ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

二項

 
  二項
 
 http://st5402jp.livedoor.blog/archives/107263.html
 少し修正して再録
 
 
嬉しいと思える恵みは
同時に試練だ
喜びのために思い上がらないようにと
 
試練としか思えない悲しみは
同時に恵みだ
生死を超える神だけの民になるため
 
失望は新たな願いを生む
 
絶望は否応なく希望を生じる
その希望が次々に消えてゆくとき
絶望は強く迫ってくるので
人は成り行きを思い
運びを思わざるを得ないだろう
そのとき信仰は
少なくとも絶対孤独から人を救う。
 
恵みと試練
希望と絶望
 
相反するような二つはともに
神と人の間で
御心と人の心が奏でる調和とも言える
 
しかしその調和と一致を
人はごく一部しか理解できない
 
その調和は人が保つのではない
 
人は自分自身についてさえ
存在のバランスを保ち得ない
 
だから人は不変ではありえない
 
 
存在のバランスと調和は
常に神のもとにあり
人が完全な調和に到達するとしても
恐らく人の終末か世の終末においてのみであり
だから人は生きている間
自らの存在について
調和やバランスを保つことは出来ず
自らの意思によらなくても
変わってゆくしかないのだろう
 
反対に見えるものが
同時に存在して矛盾し対立し破壊することのないように
対立している二項は
神によってのみ調和するのだろう
 
そこにおいて人の言葉の見なしは空しくなるだろう
 
人は自ら調和を目指すことはあるが
人は自ら調和を完成することはない
 
人間の尊い言葉の一期一会と
神への正直な一所懸命の捧げものを通して
地上の命では見ることの出来ない憧れは
人が地上では知りえない神の世界において
秩序と慈愛の一致として
対立する二項の調和した存在の
一つの表現形式に過ぎなくなるのだろう
 
そこにおいてのみ
人は存在の根源に帰って
神と人は一つの生命になるのだろう
 
 
(2016年01月05日、同日一部修正)
 
 
私たちが、刺激を受けて動揺するのは、
私たちに常識と良心があるからです。
 
ある変な牧師の説教が
カルト妄想者によって引用されていました。
信仰を死体に喩えて、ビクともしないと。
まるで呪いのようです。
 
偽善カルトは何を言われてもビクともしません。
まさに、生きた人間の活性がどこにもなく、
死体のように、ビクともしないのです。
 
 
メモ的に:
 
ほぼ恒常的で、ほぼ秩序立っていて、ほぼ双方向の感覚であれば、
人間は、それを感覚に過ぎないとは思わず、幻想だとも思わず、
実在だと思い込む。
 
つまり、実世界は、そのような感覚世界と、つまり、ある意味、共同幻想と、同値である。
 
 
(2020年05月15日、加筆修正して再投稿、同日一部修正)
 
奏でる(かなでる)
嬉しい(うれしい)
否応なく(いやおうなく)
一期一会(いちごいちえ)
憧れ(あこがれ)
 
 
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