次
現状に100%満たされることはないと認識する
自分と向かい合う
自分自身との信頼関係を深める
自分の機嫌を取る
自己肯定感を上げる

そして

現状に100%満たされることはないと認識する
先に認識しておいて頂きたい点が、現状に100%満足している人なんて存在していないという事実です。
人生において、瞬間的に「もうこれで100点満点、これ以上欲しいものは何もない」などと瞬間的に思うことはあるでしょう。

 
「100%満たされる」は「満たされる」の強意表現でしょう。
「100点満点」は喜びの感情表現でしょう。
いつも100%満たされる、ということがないのは当たり前です。
 
いつも100%満たされるはずだと思っている人は、恐らく、ナルシシスト(ナルシスト)でしょう。現実にぶち当たって、不完全で、いずれ死すべき限りある存在が人間であることを、自覚しなければ、悲惨なことになるでしょう。
 

残念ながら、人間には「優越性の追求」という常に向上を目指す性質があるとアドラーは言います。
人間はいつも、「もっとこうだったらいいな」、「あれが手に入ったらもっとよくなるはず」といった欲望を持つ生き物です。
自分の心を満たすことができるのは、自分だけなのです。
つまり、自己完結とも言える「自己満足」をすることで外部的なモノによって自分の心を満たすのではなく、自分自身で自分の心を満たすのです。

 
優越というのは何に対して優越したいのでしょうか。常に向上を目指す性質は、向上心という言葉もあります。
 
「もっとこうだったらいいな」、「あれが手に入ったらもっとよくなるはず」というのも、向上心に含まれるから、欲望といっても、悪い欲望ではなく、意欲という好ましい精神もあると思います。
 
自己完結が、向上ではなく、恒常であるなら、自己満足が絶対となる危険があり、カルト的な思想になります。
 
自分自身で自分の心を満たす自己満足ではなく、自分の心が満たされるような向上心に情熱を持つことを考えてみようと言っているのでしょうか。
 

自分と向かい合う
自分で自分の心を満たすには、まずは自分自身としっかりと向かい合って対話をする必要があります。
自分は本当はどうありたく、何がしたくて、何が好きで、何を嫌っているのか、しっかりと理解する必要があります。
この考え方は、誰かを喜ばせる為に何をするべきかを考える時に、その人について情報をたくさん知っていれば簡単にわかる理論と同じです。
少しずつでも自問自答して自分自身を解明しましょう。

 
大切なことです。つまり、進路は自分で決めないといけませんから。
 

自分自身を解明していくうちに、自分の欠点が明らかになってきて嫌になることもあることでしょう。
しかし、それはあなたの身近な人も同様で、人には長所と短所が存在します。
他人の長所と短所よりも、自分自身のことをよく知ることが大切です。

 
大切なのですが・・
 

人は他人のことは完全には理解できませんが、あなたが自分に隠し事をしない限り自分のことはしっかりと理解することができます。
こちらの記事もご参照下さい。

 
自分のことこそが、しっかり理解するのが難しいのです。自分は、自分に、先入観や思い込みやトラウマという隠し事を、顕在的にも、潜在的にも、しばしばしてしまうからです。
 

自分自身との信頼関係を深める
自分と向かい合うことに慣れてきましたら、更にもう一歩踏み込んでいきましょう。
たとえば、「この仕事、楽しくないし嫌だな・・・」と思ったら、初めは「自分はこの仕事を嫌がっているんだ」と認めるだけでも良いです。
ただ、もう一歩踏み込んで、「この仕事の何が嫌なのかな?」、「どうしたらもっと満足して仕事ができるのかな?」などと、考えてみるのです。
そうしていくうちに、「上司がマウントしてきて威圧的で嫌だ」や「職場のAさんが苦手で職場に行きたくない」など具体的で様々な理由があることに気づくことでしょう。

 
自分が嫌、仕事が嫌、人が嫌、という方向で、話を進めることのリスクは、相手に、被害的・他罰的念慮を促進する危険があるということです。
 

自分の本当の心と向かい合い、「何を、どのように嫌だと思っているのか」また、「転職したり、退職しなくてもその嫌なところを解消もしくは緩和したりできないのか?」を考えてみましょう。
ここで大切なのは、自分が何を嫌だと感じているのか、しっかりと自分と対話することであり、その事実を把握することにあります。
決して、「嫌なことを解決する目的で行動すること」ではありません。

 
今までの記事から、解決しようと思っても、自分が傷つくだけ、ということがあるでしょう。しかし、それは、あくまで、冷静な話し合いの成り立たない相手の場合です。ブログ主は、自分の体験から、一面的なことを、全面的に言い過ぎる傾向があります。
 
そして、それより大きな問題として、今、嫌なことは、ずっと、一生、嫌なことかどうか、人間には、分からないということです。嫌という感情も、客観的に、少なくとも、冷静に、覚めた目で見る努力をするべきだと思います。その方向への訓練が、むしろ、必要ではないかと。それだけで、ある程度、嫌という感情は治まるかもしれません。
 
無視することは、行動ではないのでしょうか。
 

嫌なことをもんもんと考えていても嫌な気分になるだけなので、一旦は忘れてしまって自分の「理想のあり方」を想像しましょう。
自分の理想は細かく具体的に想像して描くことができるということは、自分との対話がしっかりとできていて自分との信頼関係が築けていることになります。
こうして自分との信頼関係を深めることができれば、嫌なことが現実的に解決していなくてもあなたの精神状態は以前よりずっと良くなっています。

 
自分は、そんなに、信頼できるでしょうか。私は、自他ともに、信頼できる人というのは、自制・内省・反省の出来る人だと思います。
 
そうでない人に、自分信頼を勧めることは、訂正不能の妄念を固着することにもなりますから、以前から、ブログ主は、言い放って、大丈夫なのか、みたいなことを心配しています。
 

自分との信頼関係を深めることは、精神衛生を整えて、「良い気分」作り、現実を変える為に必要な行動を起こしたり変えたりする為に必要なステップとなります。
つまり、この「良い気分」は、現実を変えていく力を持っているのです。

 
あくまで自分の「良い気分」なのですが、これも、のぼせた高揚気分や陶酔気分を勧めることになりはしないかと危惧されます。あるカルト信者は、ひとつひとつ、ありがたく思うからか、・・お父様・・とか拝んでいました。その表情は、こちらが悲しくなるほど、無残でありました。
 
このように、一般的に、良い気分というのは、カルトの仕業(しわざ)として、洗脳、刷り込み、印象操作、詭弁などによって、根拠もなく誘導されることもある、ということを覚えてほしいです。ブログ主は、それを、読者に勧めることになるから、危惧するわけです。
 

心の状態を良好に保つことで、嫌なことを解消して人生の諸問題を解決していくのです。
「良い気分」でいることで前向きな行動を自然と取ることができるようになり、嫌なことがあっても良い方向へ進路変更することができ、満たされない重いから解放されることにつながるのです。
「良い精神状態」を作る「良い気分」は、あなたがあなた大切にしないと持つことは難しいのです。

 
気に入らないことを無視すれば、そのときは、楽になったような気分になるでしょう。しかし、それは、反省・内省の放棄になる恐れがあり、学習と成長をしなくなる危険につながります。成長せず壊れてゆく典型のようなカルト的人物とネットで出会った経験からです。
 

自分の価値は相対的なものではなく、自分自身で決めるものです。
客観的事実など存在しないとアドラーは提唱しており、全ては主観的な解釈に基づくとしております。

 
自分自身で決めるときに、他者の評価を参考にしています。他者の評価を気にすることに良し悪しも、ときに、あるでしょうが、それを全面否定して、自分で決めてよいとは思えません。無遠慮で傍若無人の図々しい人間になってゆく危惧を含んでいます。
 

客観的な事実を証明する為には、論理的に証明できる条件という共通認識をお互いに持つ必要がありますが、そもそも人間ごときがこの世の事実や事象を全て把握するような能力はありません。

 
全て完全には、ないのであって、知りうる範囲で把握することは必要です。説明するなら、その能力を否定していると受け取られないように注意するべきでしょう。でないと、努力もしなくなる可能性があるからです。
 

つまり、他人に何を言われようと、どう思われようと、会社や学校からどんな評価をされようと、それはあなたの価値を決めるものではありません。

 
他者は、しばしば、ものごとや個人や集団に対して、価値判断をします。そういうことに出くわすのが、生きてゆく必然というものです。その価値判断が正しいとは限らないわけで、価値を決めるものではないから気にするな、みたいな教え方には、以前から、誤読・誤解から、他者を全く気にしないという曲解に発展する危惧をいだいています。
 

アドラー心理学では、他人が自分をどう思うのかは相手の課題であり、自分は相手の課題には介入することはできないとしております。

 
他者は、自分の心には、しばしば介入してくるでしょう。人間は、他者について、考えるからです。人間には、優越性を追求するらしいですから。相手の課題に介入しないという距離を広げる説教は、距離を幾分か縮める思いやりとの境界が不明確であることが、前にもありました。
 

自分ができることは相手の認識を変えてもらえるように長所をアピールしたりすることくらいであり、最終的な判断はどうにもできないと割り切る必要があるという考え方です。
他人にあなたの価値を決めさせるということは、私は和食が一番好きなのに、なんであなたは洋食が一番好きなんだ!と悩んでいることに本質的には同じなのです。

 
その自他の違いを、話し合った上でのことか、こちらが一方的に課題分離の立場から言っているのか、ということにもよるわけです。いっさい無視して悔いないならば、積もってゆく無視した課題の部分が、現実問題となって、返ってくるような気がします。
 

また、他人や世間からの承認してもらいたいという「承認欲求の否定」もアドラーは否定しております。
他人からの承認を求めて生きるということは自分の人生ではなく、他人の期待に応えようとしているだけの不幸な人生を生きることにつながってしまうという考え方です。

 
課題の分離や承認欲求の否定と、自己中心との、境界が不明瞭であることは、以前から指摘しています。承認欲求が、心の中の欲求にとどまるか、他者への何らかの働きかけに強迫するか、ということが大きな問題です。つまり、前にも言ったように、精神衛生の問題になります。
 

こうした他人や世間からの評価を無視して、自分自身の存在価値を自分で決められるようになるには、本当の意味で自立した大人になる必要があります。
詳しく知りたい方はこちらの記事をご覧ください。

 
自立した大人は、他者からの評価を無視して気にしなくなるのでしょうか。精神衛生の問題と、人生の問題とが、混同されているように思われてなりません。
 
私たち人間は不完全ですが、だからといって、他者の評価を気にしなくていい、無視していい、という一方向を教えることは、まことに、カルトが、保身のために、信者を世間から断絶させたり、閉鎖環境を設けたがるのに似ている発言で、その責任を、いったい、誰が取るんだろうと思います。
 
 
(2020年03月14日、同日一部修正)
 
 
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