ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

"心の理論"+

 
 
「心の理論」:幼稚な勘違い
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「奇跡について?」:詭弁の嫌らしい詭弁
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  リブログ偽宗教 "心の理論"+
 
 
 2020年03月16日
 宗教とは? (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/23968697.html
 楽山日記(LD) 
 
 
楽山は、どうしても学者気取りを続けたいらしく、また、前と同じ学者の本から自己顕示欲を表しています。書いたら批判されて、答えず、また、同じようなことを言ってくる。この不感不応と執拗さが異常であり、楽山の、どうしようもない病の体質の様相なのでしょう。
 

著者によれば、宗教と孤独は深い関係にあるらしい。
宗教とは、個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを悟る場合だけに生ずる感情、行為、経験である、と。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.52)

 
このことは、信仰者なら体験があり、わざわざ、宗教をけがすものに書いてもらわなくてもいいのです。しかし、信仰者も注意が必要であり、神を体験したなどと軽軽に信じ込んでしまうと、楽山のように、お伽噺に退行して、フラれた相手にしがみつくように、本に縋りつくようになってしまうという警告でもあります。
 

これは孤独の隣に神がいるという言葉を思い出させるものがあるが、この文章でいう神的な存在とのつながりを感じた時には、安心、慰謝、感謝などの幸福感が得られることだろうし、もしそうだとすればこれは臨死体験における光との出会いのエピソードに通じるものはありそうだ。この出会いが単なる妄想ではなく、客観的な事実といえるかどうかは議論があるが、本人には現実以上にリアルな体験と感じられているのは確かのようであるし、宗教的にはこれこそが重要な点なのだろう。

 
楽山の孤独の隣には、偽善のカルト教祖シャロームでもいるのでしょうか。安心、慰謝、感謝、など経験したことのない楽山が、また、嘘の共感を書いているようです。
 
そして、楽山は自分は偏りませんという自作のバランス自慢に偏り、宗教体験に事実の客観性を求めるという愚を仕出かしています。書くたびに、宗教への無理解が漏れ出してしまう楽山です。
 
そして、分かるんだ共感もどきとして、重要などと書いていますが、楽山の言など、邪魔になるだけであって、重さもなく、要(かなめ)にもなり得ないものです。
 
このように、楽山は、自己顕示しないではおれない体質なのです。こちらの批判に何一つ答えられないのが証拠です。決して近づかないでください、宗教から、いちばん遠い反宗教・反信仰によって、宗教を笑う者に。
 

巷では、どこかの宗教団体に属しているか、またどこかの名前のある神様を信じているかどうかによって、宗教の信者であるかが判断されることが多いけれども、著者の定義からするとそういう区分には関係なしに、神的な存在との関わりを感じているかどうかによって宗教があるかないかに分けられ、宗教信者であっても宗教は持たない者、無宗教であるが宗教を持つ者とされる場合も出てくるだろうし、こういうややこしさはなかなかにおもしろく愉快でもある。

 
これも、宗教においては信仰がいのちでありますから、当然のことです。ただし、シャロームや楽山のように、自己顕示欲で宗教を云々する者には、恐らく、一生かかっても理解できないことであります。
 
にもかかわらず、楽山は分かっているつもりで書いてきます。そうして、宗教をけがす者の悲惨さを、人間の弁えを忘れて壊れた理路と情緒で、表して、さらしてゆくのです。
 
それを、あたかも理解しているかのような筆致で書くのは、宗教を笑いものにすることでしかありません。ゆえに、楽山は、愉快なのです。
 
このようになってしまうことこそ、宗教を、趣味的にとらえ、甘く見た者の、宿命のような我執の、おのずからの報いであります。
 
神聖を恐れて控えるのとは、全く逆方向のナルシストの有り様が、客観的に見ているつもりだけの楽山によって、展開ではなく、何の共感にもつながらない閉鎖回路の堂々巡りとなっているのです。
 
このように、批判されても、弁明も反論も出来ず、にもかかわらず自分の言いたいことだけ書き続けることこそが、楽山の、宗教に対する無理解と、議論の対象にならないカルトの単方向性というものです。したがって、批判は、議論のためではなく、継続的に、否定のために、為されることになります。
 
このような経緯から、楽山の記事は、信仰者にとって共感できるものが何もなく、非信仰者にとって本質を外した通念的概念だけになるのです。先入観と偏見という迷惑をかけても平気な、光ることのない社会通念の錆(さび)のような宗教観気取りの文章は、下品で浅ましい悲惨な自慰行為でしかありません。
 
 
(2020年03月19日)
 
 
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