ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

無反省の婉曲と本音

 
  無反省の婉曲と本音
 
 人は見たいものを見て、信じたいものを信じる!?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24301762.html
 2020年04月09日 楽山日記(LD)
 
 
見たいものが、そんなに見れるでしょうか。楽山だけが、見ているつもりで、実は、自分を全く見ていない有り様が続いています。
 

「人は自分が見たいものは見ても、見たくないものは見ないものだ」という話はよく聞く話だが、本書でもそれらしい指摘があった。

幸福な人は悪を無視せずにはいられない。そこで、傍観者の目には、幸福な人が強情に悪に眼を閉じ、悪をもみ消そうとしているかのように映るかもしれない。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.137)
 」
思うに、「ポジティブ思考を心掛けよう」という程度ならまだしも、「常にポジティブでなければならぬ。マイナスの思いは絶対にダメだ」というところまで行ってしまっている人は、確かにこのような状態に陥っている事が多い。

 
いったい誰を指して言っているのでしょう。楽山は、幸福なのでしょうか。もし、幸福なら、それは、アドラー教の宣伝者として、都合の悪いことを総て無視しているからだとしか言いようがありません。今、楽山に必要なのは、ポジティブ思考を勘違いして、批判を無視することではなく、深く反省して、今までの思考の姿勢を改めることでしかありません。
 

宗教の信者のなかにも、信仰による幸福を守るために、それをおびやかしかねない事柄に対しては頑強に目を瞑り、無視しようとする人を見掛けることはある。

 
見掛けることはあると、他者のことばかり言っています。いままで、例えば、「心の理論」における詭弁、奇跡についての記事における極めて幼稚な循環論法、無根拠にシャロームの肩を持ったこと、心理学者を心霊学者と言ったこと、実に神についての疑問、キリスト者でもないのに分かっているかのような慢心と、クリスチャン芝居、などなど、呆れるようなことを評論家みたいな口調で言ってきたわけです。人のことを言う資格はないと思います。
 
まさに、自己愛の慢心を守るために、それを脅かしかねない事柄に対して頑強に目をつぶり、無視してきたのは、楽山その人であります。このように、人を斬れば、その刃で、自分が斬られるという有り様に、今、楽山は、堕ちているのです。
 

傍からすれば、そういう人たちに対しては、自分の殻に閉じこもってばかりいないで、外に出て前に歩き出したらどうかと言いたくもなるけれども、本人からしたら信仰という名の幸福の中にこもり、それを邪魔するものはすべて忌むべきことであり、悪であると思い込み、決して人の話には耳を貸さないのだから仕方がない。

 
楽山は、自分の安穏境地から単方向で発信するだけで、学習も成長もしないで、一歩も前に進んでいない有り様だけを見せているのは、決して信仰ではなく、霊が分かるっぽいわけでもなく、不感不応無反省の慢心によるものです。
 
そして、邪魔する者は総て忌むべきことであり、悪であると思い込み、決して人の話に耳を貸さないでいるのは、まさに楽山その人です。仕方ないのではなく、嘘の宗教理解を広められるのは、キリスト者としては、甚だ迷惑です。
 

こういう風に心をかたくなにしてしまうところは、宗教の欠点というか…宗教にハマり過ぎている人の欠点であると思う。

 
心を頑なにして、自らを訂正不能にしているのは、楽山の人格破壊が進んでいる証拠であり、自己愛の沼で、溺れているからなのです。それでも書いてくるのは、見境が付かない分だけ、実に迷惑な話です。
 
このように、楽山は、他者に対してのみ、宗教にはまり過ぎている欠点だと、またしても無根拠に言い張り、自らを省みることが出来ません。大人ではなく、未熟な心霊趣味が高じた結果としての、自己中凝固に過ぎません。私は、楽山には何の興味もないが、迷惑なので、その人格破壊の必然を書いています。
 
 
 感情に振り回されがちな人
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24301944.html
 楽山日記(LD)2020年04月09日
 
 
楽山が、本音を漏らしていますが、不都合を人のせいにしているだけです。
 

恥ずかしながら、自分は気分屋なところがあるので、こういう指摘はちと耳に痛いものがある。

健全な心の情熱家が悪の存在そのものを無視するにいたるように、憂鬱性の人間はいかなる善であろうと、心ならずも、その存在をことごとく無視してしまわずにはいられない。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、pp.219-220)
 」
あまりにも幸せ過ぎると、他人の不幸に気づきにくくなったりするだけでなく、自分に向けられた悪意にさえ鈍感になることはあるものだ。俗にいう、平和ボケなどは、まさにそんな状態だろう。

 
楽山の鈍感は、自己愛とアドラー教から来るところの、気に入らないことは無視しましょう、という教えを病的な我執によって、守っているからだと思います。
 
自分に向けられた批判を、平気で悪意と決めつけて、その原因を考えるでもなく、反省せず、成長もしないところには、自己破壊が進行してきたのです。
 
今回も、無視を続けているので、鈍感を、他人事のように、平和ボケなどと言っているところに、自身の状況についての不感不応として表れています。
 

またこれとは反対に、不幸の最中にあるときは、他者の厚意が信じられなくなるというのはいかにもありがちなことではある。相手が親切心から気遣っているのを、悪意によるものだと勘違いして激怒したりなど…。

 
相手がどうだからどうなる、といったことは、楽山には、いっさい、当てはまりません。楽山は、気に入らないことと不都合は、その時その場で、無視して、安らぎとは全く異なるところの、刹那的な気楽さをつないで生きているのです。
 
無視するということは、次の反応がないために、無視しても、なくなることはなく、未処理となって、心の底に溜まって、心を曇らせてゆくことを知らないのでしょう。
 
そこから、恐ろしいほどの鈍感、不感不応、自己満悦、人間離れが生まれるのです。だから、ヘラヘラ笑うことさえ、できるようになるでしょう、というより、するようになるでしょう。
 

大概の人は、自分は物事を客観的かつ公平に見て判断しているつもりであろうし、少なくともそうありたいと努めているのだろうけれども、現実には自分の精神状態によって偏った判断をしてしまうことは少なくないだろうし、残念ながらそれが人というものなのだろう。

 
このように楽山が言うことに対しては、楽山にとって、全く反省になっていない、ということが表れ続けきた経過から、人というものなのだろうという、人間一般に帰するのは全く通用しないということです。楽山固有の自己愛を一般化など出来はしない。
 
このままでは、鈍感な精神状態は継続して積み重なり、偏りや傾きや自己中を、さらに増幅し尖鋭化して、最後にはパンクして、何も感じなくなるでしょう。
 

もちろんこれは自分も例外ではない。しかもそれを承知でいながら自分は客観的かつ公平に判断していると自惚れているのだから始末が悪い。こういう自分の至らなさは決して忘れないようにしたい。自分のことは棚の上において、人のことばかり責める奴にはなりたくないので。

 
最近、反省を装う嘘が目立ってきました。言葉で言うだけという安易さだと感じるのは、具体的な行為と態度と書いたものにおいて何も変わらないし、批評家気取りの上から目線が続いているからです。楽山の行為と産物が、楽山の言葉を否定している表れなのですから、作為の反省芝居は無駄なのです。
 
楽山が、反省しているなら、この批判されている状況で、行為を改め、訂正する以外にはないことが分かるはずですが、それは全く見られず、また、無反省に、書いてくるから、当然、批判対象になるのです。
 
>自分のことは棚の上において、人のことばかり責める奴にはなりたくないので。<
 
ここに、本音が表れています。こちらを、自分のことを棚に上げて"人ばかり責める奴"と言って、自分はそうじゃないみたいな気持ちでいるなら、これこそが、楽山が、人を責めるが、反省できない自己中で、罪悪感を持てない人であることを表しているのです。
 
私は、必然的に生じてくる楽山の言論の異常さを書いています。それが不服なら、弁明と反論をするべきですが、今までもそうであったように、楽山には出来ないのです。できないものだから、上のようなことを書いてきます。これは、楽山の悪態です。ようやく、出てきました。
 
つまり、今までの、例えば、それに見合う洞察の鋭さなど何も表せないのに霊が分かるっぽいという自己満悦、そして、「心の理論」における詭弁、奇跡についての記事における循環論法、無根拠にシャロームの肩を持ったこと、心理学者を心霊学者と言ったこと、実に幼稚な神についてのいちゃもんのよう、キリスト者でもないのに分かっているかのような慢心とクリスチャン芝居、これらには、弁明の余地などないのです。
 
そして、楽山が満足するような、言いたいだけ言わせてくれて、霊が分かるんですね、などと言ってくれる世界が普通だと思っているなら、それは大きな間違いであり、もはや、楽山は、理解も共感も失って、妄想的自己確信から物を言って、誰からも相手にされないで、空転して、あちこちに衝突するだけの独楽に過ぎないということです。
 
おかしなことを書けば、書いてきたことの流れや、書いていることの文脈から、おかしいという指摘が返ってくる、という、それだけのことです。とんでもないことを言えば、とんでもないという指摘をするしかないのです。
 
楽山は、まるで、小学校の図形の問題のように、神を平面において、それを見下ろして、ああだこうだと言っているだけです。神は、楽山ごときに、ペーパーの上に乗せられて載せられたりするような御方ではありません。
 
キリスト者は、そのことを知っているので、神を恐れて、神は云々・・などと言う軽口を控えるのです。私が、楽山の記事の批判として書いているのは、神を恐るべし、ということに尽きるでしょう。
 
神を全く理解していない無能が、分かったふうに、全能を語るという身の程知らずに対して、神を恐れるキリスト者としては、その弊害を防ぐために、できることをするだけです。
 
基本的な理解力がなく、対話が成り立たないのに、ボンヤリ言語で、刷り込んでくるような楽山には、誰も近づいてはいけないと思います。
 
 
以前、楽山が言った、見当外れの壊れた玩具のような言葉を思い出しました。
 「臭い芝居」
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12452488911.html
 
楽山:
 
「愛そうにも、愛させてくれないことにはどうにもならなかったりする」
 
私:
 
違います。そもそも、「愛させてくれないことには」って何でしょう。愛させてくれる、くれない、・・っていう対象についての、この楽山の、不躾で、がさつで、未熟で、臭い言葉。
 
愛するには、愛する対象が、いてくれてありがとう、以外ないのです。
 
この言葉の世界が直感できないことにはどうにもならないのです。この、何とも言えない、がさつさが、ずっと変わらず、センスのない臭みとして、ずるずる引きずるように、付いてくるのが、楽山の嘘っぱちワールドなのです。
 
ふつうは、自分の未熟さや、至らなさを知って、修正しながら努力することが学習と成長につながるのですが、楽山が、それを怠って、勝手に被害的で他罰的になって、それを、いくら、ボンヤリ言語で、ごまかそうとしても、人のせいにしても、どうにもなりません。
 
 
(2020年04月11日)
 
 
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