ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

神と人の未分化(4)

 
  神と人の未分化(4)
 
 神様に、心寄り添うこと。
 https://ameblo.jp/magumaria/entry-12585275432.html
 magumaria(自称マグダラのマリア)のブログ
 
 
プラス思考、自分を信じる、クソ悪い人間、どんぱち、など、人に勧め、人のことを言っていますが、いつのまにか、自分自身のことを暴いて見せてくれる自称マグダラです。
 

最初は、絶対に幸せになろうと決めると
100%、嘘でしょーって思うことが起きる。
生理的に受け入れ難い方向から話が来ることが多い。

 
他のスピリチュアルのことでしょうか。生理的に、という言い方は、昨今、強意で使われるようです。最初から、直感的に、嫌い、という意味でしょうか。
 
スピリチュアルも、人間をよく見ている、また、見ようとしている人は、批判対象にはなりませんが、自称マグダラは、自らのスピリチュアルに、キリストの父なる神を飾りに使って、その名を利用しているので、長きにわたって批判対象となります。
 

そこで、冷静になること。
これ受け入れた方が良いか悪いか、
焦らない、怒らないで、プラス思考で思考してみる。出来得る限り起きてくる流れに従うこと。

 
冷静になるのは当然ですが、そのあと、プラス思考で、というのは、説明になっていません。"プラス思考"を付けることで、受け入れる方向なのでしょうか、受け入れさせる方向なのでしょうか。ゆえに、はたして言われたとおり流れに従っていいのかどうか、甚だ疑わしいです。
 

あきらめないで出来る範囲での努力することは、当たり前ですが、。
絶対に幸せになるって決める、、
自分を信じることが第一歩。
神様は、そもそも人の不幸を望まれてない。
人が不幸を招くのは
自分が先に持つ他の人への妬み、恐れ、憎しみから来る因果応報のブーメランによるもので、自己責任が多い。

 
絶対を、自分に決め込むことを勧めています。念じて、成就する、という考え方は、キリスト教とキリスト信仰には、ありません。
 
自分を信じることが第一歩・・だそうです。神ではないのでしょうか。自力のカルト臭が、プンプン臭ってきます。
 
妬み、恐れ、憎しみが不幸を招くとは、よく言われることですが、因果応報のブーメランで、自己責任が多い、と書いてしまうと、一方的な人災つまり犯罪被害が無視されてゆくでしょう。それとも、印象を比喩的暗示的に吹き込むような刷り込みの表現で、キリスト教とキリスト信仰を曲げてゆく生業を、正当化するつもりなのでしょうか。
 
人に教えているようでありながら、実際は、自分の不法の有り様を、自分で暴いているような文章になってくるのは、シャロームも楽山も、同様であります。因果応報のブーメラン?になってしまうのでしょう。
 

性格がクソ悪い人間も居ないと
良い人を良いってわかんないからね。
悪い性格をする損な役割をしてくれてありがとうって感謝するようになると、
悪い性格を教える役割を、その人はするのを終わって、別の人のように変わっていく。

 
良い人ばかりになって、良いってことが意識されなくなれば、それが理想だとも思いますが、性格がクソ悪い人間をご所望なのでしょうか。そこから、以前、自称マグダラが言った「プププ」「けろっ」の自分は、除外するのでしょうか、ここで他者のことを「クソ悪い」と書いている自身も除外するのでしょうか。別の人のように変わってなどいない性根の自称マグダラです。
 

人同士って、、知らずに、魂同士で脳波で、念波で情報やり取りして
自分が思ってるその人像を具現化してる。
自分が相手悪く思わずニュートラルでいたら、相手も善でも悪でもないニュートラルでいてくれる。

 
科学の脳波、心霊か何かの念波で、情報やり取りしているのだそうです。ふつうは、言葉や態度で交流します。ふつうが嫌いのようですが、組み合わせて造語しまくりの印象が強くなります。自分には分かっていると言いたいのでしょうか。
 
ブログ主の自称マグダラは、やさしい善人芝居と、豹変して、プププ、ケロッと、罵るときの悪人丸出しの様子が、振幅の大きい両極端という感じです。決してニュートラルではない。
 

手前味噌だけど、私の家のある路地のご近所さんは、穏やかです。
一本隣の路地のご近所さんは、
他と比較して、自分が、、と自己主張して、ぶつかりあいしてばかり。

 
ここで、褒め言葉と悪口の世間話を入れる理由はというと、二人の人格を比較して、善人ぶりを特別に褒めたいようです。ここも、両極端があり、まるで、自称マグダラの二面性を表しているようなのですが。
 

御近所同士でよくどんぱちお祭りやるなーと私は思います。
自分の自我が自分の周りに影響をあたえてるんですね。
一本隣とこっちで、あまりの差にびっくりですし、奇跡的だと思うので、お父さん、ありがとうって感謝しかないです。

 
どんぱちやれば、影響はあるでしょう。誰かの自業自得の災いと、自分の違いを喜んで、神に感謝するのは、的外れです。
 
この両極端は、自称マグダラ自身であり、ゆえに、他人事として取り上げてしまうのではないかと思われます。それに、自称マグダラの感謝は「あのようでないことを感謝します」というパリサイ人の祈りに似ています。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)18:11
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
 (ルカ18:11、新約聖書
 
自称マグダラの自我は、自業自得として、ブーメランでもあり、影響も与えて、批判という形で、戻ってきています。他にも戻ってくるものがあるかもしれません。これをキリスト信仰だと思ってはいけません。
 

自我、。自分目線を捨てて、魂目線で見ることで、神様の御心を感じ取れるし、周りとゴタゴタ起きないから神様に感謝して幸せに活き続けれる。

 
魂目線、というのを発明しています。神の御心を感じ取れると、カルトらしい発言です。幸せに生き続けられる、というなら、なぜ、怒るんでしょう。それは、都合の悪い他者を呪った結果なのでしょうか。恐ろしいことです。
 

幸せは自分の自我の目線だから悪く思ったり、比較する見え方になる。
受け入れる見方をすれば、平和なミニ世界が増えて、どんどん増えたら世界中が平和になります。

 
このように、冷静客観視を、魂目線と言ったり、ここでは、受け入れる見方と言ったりしていますが、世界平和まで、一気に語ってしまうのはカルトの癖なのでしょうか。
 
受け入れる見方、というのが、とても、怪しいです。自称マグダラには、受け入れられない自分と、受け入れさせる自分、という、何か経験でもあるのだろうかと思います。
 
いずれにしても、軽々に受け入れることは、特に宗教においては、考えものです。このことは常識なのですが、カルトは、受け入れることだけを勧めてくる特徴があります。
 

神様に想いを向けるように
相手の魂を神様御自身だと思って
想いやることで、いくらでも平和になるんです。

 
相手の魂を神様自身だと思ってはいけないと思います。隣人とは、あくまで、人間関係として考えるべきです。ここで、ますます、神人未分化を表しているようです。神人未分化は、カルトにしばしば見られる傾向です。そこから、絶対正しい・・を振り回してきます。
 
一方、カルトは、決して、他の教えを受け容れないという特徴があります。何故なら、自説を、絶対化して、固定して、訂正不能にしているからです。
 

自我というね。
比較することで
自分を優先すようとする癖が、
人間にはあるので、
その癖を頑張って少しずつやめること、我慢することが、
他者愛への真の目覚めに繋がります

 
特に珍しいことは言っていないが、前のほうで、「自己愛は、、サタンの愛。偽物の愛。」と言って、止めるように言ったことを批判していますから、自己中はいけないということなのでしょう。
 
自称マグダラが、自身のブログで、実に、感情的に防衛して、ひどいことを言ったのは、(1)の冒頭に書きました。人に向かって言うことと、自分の有り様が、全く異なっています。
 

頑張ったら、自分の願うように
周りがいつのまにか穏やかに変化してます。
マグダラのマリア

 
穏やかに変化してないと思います。自称マグダラを嫌になって逃げた人はいるでしょうし、私が批判しようと思ったらお味方が批判返しにならない嫌がらせをしてきたことがあって、時間がなくなり、ご無沙汰したことはありますし、シャロームや楽山のように、文句言う人を遮断して、刺激のない精神環境を作って、不感不応の安穏境地に浸っている人もいますが。
 
スピリチュアルが認められるのは、人間を見て洞察する目があること、そして、その目を自分自身にも向けられることです。
 
ブログ主の自称マグダラは、スピリチュアルなキリスト者を装っているだけだと思います。何故なら、人のことを多く書いていますが、自分を見る目を感じません。
 
前に書いていたのは、罪深かったが、キリストに救われて、今は、命がけでもあるような自らの信仰のことですが、そのような信仰自慢は、キリスト者なら、しないのです。神を恐れ、敬虔であることを学ぶからです。罪を認めても、立ち直った自分を誇るなら、それは信仰ではありません。
 
罪を認めるなら、罪人として、自らを誇ったり、信仰自慢をしたりは、しません。神の前に、恥ずかしい自分を知っているからです。そのことを、砕かれた魂、あるいは、へりくだる姿勢をもって祈りを捧げるのが信仰です。
 
 
 『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』香山リカ
 http://mn266z.blog.jp/archives/24285080.html
 2020年04月08日 楽山日記(LD)
 
 
楽山からの、自己満足と状況無視と感性の鈍麻による産物です。
 

スピリチュアルにハマる人、ハマらない人
しばらく前に読んだ本だが、内容はすっかり忘れてしまったので再読してみた。まず本書の全体の流れとしては、序章から第3章まではスピリチュアルブームが到来している現状(2006年当時)を述べ、第4章以降ではスピリチュアルを信じる人々の心理を分析している。ここでは他の学者の意見を紹介していてなかなかに興味深い。

 
念のため、まず、楽山は、スピリチュアルではありません。また、楽山は、他者に興味など、ありません。楽山は、ただ、自分が、いかに特別であるかを語りたいのです。学者そしてスピリチュアルと同等~それ以上だと言いたいだけだと思います。
 
楽山は、何につけ、宗教についても、通念的思考の、それも、安いところだけをなぞってきますから、見るべき新しいものがありません。しかも、そういう思考の中に、自らの自己愛が、オイル漏れのように、滲み出てきますから、一種異様な刺激臭となっています。
 

たとえば、彼らにとってスピリチュアルはライナスの毛布と同じ役割をしているのではないかとか、自分の抱える問題については、たとえそれが社会、政治、歴史に関わる大きな問題であっても、自分の自己責任ととらえ、自分さえ変われば解決すると思い込んでいたりするとか、またその一方で彼らは自己中心で自分の幸せが第一であることが多く、そのため他者への奉仕に努める宗教ではなく、自己実現のためのスピリチュアルに近づくとか、なるほどと思える指摘が多々あった。

 
尊大な楽山は、このように、自分が知っていることについて、知らない人のための思いやりがないので、用語の説明をしません。それが、楽山の、ライナスの毛布なのでしょう。そうすることで、偉くなった気分に落ち着いていられるのでしょう。
 
(ネットより)
安心毛布(あんしんもうふ、英: security blanket)とは、人が物などに執着している状態を指す。一般で言う「お気に入り」や「愛着」がこれにあたる。漫画『ピーナッツ』に登場するライナスがいつも肌身離さず毛布を持っていることにより「ライナスの毛布」とも呼ばれる[1]。
幼児は何かに執着することで安心感を得ている。成長するにつれ、幼児の時に執着していたものから離れていくが、大人になってからでも新たに執着することがある。子供がよく人形や玩具を離さずに持ち続ける様を「安心毛布」であると言える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%BF%83%E6%AF%9B%E5%B8%83
 
自分さえ変われば解決すると思い込むのも間違いですが、自分は変わる必要がないと、全然変わることのない自尊に安穏としているのは、もっと有害だと思います。
 
詭弁家で嘘吐きの楽山に、スピリチュアルを批評する資格も能力もないのです。楽山に実現される自己の幸せはありません。代わりに、不変不感不応の、まるで、機械のように、古いオイルにまみれ続ける軋み音だけが文章となって、楽山に快楽を与え、一方で、読む人に不快と疲労をもたらします。
 

タイトルについては、著者はあとがきで、「ハマるか、ハマらないかはその人次第。結局は、そう言うしかないようだ」と、あっさり放り出してしまっているのはおかしい。最終的にはそういう結論にならざるを得ないのかもしれないが、そう簡単に開き直られてしまっては、タイトルにつられて本書に興味を持った自分のようなものからしたら、ズッコケてしまわないではいられない(笑)。でもまあ、いろいろな知ることができたし、中盤以降はおもしろかったし、個人的には読んで良かった本ではある。

 
楽山が、批判されて、弁明や反論が出来なくても、笑っていられる、ということが表れています。
 
楽山は、批判されていること知っています。まともに答えたことはありません。いかなる批判も、悪口と見なして、汲み取ることなく、無視できるのです。
 
そして「ズッコケてしまわないではいられない(笑)」と書いています。そして「いろいろな知ることができた」「おもしろかった」「読んで良かった」と、小学生のような感想を書いて、満悦することが出来るのです。
 
ということは、この楽山は、どんなに外れたことをしても、社交の挨拶をし、社交の世辞を言い、深みのない感想文を、いくらでも書けるほど、人を無視できるということです。
 
つまり、楽山と付き合う人は、自分の言ったことが全く聞かれていないことを覚悟することが必要になります。そして、楽山の言うことだけを聞かされることになります。ここに、人格破壊の必然があると思います。対話が全く成り立たない人なのです。
 
人間は、独りぼっちでは生きてゆけないと言われます。しかし、楽山やシャロームのように、自分のことしか考えないで、柔和を装いながら、他者を批評の対象としか見れないで、つまるところ、罪悪感を持たず、非を認めず、じわじわと他者を飾り物か食い物にしてゆくだけのような自己中の病質があることを知ってほしいと思います。
 
しかも、刷り込むことで感情や気づきの鈍麻した犠牲者から、犠牲になっている自覚さえも奪い、同じような自己中に変えてゆく性質があります。楽山の場合、それが、手段としての詭弁と刷り込みと"ボンヤリ言語"なのです。私としては、こういうことは、積極的に、警鐘~警報として敷衍(ふえん)するべきだと思います。
 
 
(2020年04月10日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp/
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
https://philosophy.blogmura.com/christian/
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html