ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

バランス

 
  バランス
   旧題:好ましさとバランス
 
 
バランスの取れた発言は
本当にバランスが取れているだろうか
好ましい人間関係は
本当に好ましいだろうか
 
人間は
言葉で好ましいことを言っても
その言葉通りになっていない自分を振り返ることなしには
本当に好ましくはなり得ないだろう
 
信仰についての美辞麗句は
誰でも誰に向かっても言えるけれど
大事なのは言葉通りになっていない自分を知ることであり
まさに信仰はそこから始まっている
 
多くの人が言葉でバランスを取り
好ましいつもりでいて
信仰の原初を忘れることが多い
 
一見バランスの取れた発言は
反対意見を述べず
衝突を避ける
しかし
それが好ましいと確信する人の
自己中心の基準によるものであるなら
他者にも同じことを求める一種の依存であり
ゆえに
反対意見を聞かず
また言わせず
封じ込めることになる
 
反対意見はバランスを崩す発言だから
本当にバランスを戻すためには
反対の重り
つまり反対意見に対する反対意見が必要なのであり
衝突を避けてバランスは保たれないし
バランスを築くことも出来ない
 
したがって衝突を避けるところには
遠まわしの陰湿な軽視か否定が伝わるだけである
 
神の導く人間関係といっても
そこに人の恣意が入るところでは
誰にとっても常に好ましいとは限らない
 
人が自分にとって好ましい関係のみを選んで
好ましくない関係を排除するか無視するかして
関係から離れることを繰り返せば
波風立たない関係だけにもなりうるだろうが
それは自己中心同士の同好会の関係に過ぎない
 
ひとりひとり違う人間同士で
意見が全く同じということはないのだから
好ましさだけがあるような人間関係は
本音を言えないまたは言わない人間関係になる
 
本音の遣り取りのない好ましさだけの場では
つまり
人と人が安定だけを選択して満足している場では
 
反省も修正も成長も生まれず
神の導きは最初から拒否されている
なぜなら人が既に好ましさだけしか選んでいないからだ
 
神の沈黙と違って
人の沈黙は
求められている動的な人間関係を停滞させ
関係を結ぶべき顔を背けたまま固まり
ひび割れてゆく
 
 
神にとっての好ましさとは何だろう
それは人にとっての好ましさとは限らない
 
自らが得たつもりの好ましさによって
バランスは既に崩れ始めており
 
人自ら壊しておいて
崩れかけた器を作り直すことを怠り
沼のような好ましさに浸っておきながら
神に任せると言うのなら
与えられるのは恵みというより報いなのだ
 
人間が好ましさを目指し
バランスを整えようとするのは
それが不完全であることを
祈りによって神に捧げ
信仰によって知るためである
 
好ましさの
あるべき姿は
神の前の好ましさであり
人の前の好ましさではない
 
ときに苦しい関係の苦しい必然のうちに
既成の同意が崩れて行くところに
神の導きに対して、人は
より多くの働きかけを受ける器となりうるだろう
なぜなら神に対して、より正直になるからだ
 
神に対して
正直以外の言語は通用しない
 
言い換えれば
神は
通念的善悪や正誤にかかわらず
正直な告白ならば決して軽しめられない
 
バランスなど決して取れないような
のっぴきならない関係にあって
正直と正直がぶつかり合うのは
祈りに似ている
 
その時のアンバランスの修復を
人が事前に図ることなど出来ないはずだから
 
 
(2011年10月23日)
(2019年05月04日、修正)
(2020年05月06日、さらに修正)
 
 
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