ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

努力と我執

 
  努力と我執
 
 2020年04月03日
 宗教的な不可知論者?(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24209254.html
 
 
楽山には、自分がどれだけ的外れか、自覚がないのです。かつ、一言も、反論も弁明も成り立ったこともないのに、書き続けるのは、意地を超えた病理があると考えるしかないでしょう。
 
今回も、身の丈に合った書き方ではなく、ボンヤリ言語で断定して悦に入っているようですが、こういう楽山の執拗さと粘着性は、仏様の心が分からない親族に驚いたという彼の記事のように、当たり前に霊能者としての訂正不能の自負があるからなのでしょう。
 
その霊感の表れを示すのには、ことごとく失敗しても、限界を感じるわけでもなく、恥を恥とも思わず、反省も学習もなく高じてゆく末路には、自分を認めない者たちへの復讐として、やはり、社会悪に近接してゆく危惧が大いにあります。
 
努力と我執は違うのです。楽山は、霊が分かるっぽいからと、努力せずに、一気に真理を獲得できる真理への、実は怠慢根性の、安易なショートカットを選んで、いつか、評価されて褒められることを、実は悪夢の中で、夢を見ているのでしょう。
 
この手のかわいそうな人に同情して関わると、同じように、かわいそうなほど悲惨な蟻地獄に巻き込まれるでしょう。
 

本に紹介されている体験談を読んでいると、これは自分と同じだと感じることが時々あるが、自分にとってはこの文章がまさしくそれだ。孫引きになってしまうのではあるが、こんな風に不可知論的になりながらも絶対的実在を感じるというのは本当によく分かる。

二十歳から三十歳までの間に、わたしはだんだん不可知論的となり、無宗教的になったが、しかし、現象の背後にある絶対的実在についてのあの『ぼんやりした意識』――ハーバード・スペンサーは巧みにこう呼んでいる――まで失った、とは言えない。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.100)
 」

 
楽山は、哲学者ジェイムズの体験談を「自分と同じだと感じる」そうです。理性も情感も、オモチャの作り物のように、いい加減なのに、学者か批評家気取りの自らに満悦して、肩を並べている気分でいるのでしょうか。ストーカー的な気味の悪さを感じます。
 
少なくとも、キリスト信仰については、楽山は、否定することにも、肯定することにも、何一つ、着手できていません。それで、学者の名前を出して、しかも、「ボンヤリ」という引用までして自慢したいのでしょうか。身の程を知らない楽山は、学者の"実在についての表現"に、"自分のボンヤリ"を当てはめています。
 
理屈で無宗教と言い、理屈で宗教と言っても、信仰は理屈ではないという部分を、楽山は、信仰について、自分の言葉で、詭弁と循環論法が明らかになるほど、何も言えていないのです。
 
ゆえに、また、詭弁だらけのお粗末な理屈だけで宗教を考えて、無宗教になった、ということは、ほとんど意味がありません。信仰は理屈ではなく、信仰がなければ宗教は、資料に過ぎず、資料は、楽山の詭弁の記録と同様、信仰として何の意味もないからです。楽山は、徒労から徒労に逃げながら、いい気になっているだけなのです。
 

とはいえ当然のことながら他人の経験や思惟が何から何まで自分と同じだということは有り得ないので、この文章と自分との間に相違点がないでもない。たとえば自分の場合は、不可知論に向かい始めたのは二十代ではないし、絶対的実在に対する感覚はぼんやりとしているというよりは、真夏の太陽の光がじりじりと肌に感じられるほどにリアルである。ここは上の体験者とは違っている。

 
「真夏の太陽の光がじりじりと肌に感じられるほどにリアルである」・・じりじりと苛立って、かつ、苛立たせるだけの徒労の徒が楽山です。だから開き直ったかのように「ボンヤリ」を見つけたら、見せつけるように入れてくるし、どう批判されても、平気で無視してくるのです。自分の言葉を持たない慢心したカルトの特徴です。オカルトに近いかもしれません。
 

ちなみにこのリアルさは、人には人知を超えた絶対的存在については確たることは何もいえないが、それでもそれは実在するだろうことを予感するいわば宗教的な不可知論者でいるときはもちろん、手持ちの材料から検討する限りにおいては、どうも創造主というようなものは存在しないようだという無神論寄りの不可知論者になっているときでさえもさほど変わらないのだから我ながら不思議であり、おかしくもある。

 
絶対的存在について、「実在するだろうことを予感する」なら無宗教ではないですし、ならば「いわば宗教的な不可知論者」などと言っていることは気取っているだけの矛盾に過ぎない。人格が崩壊に向かっていることが文章に表れてきたのでしょうか。
 
不思議ではなく、楽山は宗教も信仰も知らないのです。心に受け取ることなく信仰は存在しない。したがって、楽山が宗教を語ること自体が無意味なのです。
 
無神論寄りの不可知論者」というのは、ひどい言い方です。不可知論は、神が不可知であることを表しており、無神論ではありません。
 
自分の非を認めない自己愛性に凝り固まって、本当に、何度も何度も幼稚な言葉で、誤謬と詭弁を弄して、楽山は、信仰とは何の関係もないことを宗教として、実に無意味な、まるで、茅(かや)の草むらの中を走るときに出来る傷のような、うっとうしいだけの嫌がらせを続けています。
 
誰にとっても、感動も意味も価値もなく、自分は批評家だ、自分は学者と同等だ、という自尊過大の執着を捨てきれないナルシシストの成れの果てになってゆくのでしょうか。
 

この感覚がどこから来るのかについては、宗教的にはそれこそが神の存在証明とされそうであるし、進化心理学的には進化の過程で獲得した本能の誤作動による錯覚とされるのかもしれず、自分には一体何が正しい答えなのかは判然としないのではあるが、ただ少なくとも自分にはどうもこの感覚を消すことは無理であって、もし仮に自分が無神論にどれだけ傾倒したとしても、無神論的有神論者、無神論的不可知論者くらいまでにしか進めず、根っからの無神論者には決してなることはできないだろうということだけは確実のようではある。

 
そもそも、宗教と、進化心理学などとを、並列するところから、宗教と信仰に対する無理解と真っ赤な嘘の詭弁が始まっているのです。そのベースは、楽山の曲解による「心の理論」や奇跡についての話に明確に表れています。ひとかどの人物を気取り続けるナルシストであり、何を言っても、否定されることのない、訂正不能の妄想的確信なのでしょう。
 
"本能の誤作動"は、楽山が、宗教について語り出してから、ずっと起こっていることです。錯覚と見なされるのではなく、錯覚か誤謬か妄想なのです。感覚を消すことが無理なら、良識をもって高慢な思いを自ら戒めないから、健全ではなくなっていますが、もはや、読む人を誤作動に誘導・誘発しかねないほど有害であります。
 
他者の理屈をなぞって、同僚同士であるかのように賛否を云々するほど、楽山は、思い上がっていて、思考と感性の第一歩から、何か分かったという結実も示せていません。
 
楽山の言は、無と無駄を小脇に抱えて気づくこともなく、無病識の高ぶった空想のペンを走らせて、公共に向かって発せられる迷惑メールのようなものです。
 

自分は別に無神論にそこまで入れ込んでいるわけではないのではあるが、ただそれでも根っからの無神論者には世界がどのように見え、何を感じるのかということは自分には決して知り得ないだろうことは残念であり、物足りないような気がしないでもない。結局のところ、人は自分の視点からでしか世界を見ることはできず、他人の見ている景色は分からないものなのだから、こんなことを残念がっても仕方ないのではあるが、それでもやっぱり残念ではある。

 
無神論にも、有神論にも、キリスト教にも、キリスト信仰にも、一歩も、入り込めないのが、楽山です。彼が、何かに入れ込んでいないのではありません。入れ込むほどの知識も感受性も、今まで表されたことはないのです。楽山が、今まで示したのは、劣悪な詭弁と悪意だけです。
 
楽山の言は、全くの自慰行為であり、他者の意見のうち都合の良いものだけを取り上げてくる態度は、それもまた的外れになって、独りで書いて独りで笑っているだけの反復運動に過ぎません。目をつぶって書いているのかと勘ぐりたくなるほどの面の皮です。
 
バクテリアが、顕微鏡下で、細かく震えているように見えるのに似て、真面目に考える人々を、惑わすか、苛立たせるだけで、収穫のない培地に巣食って、自覚もなく、学者気取りだけで棲(す)んで、誰も答えないところで、どんなもんだい、と凄(すご)んで悦に入っているだけなのです。
 
他人の見ている景色は分からないことは、他人の見ている景色を無視する根拠にはなりません。他人の見ている多くの異なった景色から、思慮に置いて学ぶこともあり、また、自分の視点を執拗に書くことは慎むのが大人ですが、楽山は、自分の視点から世界を見て、それをしつこく書いて、的外れで著しい見当違いであることに気づかないからでしょうか、どうしても、一人前の学者か批評家のように振る舞いたい欲望の執念の虜(とりこ)なのでしょう。
 
一部の読者に、やさしい人柄だと、宗教と信仰の記事だと、これがキリスト教だと、平気で勘違いさせようとする分だけ、迷惑で有害です。
 
努力と我執は違うのです。
 
 
(2020年04月04日)
 
 
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