ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

凶暴な偽善

 
  凶暴な偽善
 
 ユダは地獄に堕ちたのか?
 (『ライ麦畑でつかまえてサリンジャー
 2017年09月20日
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512795.html
 
 
楽山は、反キリスト教であることを隠してきたようです。2020年4月12日の記事中にリンクを付けた先の記事は2017年の記事で、私は、まだ、楽山に関わっていないと思います。つまり、おかしな記事を私に批判される前から、楽山は反キリスト教だったということです。
 
結局、以前から、反キリスト教の記事を書いていたことが明らかになります。ボンヤリ言語でクリスチャン芝居をしてきたのも全く騙しのわざだったのです。
 
キリスト教と反キリストであることを、かっこいい、とでも思っているのでしょうか。楽山やシャロームなどの易坊類の言は、反骨精神とは真逆であります。むしろ、聖書に語られ、キリストを殺したパリサイ人にそっくり当てはまるのです。無視と悪意と狡賢さだけで生きているようなものです。
 

ライ麦畑でつかまえて」の中で
ユダは地獄に堕ちてないという話があったなあ
と思って、見直してみたら、14節にあった

今でも覚えてるけど、僕はチャイルズに、ユダは自殺をした後で、地獄へ行ったと思うかって訊いたんだ。イエスを裏切ったりなんかしたあのユダさ。チャイルズは、もちろん、と言ったね。そこなんだな、僕が彼と意見の合わないのは。僕は、千ドル賭けてもいいけど、イエスは絶対にユダを地獄になんか送らない、と言った。今でも僕は、千ドル賭けるね。もし千ドルあったらば。あの使徒たちだったら、どの人だって、ユダを地獄に送ったろうと思う――しかも、さっさとさ――しかし、何でも賭けるけど、イエスは絶対にそんなことはしない。
(『ライ麦畑でつかまえて(新装版)』サリンジャー著、野崎孝訳、白水社、1992年、p.142)
 」
これを、はじめて読んだのは
もう大分、前のことだけど
すごく感動したのだった
たしかに、イエスだったらそうするかもしれない
いや、そうするにちがいない

 
このように、聖なる御方の意志を、そうするにちがいないと、想像において決めつける者は、結局、聖なる御方さえも、想像の存在に貶めて、自己愛の絶対性を育ててゆくのです。
 
なお、私は、ユダが地獄に落ちたかどうかについて、確信はしておらず、保留しています。何故なら、前の記事に聖句を引用して書いたように、ユダは裏切りを後悔していたからです。前の記事にも書きましたが、後悔の有無は、ユダと楽山との違うところです。
 

もっともこれは
自分のイメージするイエスがそうだというだけであって
実際のイエスがどうなのかは分からないのだけれど…

 
だったら、"違いない"は訂正するべきですね。楽山は、訂正したのでしょうか。以下の話は、その続きで語られています。訂正したか、神に対する己の立場を弁えたか、の答えは、ノー、であります。この辺りからも、楽山の自己愛は加速されているのでしょう。
 

そういえば
坂本竜馬の小説か、漫画で
坂本竜馬がいないところで
海援隊の連中が
仲間の一人の非を責め、切腹させた場面があった
しかも介錯しないで、そのまま放置して、長く苦しませていた
もし竜馬がその場にいたなら、そんなことはさせなかったが
竜馬がいなかったために、それを止められなかったというエピソードだった

 
キリストとユダの話に、坂本龍馬を持ち出して何か意味があるでしょうか。言っていることも、切腹させて、放置して長く苦しませたことを、竜馬がいれば、そうはさせなかった。これで、何が言いたいのでしょう。キリストを歴史上の人物としか思っていない証拠です。これで、祈るキリスト者を装っていたのです。
 

ここで語られている関係性は
ライ麦~」で語られている
エス、ユダ、ユダ以外の使徒たちの関係と似てる
こう考えると
本当に恐ろしいのは
神の裁きではなく
狂信者や、無知な大衆による裁きなのかもしれない
「こんなやつは、地獄に堕ちて当然だ」という発想

 
いちばん恐るべきは、神の裁きですが、これは、人間らしい良心があるかどうかということです。神の前に正直であれば、神は、罪だけでなく、一粒の良心も見逃すことはないのです。
 
このように、神は、恐るべき御方として信仰される存在です。人に対して、神の前に正直であることだけが求められるでしょう。それで、寛容な慈愛の神でもあるのです。
 
悪を恐れるのとは全然違って、神を決めつける悪は、偽善であり、偽善者にとって、神は、最も恐るべきものとして存在します。だから、偽善者は、神を決して認めないのです。
 
いちばん恐ろしいのは、狂信に至ったり、人間にとって欠くことのできないことについて無知であったり、自分に甘く、人に対して凶暴になってしまう偽善者です。
 
よって、何よりも、神の怒りを買うのは、広き門は地獄への入り口、と聞いて、広き門において、ヘラヘラ、デレデレ、しながら、自分が神のごとく訂正不能の妄想で人を裁いておきながら、善人面で、被害者気取りで、地獄行きという発想が恐ろしいなどと、平気で言ってのける偽善者であります。
 
偽善は、悪のくせに善を装う分、悪よりも悪性です。神と人に対する最も悪性の凶暴な悪です。必ず、減らず口と自己正当化を伴います。
 
偽善者は、悪の自覚もなく、嘘を吐き、反省もなく、成り立たない自己正当化を続けて、被害者面をして、文句だけを言い、恐怖だけを与えるので、最も害が大きく悪意において凶暴であり、どんなに最低の悪い言葉を費やして表しても、まだ足りないという存在です。
 
良心がなく、悪意の発言しかできないのに、善に見せかけて、さらに、他者を地獄の巻き添えにするからです。
 
つまり、そういう者は、既に、自分のいるところに地獄を作っているのです。
 

おそらくは
魔女狩り
異端審問
異教徒の排斥
集団リンチ
などの背景にも、そういう発想があるのだろう
神の名によって
または正義の名のもとに
人を裁き、地獄送りにしようとする
これこそまさに、自分が何をしているかが分からない状態にちがいない

 
自分の意見を批判されると、善の立場を装い、被害者面をしているだけの偽善者は、自我が既に神に成りあがり、全能の立場でしか物を言わないし、ゆえに、神も、地獄も、恐れていません。というより、自分が神の立場なので、小さく罪深い自分を考えることが出来ず、いかなる信仰も持ち得ません。
 
シャロームと易坊がその典型的な例です。楽山を合わせて、"楽山やシャロームなどの易坊類"と呼ぶことがあります。
 
ゆえに、同一人物による成りすましも疑っています。この疑いは、ネットでは証明できませんが、また同様に、成りすましではないということもネットでは証明できないのです。信頼できるかどうかだけが判断材料になります。楽山は、それを失ったということです。
 

どうか
神が本当におられるならば
狂信者や、集団心理とは
まったく無縁の存在でありますように…と祈りたい。

 
偽善者は、偽りの祈りの文言を、人前で、平気で口にできるほどの白々しい悪人であります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)6:2
だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
 (マタイ6:2、新約聖書
 
 (マタイによる福音書、口語訳)6:16
また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
 (マタイ6:16、新約聖書
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
18:9
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (マタイ18:9-14、新約聖書
 
この聖句のように、神に義とされて救われるのは、自分の罪深さを知って、神の前に、それを正直に告白して赦しを乞う人であります。
 
その正反対として、個人としての罪が問題なのに、善人の振りをして、何とか批判をかわそうと、信仰を狂信と決めつけたり、個人ではなく集団心理のせいにしたり、祈り芝居をしたりなど、卑怯で汚いことばかりする者が、神の敵となるほどに凶暴な偽善者なのです。
 
善人のふりをする偽善者の楽山は、宗教と信仰を語る場から、すみやかに退いて、二度と出てこないように。二度と宗教について語らないように。そして、二度と、誠実なキリスト者の振りをして心にもない嘘の祈りの言葉を語ったりしないように。
 
楽山の言は、でたらめであるだけでなく、その騙しのテクニックによって、善を育てるべき弱い心を、致命的なまでに傷つけかねないからです。今回の楽山の言は、筆致と方向性と意地の悪さが、笑いながら怒りながら罵るような易坊に、だんだん似てきています。
 
大口をたたく者は、たたいた大口のうち一つでも間違っておれば、途端に、慌て出します。しかし、偽善者は、嘘を吐き偽善を行っても、嘘だと指摘しても、偽善だと指摘しても、何を言っても、不機嫌になるだけで、何とも思わないのです。
 
聖書に書かれている偽善者たちは、実に、そのモデルとして、当てはまります。そして、楽山やシャロームなどの易坊類も、ぴったり当てはまるのです。
 
何とも思わないのは、何も良きものを受け取っていないからです。したがって、ここにだけは近づかないようにと、警鐘を鳴らし続ける以外にないのです。
 
楽山やシャロームなどの易坊類については、現時点で、易坊は影を潜めていますし、シャロームは所在不明で名無しというHNでコメントを入れてくるだけです。
 
しかし、一人による3者の成りすまし疑惑もあり、今までの私からの批判を、何も受け取らず、何とも思っていないから、この先も、何か言われても、批判されても、なお、何事も無かったかのように、平気で、言い逃れと嫌がらせの当てつけを重ねてくる人たちです。
 
そういう偽善の表れがあるから私の批判記事が生まれており、それは、一方、偽善ではないという表れが今まで何もなかったことが、一貫した根拠となっています。
 
 
(2020年04月14日)
 
 
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