ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

神と人の未分化(2)

 
  神と人の未分化(2)
 
 神様に、心寄り添うこと。
 https://ameblo.jp/magumaria/entry-12585275432.html
 magumaria(自称マグダラのマリア)のブログ
 
 
以前、自称マグダラは、キリスト者の証明として、洗礼に関するらしい何かの書類の写真を出してきました。キリスト者であることは、書類で証明するものではありません。
 

多くの人は忘れてるの。
神様と家族、親子だということを。
神様見ないで、自分だけ見てる。
自己愛は、、サタンの愛。偽物の愛。

 
人間は、神が神だと分かるような、同じ全能を持っていないのだから、家族でも親子でも、守るべき節操があります。それを弁(わきま)えないと、神を哀れむような冒涜の者となるのです。
 
そうなると、サタンについても、同じように扱って、言葉だけ、愛に満ちているような台詞(せりふ)が並びます。
 
自己愛は、誰でも持っているもので、即、サタンの愛でも偽物の愛でもありません。
 
自己愛が過剰になると、平気で他者を傷つけたり、変な笑い方で、侮辱してきたりするようになり、とても醜いさまを呈するようになります。
 

自分だけしか見えない。
自分だけしか愛せない未熟な愛。
神様は、自己愛ではなく、他者へ注ぐ完全愛。

 
 (マルコによる福音書、口語訳)
12:29
エスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
12:30
心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
12:31
第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
 (マルコ12:29-31、新約聖書
 
(ネットより)
聖書には,自分を愛するようにというおきてはないものの,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」という言葉から,適度に自分を愛し自尊心を持つことが自然で有益であることが分かります。
https://www.jw.org/ja/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88/%E8%B3%AA%E5%95%8F/%E8%87%AA%E5%88%86%E3%82%92%E6%84%9B%E3%81%99%E3%82%8B/
 
キリスト信仰は、自分を愛することを否定する信仰ではありません。
 
また、神は、完全愛ですから、ご自身を愛する必要も、ご自身を愛するかどうか考える必要もない御方です。
 

最初にかたちとして創造された天使さえ、知恵がありすぎたために、おごって、神様の御心に従うことより、自分の方が人より優れてると、優劣で比較することでの自他との対比で、優劣を判断する。

 
堕落した天使は、悪霊ということになっています。自称マグダラは、悪霊に詳しいのでしょうか。ホラー映画のように考えているのではないでしょうか。
 
 (ペテロの第一の手紙、口語訳)5:8
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
 (1ペテロ5:8、新約聖書
 
ホラー映画のようではない悪魔性は、悪意の表れとして、現れるでしょう。人間の持つ悪意は、他にも、憎しみ、呪い、怨念、などがあります。訂正不能の妄想信条となっている場合もあるでしょう。
 

神様目線は違うの。
すべてが平等、
全てに存在価値があり、
すべてを愛している、。

 
神様目線は、全知全能の神においては当たり前のことですが、人間には出来ない神のわざです。
 

自分が、、と言う自我欲ゼロ状態。
生きてる人もね、。
自分が、と言う自己優先思考をポイして、
神様と同じ目線で見るようになると
居る世界が変わる。
見方が変われば思考も変わるし、
そうなることで周りも変わって行って、和合状態に変わっていく。

 
神の欲望を考えるのは無意味です。総て備えておられる御方です。
 
人間が、神と同じ目線になることは不可能です。神と人の決定的な違いを弁えないで、気安く考えて教えたがるカルトの言い分でしょう。
 
何が和合状態なのでしょう。例えば、和解というのは、人が、しばしば、赦しと救いを拒んで神に逆らうから、言われていることです。
 
信仰は、神と親友のように仲直りすることとは違います。神は全能をもって支配する御方です。
 

自分の基本思考が、自分の常に居る世界、環境に、大きな影響を与えてる。

 
説明不足か、意味不明です。
 

エス様の愛パワーのオーラ、波動エネルギーって、2キロくらいどーんとあったのかしら。
ラザロの死者蘇生、言葉だけで、手も触れずに霊的エネルギーが届いたわけだし。

 
オーラ、波動エネルギー、ドーン、死者蘇生、霊的エネルギー、
・・実に、節操なく、好きなように、超常言葉を使っています。大仰に見せたいカルトは、このようになります。
 
物や肉体に起こる奇跡は、人知では理解できないものであり、実際あったと信じ込むことも、なかったと否定して信じ込むことも、人知を超えて、肯定否定を人が決めつけることであり、信仰に反するものだと思います。
 
カルトは、大方、分かっている、知っている、守っている、という、自らの完全を、ひけらかし、飾り、自らを高めて、教えたがります。
 
キリスト信仰においては、神と違って超常は分からない、と弁えることの重要性が試されていると考えているべきでしょう。
 

エス様の暖かで強大な愛エネルギーに触れて、側にいた人は回心したり、金縛りのように動けなくなったり、イエス様が見えなくなったり、、
大きな影響を受けた。

 
キリストによって人々に与えられた救いを、愛エネルギー、金縛り、などと、超常に方向づけさせた言い方です。
 
愛という言葉に、エネルギーをつけないときが済まないのでしょうか。科学風味に見せかけたいのでしょうか。恐らく、愛というものが分からないのではないかと思います。
 
だから、また、飾りをつけて、物理的な力みたいに言うのでしょう。
 
人には理解できない物や肉体の超常の奇跡を、エネルギーを付けても、少しも分かりやすくはならないのです。
 
人に理解できる愛と共感について、エネルギーをつけて説明したつもりなら、愛が分かっていないことになります。
 
人間の良心に響くのが、キリストの教えです。それは、聖書を読むことによって理解して受け取ることが必要です。
 
超常的奇跡については、結局、神に任されることとして、安易に頷くのではなく、驚きを表しても、詳しい理解を保留しておくことが、神への恐れ、すなわち、敬虔を表すことになります。
 
自称マグダラは、安易な感傷と、高慢からの、俗に言うヒステリックな易怒性に特徴があり、
自称ヨシュアは、パリサイ的教条主義と、興奮して見境がつかなくなる易怒性に特徴があります。
 
この二人の無理解の最たるものは、神の愛の絶対性と、人の愛の相対性を、全く区別できないところにあります。
 
ゆえに、行いによって得られるとする行為義認と、信仰によって与えられる人の義、すなわち、信仰義認、という二つの義の区別が、全くできないでいます。
 
キリスト信仰によって赦されて与えられる人の義を信仰義認と言います。
 
しかし、自称マグダラと自称ヨシュアが説く信仰?の間違いは、霊の呪いで脅すだけでなく、信仰義認を理解できないまま、ありがたくて?豪語する?信仰?を唱えていることであり、それをもって、教えを守って完全になれるなどと言っている行為義認、という大きな曲解を広めようとしていることです。
 
それを、人それぞれで許していたら、彼らは広めようとしているわけだから、もし広まった場合を仮想したら、それこそ、再びキリストを殺すようなパリサイ的精神優勢の宗教世界になるという予測が成り立つので、その危惧と、そうならないための対策として、批判が必要になるということです。
 
 
(2020年04月07日)
 
 
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