ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

似てくる偽善者

 
  似てくる偽善者
 
 「聖句の悪用」と言う私の記事からです。2019-05-09
 一部を再録します。
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12459960864.html
 
 
聖句引用部分は省略します。
 
ここで言いたいのは、嘘を吐いて人を騙す偽善者の言葉は似てくるということです。シャロームと楽山の詭弁の筆致が似ていて、シャロームに向けた批判が、楽山にも当てはまるという特徴を書いています。
 
以下、元記事の私の書いた部分を、『 』で括(くく)っています。
>、< で括った部分は、元記事の中のシャロームのコメントです。
 
 

これら、祈りの言葉と聖句の中の
 
「イエスさまと共に葬られたのです」「新しいいのちに生きる」
「イエスさまの復活の姿とも同じようになります」
「この罪のからだが滅び、わたしがもはや、罪の奴隷となることがないためです。」
「それは、すでに死んだ者は、罪から解放されている」
「わたし自身も、罪に対して死んだ者であり、
「イエスさまにあって、あなたに対して生きる者とされていることを認めます」
 
というような言葉を、シャロームのような偽善者は、著しく逆方向に曲解し悪用して、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などと言ってきたのです。キリスト信仰とは真逆です。
 
つまり、自分も死んで、生まれ変わった、罪の奴隷となることがない、罪から解放されている、罪に対して死んだ、という言葉を、
 
人間の真実として、罪を犯しても、主のもとで悔い改めて、赦されたのだから、その慈しみのもとで、罪を犯さないようにしたい、という希望と受け取らずに、
 
シャロームなどの偽善者は、罪から解放されているから罪を気にしなくてよい、罪に対して死んだ者として生きる、すなわち、罪なき者として生きる、という、極めて、幼稚に短絡した妄想として信じ込んで、あちこちで、それを振れ回ることを福音伝道?だと思い込んでいるのです。
 
なぜ、そういう解釈になってしまうのか、というと、そのほうが、簡単に気持ちよくなると思っているのでしょう。自分の欲望の都合で、聖書も、キリストも、神の愛も、けがしているのが、シャロームであります。
 
上の聖句の続きとして、ちゃんと書いてあるのです。引用します。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
6:12
だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、
6:13
また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。
6:14
なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
 (ローマ6:12-14、新約聖書
 
罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、不義の武器として罪にささげてはならない、と、戒めと教えが書いてあるのです。
 
罪に支配されることはない、というのは、罪が無くなったという意味では決してないのです。この辺は、ふつう、常識で理解できるはずなのです。シャロームには常識が欠落しているということです。
 
恐ろしく身勝手に聖書を利用して、何をやらかしても悔いることのないカルト信条を捏造しているのが、シャロームその人なのです。
 
その結果、聖書解釈の詭弁にとどまらず、平気で嘘を吐き、平気で嘲笑い、平気で侮辱して、かつ、いっさい、反省せず、悔い改めない人が、シャロームであり、人間らしい感情を捨ててしまっていると言っても過言ではないでしょう。
 
そうして、人格は尊大となり、理路は破綻しており、大切なことの共感と共有が全く成り立たず、結論から始まる狂信だけを訂正不能に押してくるシャロームには、決して好意的に近づいたりしないでください。
 
シャロームの武器は、社交の世辞と丁寧語、そして、私が聖書語と呼んでいる中身のない讃美言葉に尽きます。これに騙されて、気をよくしたりすることは、滅びへの広き門であります。
 
シャロームは、キリスト教ブログに限らず、政治思想ブログにまで、自分の稚拙で、全く理解に到達していない滅裂な妄想を、教える姿勢で、吹聴しています。
 
シャローム詭弁のキーワードとしては、ついこのあいだまでは「自他未文化」というのがあり、最近は「日本教」と言ったワードがあります。本からか他者からか仕入れた言葉に、深い理解もないままに金科玉条のごとく強張って、異常に執着して、振り回し、繰り返してきます。
 

《shalomのコメント》
アーメンとは“その通りです”という意味です。
処女マリアが天使ガブリエルによってイエスさまの誕生を告げられた時、
“この言葉にひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと思いめぐらし、
どうしてそんな事があり得ましょうか。私はまだ夫がありませんのに”と驚き、恐れました。
すると御使いはマリアに神が約束された救い主イエスの誕生を告げたのです。
マリアはその御言葉を聞いて、
“わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように”と受け容れ委ねました。
信仰告白、祈りとはマリアのように、御言葉に信仰によって同意し、
人の思いを越えた神の言葉を、信じ受け容れ、委ねることなのです。
すると、神の時が来て、マリアから、イエスさまがお生まれになられたように、
神のみ言葉、みこころが私たちのこの身になるというのです。
それがアーメンという言葉の意味です。

 
神は、聖書を通じて、シャロームに、罪は悔い改めなくてもいい、と言ったのでしょうか。
そんなこと、神も、キリストも、聖書も、そして、まともなキリスト者なら、誰も、言っていません。何故なら、悔い改めは、キリスト信仰の中核だからです。信仰の中核を否定して宣伝しているのがシャロームなのです。
 
シャロームは、マリアの処女懐妊の奇跡を引き合いに出して、またここでも、シャロームは奇跡の話しかしないのですが、マリアへの、人の思いを超えた受胎告知を、マリアは、なりますようにと、受け入れたという話をしてきますが、
 
上の、マリアの受け答えは、マリアの信仰と知性を感じさせるものです。
 
シャロームの、都合の良い奇跡を欲しがって嬉しがって勝手に思い込んで、言い張って、悦に入っている愚かさとは対極にあるのだ、ということを覚えてください。
 
このように、聖句を引用すればするほど、シャロームの欲望の、下卑た醜さだけが際立ってくるのです。シャロームだけは、誰も見倣ってはいけないカルト思想の偽善者です。
 
アーメン:「本当に」「まことにそうです」「然り」「そうありますように」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3
 
シャロームの信仰?は、嘘に満ちています。それを神の平安と呼んでいます。一片の、まこともありません。シャロームは、実に、自家製の反キリストの妄想に「然り」と言い「そうありますように」と、祈るのではなく、笑いかけているのです。
 』
 
 
ここから、今回、楽山とシャロームの比較になります。
 
ここまでは、詭弁の聖書解釈をしているシャロームと、通念的疑問を投げて否定してきて「深く信じないほうがよい」などと言っている楽山とは、詭弁という点では一致しますが、主張の細部の違いを感じます。
 
しかし、このあと、体質的に似ていて、ひょっとしたら同一人物の成りすましではないかとさえ思われるシャロームと楽山に対しては、同じような批判が当てはまってきます。長い経過で、記事やコメントを見てゆくときに、だんだん、分かってくることです。
 

シャロームには、情緒的にも、自尊による笑い~嘲りか、批判されたときの不快~怒り~怨念の、二方向の感情以外になかった、という、今までの成り行きであります。その2つしか、シャロームの書いた文章には表れてこなかったのです。シャロームのどこにも、書いたものに普通表れてくるところの、しんみりした悲しみや深みを感じたことがありません。
 』
 
楽山は、情緒的にも、自尊による笑い~嘲りか、批判されたときの不快~怒り~執拗な怨念からの無反省、不感不応、ごまかしのボンヤリ言語、そして、反省と卑下の実質のない言葉だけの芝居だけで、それ以外には何もなかった、という、今までの成り行きであります。それだけしか、シャロームと同じように、楽山の書いた文章には表れてこなかったのです。シャロームのどこにも、書いたものに普通表れてくるところの、しんみりした悲しみや深みを感じたことがありません。
 

シャロームは、言論の責任を負わないくせに、自分は勝手に言うのが当たり前と思っているようです。理路はありません。人と共感することはありません。世辞の言葉を真に受けないでください。
 』
 
楽山は、言論の責任を負わないくせに、自分は勝手に言うのが当たり前と思っているようです。理路はありません。人と共感することはありません。世辞の言葉を真に受けないでください。・・同じです。
 

シャロームは、批判されて困ったときには、圧力の言葉として、繰り返して迫ってきたり、揶揄や皮肉や嫌みを返したり、自分が言われそうなことを逆に当てつけてきたり、訂正不能の自己中心なので、いつも自分を被害者の立場において、成り立たない言い逃れをしてきます。
 』
 
楽山は、批判されて困ったときには、圧力の言葉として、同じことを繰り返し書いてきたり、遠回しの揶揄や皮肉や嫌みを返したり、自分が言われそうなことを逆に当てつけてきたり、訂正不能の自己中心なので、いつも自分を被害者の立場において、成り立たない言い逃れをしてきます。
 

シャロームは、批判されると、批判者に嫌味を言い、批判者を侮辱することしかできない人です。弁明も反論も説明も、一度も成り立ったことはありません。何かを教えられる人ではありません。
 』
 
楽山は、批判されると、批判者に嫌味を言い、批判者を侮辱することしかできない人です。弁明も反論も説明も、一度も成り立ったことはありません。何かを教えられる人ではありません。同じです。
 

シャロームは、何も変わらず、不感不応ですから、相手をするほうが、まともに返していると、必ず、疲労してきます。約8年前の私がそうでした。シャロームは、異常者だと思っています。
 』 
 
楽山は、何も変わらず、不感不応ですから、相手をするほうが、まともに返していると、必ず、疲労してきます。約1年前の私がそうでした。楽山は、異常者だと思っています。
 

シャロームは、先日、別のブロガーの政治思想のブログで、「日本教」についての本を、読みましたか、あるいは、読んでくださいと、先方に執拗に要求していました。はっきり言って、今までも、何かの本を読んだと、それを記事やコメントに書いていましたが、シャロームの勧めで、本を読むということはしないほうがいいと思います。
 
その理由は、シャロームは、本を読んで、正しく受け取ったうえで書いていると思えたことが一度もないからです。それは、シャロームが、自説を振り回すために、都合の良い言葉だけ受け取って、自分の主張として書いてくるだけだからです。
 』
 
楽山は、本を読んで、正しく受け取ったうえで書いていると思えたことが一度もないです。それは、楽山が、自説を振り回すために、都合の良い言葉だけ受け取って、自分の主張として書いてくるだけだからです。
 

何よりも、シャロームが、自分を、いつも悪や問題の圏外において、高みから言葉だけを拾って、正しいつもりで言っているに過ぎないからです。聖書についても同じ態度だと思います。しかも、読んだという慢心と自尊だけは持ってしまうのです。
 』
 
何よりも、楽山が、自分を、いつも悪や問題の圏外において、高みから言葉だけを拾って、正しいつもりで言っているに過ぎないからです。聖書についても同じ態度だと思います。しかも、読んだという慢心と自尊だけは持ってしまうのです。
 
楽山とシャロームの共通点として、自己中で自己正当化ばかりで、上から、人のことばかり批評したがり、自分については、根拠も実績もない世辞のレベルだということです。
 

シャロームは、読書をするためのベースとなる弁えや節操や理解力や方針が、既に壊れているようです。今までのシャロームの記事のもとになった本についても、結局、彼が彼の記事において言葉を振り回すためだけであって、人に聞かせるに足る説明になったことがないのです。聖書についても同じだと思います。
 』
 
楽山は、読書をするためのベースとなる弁えや節操や理解力や方針が、既に壊れているようです。今までのシャロームの記事のもとになった本についても、結局、彼が彼の記事において言葉を振り回すためだけであって、人に聞かせるに足る説明になったことがないのです。聖書についても同じだと思います。同じだということです。
 

原因が性格であれ病気であれ体験であれ、自己中心、訂正不能、不感不応、この3つがそろってしまうと、心のみならず、人格全般に影響が及び、思考、理路、感受性、情緒、などの破壊のために、精神生活のみならず実生活も、態度や姿勢という基本から壊れてゆくのだろうと思います。そこから信仰を思っても、正しい信仰など望むべくもないのです。
 
信仰は正しさから生まれるのではない。信仰が人を間違いなく正しくしてくれるのでもない。人間において、正しさは、信仰の表れとして生まれることはあるが、完全ではない。信仰は、不完全の自覚から生まれ、その本質に気づいても、なお、生きていけるように、生きてゆく道を与えてくれる。
 』
 
キリスト者は、聖書を通じて、キリストの心に触れている。
 
シャロームは、聖書に通じておらず、嘲笑いと怨念で、キリストの心をけがしている。楽山は、聖書に通じておらず、嘲笑いと怨念で、キリストの心をけがしている。同じです。
 

キリスト者にとって、聖書の正しさというのは、自分の心を揺さぶり動かしてくれたことから始まり、キリストを忘れられなくなってゆく信仰に向かいます。そのすべての道において、私たちは、学習し、信仰と人生において、成長を期しています。
 
ゆえに、キリスト信仰において、無罪、無反省、悔い改めないこと、不変の境地、訂正不能、自己中心、不感不応、というのは、全く、ありえないのです。
 』
 
つまり、シャロームキリスト者ではなく、楽山はキリスト教を批評するだけの知識と知恵を持っておらず、二人とも、キリスト教について、正当な何かを語る資格も能力も経験も敬虔もないということです。
 
私としては、私のこの記事では、カルト思想の偽善者と言うのは、体質的に実に似ていて、独創性がなく、他者の言の類型に頼るしかないために、日常的に、同じような嘘と詭弁とを並べて悔いることのない無知と無恥と無反省の性根で、何も学習せず、何も成長がない、という、似たようなことを書いてくるということが言いたいのです。
 
このように、楽山とシャロームは、つまらないだけの類型的な思考に固まり、そして、真実からかけ離れた、嘘っぱちか、でまかせか、思いつきのような、幼稚な捏造記事を気安く書いて、同じ口をそろえるのが大好きか、それが宿命となるところの共感と思慮の欠落した河原に、脆く崩れる必然の砂岩を、終わりの日まで積んでは砂に返す常同行為に、自己愛の欲望を費やしてゆくのでしょう。
 
 
(2020年05月14日)
 
 
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