ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

双方向(再録+加筆)

 
  双方向 (再録+加筆)
 
 
キリスト信仰においては、
私たち信仰者が、愛される対象であり、同時に、愛する主体でもあります。
同時に
キリスト信仰においては、
キリストが、愛する主体であり、愛される対象でもあります。
つまり、双方向です。
 
神聖は、決して理屈で文句をつけて否定できる存在ではありません。
 
キリストが私たちを愛し
私たちがキリストを愛するという関係が信仰です。
 
私たちをそうさせているのは
二千年前のキリストの死が罪の贖いだという理屈でもなく
肉体の復活を含めた超常の奇跡によるのでもなく
 
キリストの洞察力と共感力と命を惜しまない愛に
私たちも共感するからでしょう。
ゆえに人間にも愛が生まれるのです。
 
超常奇跡から愛は生まれません。
超常にこだわることは、ときに、愛すらも壊してゆきます。
 
信仰は双方向であります。
 
信仰という愛は、ときに、エロスのように情熱的です。
 
一方的に、神に愛され、神に恵まれ、奇跡で守られる、
などという、
シャロームの信仰?のような身勝手な信仰?は、存在しません。
 
人間同士の愛も、双方向なのでしょう。
 
信仰と人の愛について言えば、
愛されていることが最初にあり、気づくことだ
という点では人間の愛の性質と同じです。
だから、キリストに、人間は共感できるのです。
 
しかし、
キリストの、命を捧げるほどに、裏切ることがない愛は、
死んだのち二千年を経ても生きています。
これは、ただ、キリストゆえであります。
人に真似は出来ません。
 
その愛は、十字架によって示され、
私たち信仰者それぞれの人生において示されるものなのでしょう。
 
信仰者も、不変の悟りの境地など持っていませんから、
いろいろなことがあり、
揺さぶられたり、罪によって揺らいだり、不当に振り回されたりしますが、
 
信仰と、人の愛の大きな違いとして
キリスト信仰においては、何があっても
いつも主のもとに帰る道は用意されていて
赦されるために
祈ることが許されるということです。
 
罪の赦しは
生きることが許されるということだけでなく
生きなさいということです。
 
ことの是非を
その都度
自分で決めるのではなく
最終的な決定を神に任せて
できることをして
生きなさいということです。
 
私たちは、結論や結果にはいません。いつも、経過しています。
私たちは、本当の結末を、結果を、まだ知りません。
私たちは、地上では、ずっと道の途中です。
 
神がいつも見ておられます。
正しさについても
人に課せられるのは
正しさの見極めや完結ではなく
できることをすることであり
最終的な結論は神にお任せするのです。
このことが人を
勝手な短絡と強迫観念から救います。
 
結論と結果は、神にお任せして、
一人一人違うところの、今、出来ることをするのが信仰者です。
ときに、できれば、情熱的に。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
21:15
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16
またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17
エスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18
よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19
これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
 (ヨハネ書21:15-19、新約聖書
 
復活したキリストと、裏切った弟子であるペテロの会話となっています。
 
19節は、ペテロの殉教を思わせる聖句ですが、弟子たちがそうであったように、私たちは、キリストの愛に絆(ほだ)され、キリストの愛に答えようとする人生を選んだキリスト者なのです。
 
キリストが、三度愛するかと言って、言われたペテロが心をいためるのは、ペテロが、キリストを三度知らないと言って裏切ったという負い目があるからです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:69-74
ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。 するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。
そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。 そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。
しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。
26:75
ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
 (マタイ26:69-75、新約聖書
 
聖書からキリストの愛を知り、キリストの愛に答えて、キリストのもとにとどまり、キリストによって導かれることを祈り願い求めてゆくのが信仰です。
 
 
(2020年04月16日)
 
 
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