ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

獣皮の詭弁

 
  獣皮の詭弁
 
 最善の悔い、癒しとは?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月18日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24435705.html
 
 
楽山は、悔い改める前に赦されると言い、シャロームの、悔い改めなくても赦されるから罪を気にしなくていい、という妄想教理の味方をしました。その楽山が、改めもせずに、最善の悔いと癒しについて書いて、いったい、誰が信用すると思っているのでしょう。ふざけるなと言いたい。楽山は、私の批判記事を読んでいない人を、なおも、だまそうとしているとしか思えません。
 
悪意は、いかなる善意をも、詭弁として利用するということが表れています。悔いるということを過去の罪を忘れることだと言っています。どこまでも、自分を中心にしか考えられない自己中の楽山らしい発言です。
 
人間を、神という他者との関係性を無視したところでしか語れないのです。大いなる支配者であり摂理であるところの存在すなわち神を考えることが出来ないのです。楽山が、神も、信仰も、利用する対象としか見ていない表れです。
 
腐敗したものには、腐敗させるばい菌がついてきます。それを区別して、吐き出し、染まらないことが大事です。病原菌は、病原を認識することが出来ません。
 
学者の言葉を引用して、説明でもするかのように刷り込んでくる楽山の筆致の、悪意と作為によって、人間の冷静な判断力と節操を奪ってゆく悪意は前からです。
 
それこそ、悔いる心を持たない楽山の真骨頂でしょう。何も受け取らず、総てを自分を高めるために利用するだけで、悔いることを知らない、悔いることを決してしない、ゆえに、反省しない、ゆえに、成長することがない自らを知ることもない男です。こうなったら、おしまいです。
 

本書では、健全な心の人々の間では、過去の罪を忘れることが最善の悔いと考えられていることを指摘している。

最善の悔いとは、正義のために起って行動することであり、諸君がかつて罪とかかわりをもっていたということを忘れることである、と考えられるのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.195)
 」
辛い経験を忘れることが癒しになるという話はよく聞くし、一理あるとは思う。健全な心の人々がそのように考えているというのもその通りだろう。

 
過去は成長の証しとなるべきものです。過去を、総て、どんどん、忘れるのは、気に入らないことは無視しましょう、という、アドラー教の成れの果てである楽山が、今まで、自らの書くものに表れてきた非人間の所業であります。
 
また、辛い体験は、忘れたつもりでも、その出来事自体を忘れることはない、というのが人間です。ましてや、悔いることがなく反省することのない者が、過去の辛さを忘れたというのは、できないことをしているので、精神の異常か、でなければ真っ赤な嘘なのです。
 
「過去の罪を忘れることが最善の悔い」という楽山は、「かつて罪とかかわりをもっていたということを忘れること」という著者に同意していますが、忘れてならないのは、楽山は、罪を一度も認めたことがないということです。過去どころか、今の罪さえも、忘れる以前に無視して、無反省に生きてきたのが楽山なのです。また、ひどい詭弁です。
 
過去の出来事と過去の苦しみを、忘却と同じように扱っている楽山は、つまり、分けるべきことを分けることが出来ない、という詭弁家の宿命なのです。信仰による克服と、忘却による不感不応が区別できないのです。少しでも良心があれば、こういうことは言わないのです。
 
何かを考えようとすると、必ず、詭弁になる、という心性の楽山です。思い付きだけの分別と、歪曲した思慮と、腐れるほうにしか向かない感性のわざなのです。
 
詭弁を反省するかのように見せかけて、別の言い方をいじくるのは、結局、別の道に行こうとしても見つけられないために、別の入り口から詭弁に戻るしかなく、そのたびに、嘘を吐くので、偽りを重ねるしかなくなる、という詭弁家の常習的自己合理化の宿命です。
 

でも自分の感覚としては、過去の罪を忘れることが最善の悔いだと言われると、少々、違和感がある。

 
楽山の言う自分の感覚は、言葉についての感受性を全く持たないゆえの、言葉の暴力、すなわち詭弁です。
 

ちなみに著者がいう「健全な心」云々というのは、その文脈からすると、精神的に健康で明朗闊達な性質の人々という意味というよりは、ポジティブ思考、光明思想、スピリチュアルサイエンス、信仰療法など、物事の明るい面を見て、常に前向きな考え方をしようという思想を信じ、それを実践しようとする人々のことをいっているらしい。

 
おかしいですね。自分の違和感と上で言っておきながら、ここで、また、引用元の著者の主張を書いています。しかし、これは、実は、他者の名を借りて箔を付けたつもりの、楽山の主張なのでしょう。まともを装う書き方だけで、引用による理路の矛盾など、何とも思っていない本質が楽山なのです。
 
注意してください。ここで、楽山が主張しているポジティブ思考には、経過や条件についての思慮、マイナスの克服、人間についての理解、人間としての理解、など根拠となることが全くありません。わけもなく明るい超常的心情と信条が信仰だと言っています。
 
これが、楽山の悪意と暴力性なのです。だから、何を言われても平気で無視できますし、同じことを何度言っても、どう批判されても、平気でいられる獣皮のわざなのです。柔和さの欠片もないことが、何を考えても書いても、表れてきます。
 

著者はこれらの人々について、さらに次のような指摘をしている。

健全な心のキリスト教徒によれば、悔いとは、罪から逃れることであって、犯した罪に呻いたりもだえたりすることではない。
告白とか赦免というようなカトリック教会の行事は、一面、健全な心をいつも優勢にしておくための組織的な方法にすぎないともみられる。告白や赦免によって、人間が負っている悪の借金が、定期的に決済されたり監査されたりして、古い借金が一つも記入されていない、きれいなページでスタートできるようにしようというのである。カトリック教徒ならだれでも、そういう浄罪の行事を終えた後で、どんなに清浄な、新鮮な、自由な気持ちがするかを告げるにちがいない。
(同上、p.197)
 」
これと似たことは、幸福の科学でも説かれていた。反省をした後は、心がさっぱりして、さわやかな気分になるのが本当であって、もしそれがために余計に気持ちが落ち込み、くよくよしてしまうのであれば、それはどこかに間違いがあり、正しく反省できていないということだと…。

 
反省をしたこともなく、これからする気もない楽山が言っています。悔いることも反省することも、楽山にとっては、不都合を忘れて、無きものにすることなのです。
 
無視すると心がさっぱりするでしょうか。とんでもない。真っ当な克服と、無視は、全然、違います。相反すると言ってもいいでしょう。
 
無視すると、全く整理されていないまま、意識されない心の未処理の傷となって人格を完全自己中に変えてゆき、さらに、破壊してゆくだけなのです。楽山は、その破壊によって、今、詭弁家と偽善者の、人間破壊の伝染者となっています。
 
こういう引用と楽山の記述こそが、楽山が、都合の悪いことを無視して、無かったかのように忘れたつもりになってゆく無理と、自らをも非人間化してゆく自己中の信条を、まさに自ら証明してゆくことになります。今までも、これからも。
 

またこれとは別に、人の言動は、正しいことも、間違ったこともすべて心にある想念帯に記録されているが、過去の間違いを反省すれば、その部分の想念帯の記録は上書きされ、黄金色に輝くだという話もあった。

 
想念帯という造語の話をしています。その深みについては、何も書いていません。ゆえに、深みなどないと思います。さらに、ここでは、罪を忘れることを、反省、という言葉にすり替えています。実に汚い詭弁です。楽山は、こういう詭弁で、人を操りたいだけの、詐欺師であることを、自ら証明してゆく悪と偽善の宿命的な生まれ育ちなのでしょう。
 
自己愛性人格障害かカルト宣伝者の楽山には、共感など成り立ちません。だから、楽山に共感したり賛同したりすることは、楽山の加害的快楽であるだけで、他者にとっては、それこそ、自らの人生と人格の破壊でしかないのです。
 

想像するに、こういう風に、人の罪をゆるし、さらにはそのような過去を修正し、忘れさせて心の重荷を取り除こうとする教理は、どこの宗教にもあり、これこそが宗教の存在理由の一つになっているのではなかろうか。

 
人の罪をゆるし、過去を修正し、忘れさせて、・・と、今まで書いてきたことが、同一であるかのように、さらに詭弁の刷り込みをするのが、楽山の生業のようです。じわじわと、無視という忘却を、反省と修正に置き換えて、刷り込んでゆきます。ここまで来ると、楽山の心性は、シャロームと同様のサイコパスとしか言えないでしょう。
 
シャロームもそうでしたが、楽山も突くと、だんだん悪魔性を隠さなくなるようです。超常ではなく、日常に潜んでいるのが、悪魔性であります。楽山は、こういうことを存在理由にしているのでしょうか。楽山は、反宗教を語っており、宗教性の欠片も持ちません。読むたびに、吐き気がします。
 

現実には、事実は事実であって、過去にそのような行為をなしたという事実は、反省してもしなくても、神が赦そうが赦すまいが変えようもないことで、我が咎は常に我が前にありという状態から逃れようがないのではあるが、

 
以前、神の赦しが先にある、みたいな詭弁でしたが、今回は、神が赦そうが赦すまいが罪から逃れようがないと言っています。何とでも楽山は言うのです。なぜかと言えば、楽山は、宗教も信仰も、目の仇のように憎んでいるだけで、何の共感も理解もないからです。
 

上のような宗教の教理を信じていればその信仰の程度によってその圧迫から解放され得るのであって、こういう精神的な利益がある限りは、その教理が現実であるという根拠がどれほど頼りないものであっても、宗教が関わる事件、不幸がどんなに繰り返されたとしても、この世に宗教を信じる人々が存在しなくなることはないだろうし、ここにこそ宗教の役割があるのだろう。

 
宗教と信仰を、圧迫から解放されると言っていますが、今まで、さんざん、宗教を、教条の対象のように見なして、何も理解していないのに、おとしめてきたのが楽山です。
 
それを、精神的利益と言って、言い得たつもりの、質量のない楽山です。現実の根拠がないということのほうを言いたいのでしょうが、根拠がないのは、楽山です。
 
精神的な利益で宗教を語り、現実だという根拠が頼りない、事件、不幸、繰り返され、と言いながら、それを、宗教の役割だと、生ぬるく安っぽい結論にしています。
 
楽山は、宗教の災いや疑問を見るが、宗教が与える正直さの力をまるで考えることが出来ず、とても乱暴な荒っぽい結論で、宗教の役割を語り、批評家?気取りの自分を出して、語ったことにしたいのです。この詭弁の獣皮、このスピリットが、楽山です。
 
 
(2020年04月19日、同日一部修正)
 
 
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