ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

詭弁で滑る

 
  詭弁で滑る
 
 厭世的な宗教は存在し得るのだろうか?2020年04月14日
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 http://mn266z.blog.jp/archives/24370630.html
 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、厭世について書いたつもりのようですが、実際は、楽山の無神論の無根拠を説明する結果になっています。楽山が、理路に得意のつもりで、まるで逆方向に転倒して破綻しているのが分かる記事です。それにしても、破たんを繰り返して、また書いて、ひっくり返って、まだ書いてくるのこそ、厭世とは正反対の、自己顕示欲と現世への虚しい執着でしょう。
 

ここでいう健全な心うんぬんというのは、本来、悪は無いという光明思想的な考え方のことらしいが、この文章からすると著者はこれを決して高くは評価していないようだ。

健全な心が哲学的教説として不適切であることは疑いない。なぜなら、健全な心が認めることを断固として拒否している悪の事実こそ、実在の真の部分だからである。結局、悪の事実こそ、人生の意義を解く最善の鍵であり、おそらく、もっとも深い真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者であるかもしれないのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.247)
 」
著者は、本来悪は無いという健全な心の持ち主が信じる思想よりも、悪の存在を認め、そこに意義を見出し、それによって深い真理に到達しようとする考え方を支持しているらしい。
また厭世的であることは必ずしも厭うべきことではなく、宗教には不可欠な要素であるともしている。

 
楽山やシャロームなどの易坊類のような悪があるのですから、あるものはあると認めないと嘘になります。無視を土台としては良きものは生まれないという当然のことです。宗教においても、現実を無視しては成り立たないということです。楽山は、無視の権化です。
 
悪に意義を見出すと言えば、肯定しているかのようです。そうではなく、悪が、なぜ悪であるか、どのように悪であるか、その対極にある善はどうであるか、ということを考えるべきです。つまり、しばしば、悪は、楽山やシャロームなどの易坊類のように、善の、反面教師として意味を持つのです。
 
楽山は、今まで彼が言ってきたことにより、悪の証拠をたくさん残していますが、まるで、自らの退治方法を考えよと言っているようです。これが、偽善者が物を言い続けると、自分で、自分の悪を証明する成り行きになる、ということです。
 


哲学の立場としては、悪い事実も合理的な意義をもっているし、悲しみや苦しみや死に対して、なんら積極的、能動的な注意を払わない健全な心の体系は、少なくともそれらの要素をもその領域内に取り入れようと努める体系よりも、形式的にはずっと不完全である、という仮定に立つべきものであることを述べておこう。
したがって、もっとも完全な宗教は、厭世的要素がもっともよく発達した宗教であるように思われる。もちろん、そういう宗教のなかで私たちにもっともよく知られているのは、仏教とキリスト教である。
(同上、pp.249-250)
 」
著者の意見はもっともであるように思える。現実の悲劇から目を背け、自分の幸福な空想に浸っているだけの楽観論は単なる見当違いの思い込みにすぎないものだ。それよりは不条理な現実を直視し、それを正面から受け入れる方がよほど潔く、尊くもある。

 
健全な心の体系が、悲しみや苦しみや死に対して積極的能動的な注意を払わないと言っています。これは、破たんです。健全ならば、負のことにも注意を払うのです。思いこみと無視は楽山のものであって、楽山は、いったい誰を巻き添えにしようとするのでしょう。
 
不条理な現実を直視しないで、キリストを悪者にしたり、宗教を復讐劇にしたりするのは、まさに、一連の記事において楽山その人です。楽山自ら墓穴を掘っているようです。
 

ただここで少々疑問に思うのは、こういう厭世的な立場と宗教とは両立しうるのかどうかということだ。

 
楽山は、考える軸が狂っています。負の部分を直視するのは、当然のことなのです。楽山は出来ないようですが。
 
宗教と両立するかどうか、など、楽山は引っ掛けたいようですが、宗教を厭世の部分を無視するものと思い込んでいる楽山の間違った先入観の固定観念が明らかになっているだけです。
 
ここにも、楽山が、固定、固定、固定に走ってきて、混乱しているのが、よく分かります。先入観からの理屈は、いつも見苦しいものです。
 

自分からすると、厭世とは一切は無意味だとするものであり、宗教はその反対にすべてに意味があるというものであろうし、こういう宗教の側からは人生の一時期に厭世的になるのには何らかの意味があるとして宗教と厭世を矛盾なく説明できるかもしれないが、厭世的立場からすれば、宗教を含めて一切のものに意味はないとするのだろうから両者を両立させるのは不可能のように思える。仏教にしても厭世的な要素は豊富ではあろうが、出家、解脱には大きな意味を見出していて、このところは厭世に徹しているわけでもない。

 
楽山は、宗教が、厭世を無意味だと考えていて、宗教は、すべて正しいポジティブなことを言うものだという先入観を述べています。部外者の大きな固定観念であり、また、余計なお世話なのです。
 
キリストに惹かれる人は、多くネガティブを経験しており、そこから立ち直る寄る辺として信仰の道に入るのです。
 
楽山は、実に安っぽく観念を仕立て上げたものです。楽山のように学習機能のない者は、一度、嫌いになったものには一生肯定的な観念を持ち得ず、しかも、学習しないために訂正不能になる、ということが楽山を通して明らかになっています。
 
厭世というネガティブな要素は、時として、逆光のように、反射のように、真実を浮き彫りにします。そこには、楽山のような口先の細工など、通用しないからです。楽山という詭弁家が、詭弁で滑っていることを覚えてほしいです。
 

著者は講義録の中で、それまで信じていたことが信じられなくなった人、ある日突然に一切は無意味だという思いにとらわれ苦しめられる人などの事例を紹介してはいるが、著者はこういう厭世的悲観的になること自体またはそこに留まることに価値を認めるというよりも、こういう厭世的悲観的な心境を通過することに意義を見出しているようである。

 
まさに、そういう経過が信仰者の人生です。つまり、楽山は、都合が良いつもりで引用した本にも斬られているということです。性懲りのなさで、わざわざ墓穴を掘っている楽山です。
 

これを経験せずに楽観的であり続けるよりも、極度に厭世的悲観的な状態に落ち込むという魂の危機を経た方がより深い真理を体得できるというように…。

 
言っておきますが、楽山は、このような言い方とは、全く裏腹の、先入観だらけであることが、今までの記事によって明らかになっています。
 
信仰は、魂の危機を経て、真実を見出すでしょう。楽山と違って。
 

とすると、著者は厭世的になることから生じる果実の価値を認めているだけで、厭世的であることそのものの価値を認めているわけではなさそうだ。

 
厭世に、また、マイナスに、ならなければ、気づかないことがあるなら、それは価値のあることです。楽山は、果実とか、そのものの価値とか、詭弁を弄していますが、楽山は、いつまでも、厭世的ではなく我執によって、また、反キリストによって、立ち直ることなく、役に立たない空虚な小理屈の詭弁家になっているのです。ここでの楽山の言の、最も悪い例が、楽山なのです。
 

ここのところは若干細かい理屈ではあるが、著者の考えがこのようなものだとすると、これは厭世的な心境から脱した人にとっては福音であろうけれども、そこに留まり、抜け出す見込みのない人にとっては随分と遠くに針の先程の弱弱しい光が見えた気がするだけでそれほどありがたい話とは思えないということになりそうだ。

 
楽山は、厭世的な心を、脱するか、捕まえられているか、という2つしか考えられないようです。厭世は、厭世として世界の矛盾を洞察し、真実は真実として世界の救いを、より鋭く感知するのであります。楽山の、成長不全の狭い了見では無理なのでしょう。
 

最後に蛇足ながら、これは厭世についてだけでなく、無神論についても同じことが言えるかもしれない。無神論を通過しない信仰は、厭世を通過しない信仰と同じくどこか狭いものがあり、不完全ではないかと。

 
無神論を厭世と同等に見なす楽山の言い分は成り立ちません。無神論が、神の存在否定であるならば、神などいなくてもいい、という、むしろ、厭世とは甚だしく違うところの自己中心で自己満悦の思想にしかならないものであります。楽山がそうなのです。
 
楽山は、どうして、こうも狭い視野を、ふらふらと、あちこちに向けて総合することが出来ず、いちゃもんばかりを言うような嫌がらせの専門家になっているのでしょう。いちいち破綻百出で、真実を求めても、曲解に至るばかりなのです。
 
楽山は、我欲を通すために、私の批判記事を読まずに書き続けているようです。批判を受け取らずに書き続けるのは、楽山が、自分の記事は駄々っ子の言い張りに過ぎませんと言い続けているのと同じです。楽山は、みじめですが、私は、ブログで宗教の記事を読む人宛に、楽山の嘘っぱちシリーズに、その偽りを指摘するシリーズを書いていることになります。
 
 
(2020年04月15日、同日一部修正)
 
 
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