ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

当てにならない

 
  当てにならない
 
 
私たちは
実に当てにならない世界に住んでいる。
実際は
当てにならないのは私たちの心であり内部である。
 
入力は総て感覚器を通している。
内部処理は総て脳が行っている。
いずれも寿命が尽きればなくなるものであり
これらは
寿命がある間は維持されるけれど
本当に変わらないで維持されているかどうか
厳密な検証は不可能である。
 
当てにならない世界を
当てにならない知情意をもって
断定できる何があろうか。
 
しかしながら私たちは
当てにならない世界において
当てにならない知情意をもって
判断し実行するしかないのである。
 
それが人間の不完全性である。
 
神が絶対でも
あるいは
たとえ絶対がどこかにあっても
私たちには絶対はない。
それを知ることが信仰の始めである。
 
絶対とは不変に正しいこと。
非絶対即ち相対とは可変で
ときに当てにならないこと
そして変わりうること。
 
当てにならない知情意をもって
当てにならない感覚・知性・感性をもって
生きてゆくのに絶対は全く向いていない。
 
神の属性である不変は
変わることなく成り立つということであり
神義すなわち神の正しさも真理の働きを持つ。
 
しかし
人間の正しさは不変ではなく
より正しいことによって
また状況によって
否定されないとは限らないことである。
 
これを人間の相対性と呼ぶ。
信仰をもっても
この相対性は変わらない。
 
人間に成り立つ絶対性は
絶対は絶対にないという循環論法にしかならない。
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを求めるだろう。
 
しかし
人は絶対を求めやすい。
絶対を盾にして強くなったつもりになりやすい。
 
だから絶対の存在を確定しようとするか
あるいは確定したつもりの言動を
神の御心だと言って神聖化しやすい。
 
それを信仰と呼び使命と呼び確定して
感じることと考えることを疑いだと
退けてしまいやすい。
 
絶対は神のもので
人は決して絶対を確定できないのに。
気安く正邪を神の立場で決めつけやすい。
 
神とは違う人としての身の程を弁えることが
信仰の始めであるのに
味方としてだけ顕れる神しか欲しがらない信仰は
戒める神と懲らしめる神を
そっくり除外して揺るがない信仰だと思いやすい。
 
これらもまた相対的で不完全な人間の罪性である。
 
この人の罪性ゆえ
キリストは十字架の道を歩まれる。
今も。・・である。
 
 
あらゆる悲劇は信仰者にも起こりうる。
その理由は神の秘密ということがある。
神は、いつも分かりやすく恵むわけではない。
神の考えることを人がいつも理解できるわけではない。
 
なぜ、こんな悲劇が・・?、と思う人は、
私たちの狭い見識と視野と能力では、
神の無限をつかむほどの広い見識と視野と能力
すなわち全能を理解できないことを考えるべきである。
ゆえに、信仰は、この地上では忍耐を必要とする。
 
私たちは、この地上での短い人生の幸福を願っている。
神は、総ての世界を導いておられ、私たち人間についても、
地上のみならず、総ての世界での幸福を計画しておられる。
 
人が、神を総て理解してから信じようというのは信仰ではない。
理解できたら、信じる必要はないからだ。
 
人は絶対は慢心し訂正不能を好み
人の相対は努力して成長することを求める。
 
人の相対の信仰に敵対するのは
いつも
人の絶対を確信し保証するカルトである。
 
人の相対性は
信仰とカルトを見分ける決め手ともなるだろう。
 
 
Q&Aを試みてみる。
 
Q1:
相対、相対、と言うが、では、
1+1=2 という等式は絶対に正しい、ではないのか。
A:
1+1=2 という数と記号の概念を共有するところで成り立つ。
 
Q2:
悪は正しくない、善は正しい、はどうなのか。
A:
ほとんど定義を語っているだけ。また、偽善と偽悪の問題もあります。
 
Q3:
イエス・キリストは正しい、はどうなのか。
A:
イエス・キリストは、人の罪深さ=不完全=相対性では語れないところの、優れた洞察と共感を誰にでも示しておられる、というだけで、神聖と信じています。
奇跡等の超常については、神のわざとして、人が関知するところではなく、つまり、分からない、というのが、人にとっての真実だと思います。
 
ゆえに、地上の現世において、いつも奇跡で守られていると言える信仰は、人が語れる信仰の言葉としては、大いに誤解を招く言葉です。神の救いは、神の意志と計画に沿うのであって、人の思惑に沿うとは限らない。
むしろ「イエス・キリストは正しい」という言葉で人が表すことが、怪しくなる可能性を考えるべできであり、それは、まさに、カルトにおいて著しいのである。
 
だから軽々に「イエス・キリストは正しい」と言うのは、しかも、それを己の意見の根拠とすることは、むしろ、信仰からは、離れる方向だと思っていたほうがよい。
 
このQ3のような、神の義に関することは、キリストを利用するカルトが人を騙すのに使われやすく、また、反キリストが、神がいるなら何ゆえ悪があるのか・・などと、いちゃもんによって神を否定するのに使われやすい。神の義は、神のものであり、神秘であり、人に分かるわけはないのである。
 
私たちは、神が正しいと分かったから信じるのではなく、主によって愛され救われた者として、主を忘れられないゆえに信じている。
 
Q4:
信仰は正しい、ではないのか。
A:
真の信仰であれば正しいはずですが絶対の正しさではありません。また、実際には、口で信仰といっているだけの偽善者もいます。聖書のパリサイ人がそうでしょう。
 
Q:
相対、相対、絶対ではない、不完全、などと言っていたら、決心が鈍るではないか。
A:
それは間違っています。絶対ではないゆえに、限られた時間で、できるだけのことを考えて判断し、勇気をもって実行して、反省して、神に祈るのです。相対で不完全な人間は、信仰によって、神に正直に告白して赦しを求める祈りという機会が、いつも与えられています。
 
Q:
では、キリスト者だけが赦されるというのか。
A:
ここは議論のあるところかもしれませんが、私は、特に教会の利益を代表する必要はないので、申し上げると、教会での洗礼に信仰の有無やキリスト者であることの証明という神秘的な意義を求めるには、キリスト教の歴史は汚れ過ぎています。
 
もはや、信仰は、信じる者が祈って告白するならば、洗礼の有無には、こだわる必要はないのかもしれません。神が、偽善者でも芝居できるような儀式によって、救いについて差別するとは、考えにくいです。
 
信仰者でも、求道者でも、異教徒でも、無宗教でも、真面目に生きている人を、神は差別するでしょうか、そうは思えません。神は、総てを見ておられ知っておられるのですから、人の言動の実を見抜いたうえで、良心の発露を決して軽しめられることはなく、心に留めて、顧(かえり)みられるだろうと思います。
 
 
つまり
私たちは基本的に
神に対しては
教理よりも讃美よりも
正直のみを用意するべきであり
人に対しては
その"神の前の正直をもって武装"しておくことが大切なのです。
 
 
(2020年04月02日)
 
 
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