ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

理解?+

 
 
  理解?
 
 
文系・理系を問わず
理解というのは
心の解放感です
新しい方向へ広がることです
つまり始まることであって
決して完了することではありません
 
芸術でも学問でも
私の下手な数学でも
人間関係でも風景でも
ポエムでも同じです
 
論理でも情緒でも
理屈が合うのでも
無条件の感受でもよいのですが
 
解放感のないところには
何かが合ったのだと
完成したのだと
思い込もうとしている圧力を
自分に強いている自分がいるだけです
 
ただ厄介なことに
そういうとき
合ったのだから
合うのだからと
同じ圧力を
人にもかけてしまうことがあって
 
人は人間にがっかりして
ポエムも理路も腐ってしまうのですが
 
まさにそこから
反省できるかどうかが
いかなる理解も
先入観として貼りつくものになるか
さらに深い理解へ進めるかが
分かれてゆくでしょう。
 
理解はゴールではなく
完全ではなく保証ではなく
理解は通過点であり
欠くことのできない道しるべなのです
 
砕けるほどの失敗からでも
ポエムは泣きながら身をよじり
理路はときに転倒し仰天して
さらなる理解が
産声をあげてくることもあるのです
 
 
(2011年04月28日)
(2020年03月29日、修正再録)
 
 
  理解は成長する
 
 
先日、三平方の定理を再録しました。
高校の時か習った定理ですが
証明方法は30~100あるとも言われています。
 
直角三角形に
3つの正方形を加えた図から証明しようと
昔、考えてはみたのですが
数学が得意ではなく下手の横好きで考えても
証明できなくて諦めていました。
 
別の方法で証明しても解放感はそれなりで
 
合同、相似、平行、面積の公式などを用いて
3つの正方形を加えた図から証明して
理解を新たにしたのは
ずっと後のことです。
 
もちろん数学だけでなく
人文科学においても
人間関係においても
人物や思想の評価においても
信仰においても
理解は成長する
という性質を持っていると思います。
 
理解を固定して
分かった以上揺るがないものにしようと
固定する方向へ向かってしまうと
成長はなくなります。
理解も成長しなくなります。
 
何故なら
固定されたものは
理解そのものではなく
言葉の辻褄の暗記に過ぎないからです。
言葉と感動は、いずれ乖離してゆきます。
 
自然科学と人文科学があるように
理解は、理路だけではなく
直観や直感を多く含みます。
さらに
本当に理解したときには
いかなる分野であろうと
解放感という情緒的反応を伴います。
理解と辻褄合わせとの決定的な違いです。
 
理解は成長します。
それを阻むのは自分で固定してしまうことです。
人間は完全には分かっていない
という自覚の大切さを思います。
あらゆることにおいて
分からない自覚こそが成長を促します。
 
 
 神聖を分かった自覚で
 神の名のもとに
 自分で理解を言葉で固定して
 成長しなくなって
 何を言っても
 上から見下ろす態度で
 同じことしか言えなくなった者がいて
 間違いを認めず
 不都合をみな人のせいにします。
 
 
(2020年03月31日)
 
 
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