ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

"敵を愛する"

 
 リブログ+
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12449968371.html
 
 
  "敵を愛する?"
 
 
去年の記事にあるようなことを考えて
行為義認ではなく、信仰義認であることを考えて
 
つまり、何かをすれば救われる、しなければ救われない、ではなく
また、何かをしたら救われない、しなかったら救われる、でもなく
信仰のみによって、神の憐れみを受けて、救われる
ということを考えるとき
 
信仰のみといっても
そんなに立派な信仰は持っていません。
情欲は湧いてくるし、
嘘もつくかもしれないし
 
信仰があるから罪を犯さないで完璧なんてことはない。
罪を自覚するから信仰を求めるということで
信仰があるから罪を自覚するという学習の継続です。
 
赦し、癒し、慰め、告白、願いを、祈るにあたって
キリストの同伴と神の寛容を信じるに値するには
人間に何が出来るのかと考えてみたのです。
 
神のみ旨に従う、無理でしょう。
神は、そうしなさいと言ってくれるわけではないので
自分で神のみ旨を推し量っても
それは、とてつもない正しさであって
考えれば考えるほど、無理です、と言うしかない。
 
できるだけでいいから、と言っても
どこまでが出来る範囲なのか分からないし
そういうことを考えていると、
結局、神の御旨だからアガペー
神の完全な愛を、などと思えば、
守ろうとしても、やっぱり守れなくて、失意に落ちるか
できるだけの名のもとに、守ったふりの強迫神経症になるか、
すごく、いい加減になるのが落ち、という、落下しか待っていない。
 
善行そのものを目的とすると
いつのまにか自分は善人であるという前提で
教える立場に固まってしまうかもしれないし
それではいけないと思い始めると今度は
謙譲が芝居になってゆくだろう。
人は演技する動物である。
 
善いことをしたつもりで
相手が傷つくこともある。
善行と思ったことの影響を
人は果てまで追えない。
風を追うことは出来ないのだ。
 
 (伝道の書、口語訳)
1:17
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
1:18
それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。
 (伝道1:17-18、旧約聖書
 
人間らしさとは、信仰者らしさとは
いつも薄笑みを浮かべた悟り顔とは思えないし
また、信仰を否定されて
目を丸くして、脂ぎった顔を寄せながら
それでも、神はいるんですね!・・と
あぶら汗と「ね」の圧力を加えるようにはなりたくない。
 
熱心な信仰なんてあるのだろうか。
熱心は、神に対して、可能だろうか。
不可能ではないのかとも思ってしまう。
神は完全だが、人は不完全だ。
 
というわけで、弱い心と安い頭を振り絞って
いくつかの聖句などを復習すれば
人間にとって、負いやすいくびきとして
守れそうな教えは、ただ一つ、
祈りにおいてだけは、すなわち、神様の前においてだけは
故意に欺いたり飾ったりの嘘を吐かないこと。
それだけになりました。
 
 
(2020年03月17日)
 
嘲る(あざける)嘲笑い(あざわらい)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp/
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
https://philosophy.blogmura.com/christian/
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html