ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

まとめ芝居(3)

 
  まとめ芝居(3)
 
 幸福の科学の基本教義について
 2020年05月31日
 http://mn266z.blog.jp/archives/24983246.html
 楽山日記(LD)
 
 
HSを辛らつに批判する楽山の、カルト臭い野望を持っている本性が、じわじわ表れてきます。
 

*霊的人生観
 自分の理解では、HSで言うところの霊的人生観とは人は死んだら終わりではなく、その本質は霊であり、永遠の生命を持ち、転生輪廻を繰り返しつつ、さまざまな経験を積み、霊性を向上させているという考え方である。ようするに、いわゆる霊性進化論であり、ダーウィンの進化論に強く影響された考え方である。(参考『現代オカルトの根源: 霊性進化論の光と闇』大田俊寛著。ちなみに本書は、UMA氏のレビューを読んで知った)

 
私のいちばん嫌いな超常の辻褄合わせです。根拠がありません。好ましい人間性がありません。
 

HSでは、進化論は間違いであり、ダーウィンは地獄に堕ちたとしているのだが、そんなことを言いつつもダーウィンの進化論の影響を受けた霊性進化論(霊的人生観)を信奉しているというのは、なんともおかしなことだ。でも考えてみれば、大川隆法高橋信次を貶めつつも、その教えを流用しているのだから、こういうことには無頓着で、全然気にしない人なのだろう。

 
生物の進化論は、学説として信頼を得ていますが、霊性進化論は、証拠が何もありません。"霊"を付ければいいってもんじゃないのです。
 

霊的人生観の弊害についていえば、それを信じれば信じるほど、四六時中、霊がどうした、過去世がどうしたと言ってばかりのおかしな人になってしまうということを指摘すれば十分だろう。自分が会員だったころのHSでは、心霊マニアや霊好きに堕してしまうのを戒めて、霊的人生観を持ちつつも常識をわきまえていなければならないと説いていたものだけども、それはあくまで建前であり、口先だけであって、実際には教祖から率先して霊がどうした、過去世がどうしたということばかり言っているのだから仕方がない。こういうHSを見ていると、怪力乱神を語らずという姿勢の大切さを痛感する。

 
やはり楽山は、自分が使った言葉「怪力乱神を語らず」について説明する気がないようです。そういうのを、お高くとまる、自分は分かっているんだ、上から親切に教えるのではなく不親切に言い放って終わり、という、実にシャロームにそっくりな態度です。
 
(ネットより)
怪力乱神を語らず
【読み】 かいりょくらんしんをかたらず
【意味】 怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。
http://kotowaza-allguide.com/ka/kairyokuranshinwokatarazu.html
 
まさに、超常と心霊について、霊が分かるっぽい自覚?から、説得力のない惑わしで、"乱神を語ってきた"ところの、楽山が、言っています。こういうところも、シャロームと似ています。
 
「心の理論」:幼稚な勘違い。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
「奇跡について?」:幼稚な詭弁の行き詰まり。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12562025912.html
 
楽山やシャロームなどの易坊類については、一人による3者の成りすましを疑っています。ネットでは証明できませんが、また、違うという証明も出来ません。
 

*信仰
仏陀再誕』では、地上の仏陀である大川隆法への信仰が説かれている。つまりHSで説かれている信仰は、教祖崇拝、生き神様信仰、グルイズムなどと同じものである。これはいちいち批判するまでもなく、間違いであることは明らかだ。

 
自分を、霊が分かるっぽいと思い込んで、様々な、嘘っぱちを、つまり、間違いであることが明らかなことを、得意げに書いてきた楽山も、似たようなものです。
 

それにしてもHSは、唯物論を批判しつつも、社会主義共産主義にありがちな個人崇拝と同じ形態の信仰を持っているのだからおかしなものだ。社会主義国では、指導者を神格化して銅像をつくったり、肖像画を飾ったりして讃えているが、HSでも教祖の銅像を作ったり、写真を拝んだりしている。こういう両者をみると、人は信仰者であろうと、唯物論者であろうと、神から離れてしまえば、その次には人を神として崇めるようになってしまうのかもしれぬと思えてくる。

 
宗教だけでなく、政治もイデオロギーも、無条件信奉者が多数いれば、いくらでも強大なカルト思想集団になりうるということです。党派、派閥、など、御恩と奉公の関係が成立すると、ますます、様相は、封建的、または、カルト的になるでしょう。共通してみられるのは、人間性の喪失です。
 
これらに共通する経過と結果は、自己絶対正当化と訂正不能と無反省と自己中と無責任と責任転嫁と他罰であり、合理性さらに人間性を欠いてくると、反社会的になりえます。その爪痕(つめあと)が歴史に残っているわけです。ゆえに、人類共通の、最も憎むべき罪であります。
 

こんなことを書くと、信者からは「わたしは神から離れていない」という反論があるかもしれないが、自分からみれば、神でないものを神とすることは神に背を向け捨てることであろうし、それなら神ではない大川隆法を神だとすることも神に背を向け捨てることであるとしか思えない。信者にとっては〈大川隆法=神〉だろうから、大川隆法を信じることが、神を信じることであり、大川隆法を信じないことは神を信じないことになるのだろうけれども、それはHS内部では通用しても、外では無理だろう。
個人的な感想としては、教祖崇拝、生き神様信仰というものは、信仰としてはもっとも唯物的、地上的、俗世間的であって、お世辞にも崇高とは言い難い信仰形態だと思う。

 
上のようなカルトの間違いと害悪が分かっているなら、楽山は、先ず、自分でブログに書いたところの、とても恥ずかしい"霊が分かるっぽい"妄想?を捨てるはずですが、そういう反省は書いていません。前に楽山の書いた、"とほほ"では、反省にも訂正にもならず、これまでの訂正不能性の執拗な経過から、"ボク弱いんです芝居"にしかなりません。
 

*霊言
HSでは、霊言が本物である証として、さまざまな説明をしている。たとえば外国人の霊が日本語で語ることについて、総裁の言語中枢を活用して話しているとしたり、霊言をするには霊と波長を合わせる必要があるなど…。
ただこういう説明は、その時々の都合で変わることもあるのが胡散臭い。先頃の例でいえば、守護霊霊言の内容について現実との乖離が明らかになったとたん、守護霊霊言では本心が語られるという説明がブレていたのだった。(参考・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由)
こういうところからすると、HSで言う「霊言のしくみ」なるものは、霊言を本物らしく見せるための、はなはだ護教的な後付けの屁理屈にすぎないことは明白である。

 
楽山は、今までの楽山の記事と私の批判の経過から、キリスト教も、同じような見なしで巻き込んで、否定したいのではないかと思います。
 
キリスト教における三位、すなわち、神、キリスト、聖霊について、啓示や聖霊体験などの神霊直接体験を強調する向きがあり、それらは、自己顕示欲からの意図的な嘘であるか、自己暗示による陶酔気分からの有頂天発言であろうと思われます。
 
何故なら、キリストが救ったのは、傷つきやすいが人間らしい人々であり、一方、神人一体化の訂正不能に向かうのは、キリストの敵となったパリサイ人たちだったからです。一気に、一般の他者より上の者になりたがり、なっていると思い込んでいる心性は、カルトにも共通しているように思います。
 

ちなみにHS以外においては、霊言の審査においては次の基準が用いられることが多いようだ。
①声が変わる
(少女が、野太い男の声で話す等)
②口に水を含ませたまま話をする
(参考「『イギリスの霧の中へ 心霊体験紀行』の感想 (1)」の中段以降、および追記)
③霊言内容と確認された事実が一致する
今のところ、大川隆法による霊言は、①②③のどの基準を満たすこともできておらず、この点からする到底本物とは言い難いと結論づけるしかないように思う。
一応念のため、①②はすぐに分かることだからよいとして、③について説明を加えるとすると、これについてよく言及されるのは佐倉哲氏のページだ。
大川隆法の霊示 『内村鑑三霊示集』のウソ
仏陀意識で書かれたという『仏陀再誕』などについても検証されている。
ブッダ大川隆法

 
このように、人間を超えた超常のしるしを求めるのは、今も昔も、変わることのない、人間の大きな、罪性、すなわち、罪の性質であります。
 
つまり、その罪の性質によって齎(もたら)される結果として、一気に人間を超えようとする者は、ただただ、人間離れの化け物になってゆくだけなのです。
 
神の啓示が、もし実際、現象としてあるならば、受けた人間は、まず、恐れおののき、それを口にするのを憚(はばか)るでしょう。
 
そういう恐れの心がない者に、神が啓示を与えない理由があるとすれば、それは、与えれば、たちまち、教祖に早変わりするのが自明だからでしょう。
 
ゆえに、でしょうか、聖書では、啓示を受けた預言者は、キリストと使徒を含めて、大方、現世的には、利益ではなく、幸福とは言えない運命を辿っています。それが、神の与える使命というものなのでしょう。
 

ところで、この論点における自分のツボは、ダーウィンの霊言において、ダーウィン霊が人になりかけの猿を探していると言っていたことである。進化論は、猿が人になったというのではなく、猿と人は共通の祖先をもつということなのだが、大川隆法に降りたダーウィン霊は進化論のことをよく知らず、一般人にありがちな誤解をしているらしい。

 
楽山は、仏様が喜んでいたと親族に言って、笑われたものだから、それら親族を、霊が分からないっぽ過ぎると言い、ゆえに、楽山自身が、仏様の霊でも分かるっぽいという自覚を持っています。ということは、一般人ではありえないような、ずっと改めていない霊感の我欲を、棚に上げて、上のことを言っているのです。
「心の理論」:幼稚な勘違い
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
 
「よく知らず、一般人にありがちな誤解」という霊のことを、まず、楽山自身が改めないで、他者を批判することは出来ないのです。そして、ここに、楽山の、一般人を軽蔑し、自分は一般人ではない、もっと高い位置にいる、という自覚が見え隠れしています。
 

また潮文社時代のキリストの霊言では、キリスト霊は最期の言葉について、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」などということを言うわけはなく、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」とはエリア、ラファエルを呼んだのだとしていたと記憶している。でもキリスト教の入門書を読めば、これは詩編22の冒頭句であり、それは嘆きから始まり、やがて神の讃美へと至る詩だという。福音書作者は、この冒頭句を提示することで、十字架上のキリストは詩編22を唱え、神を讃美していたことを示したということらしい。でもなぜか大川隆法に降りたキリスト霊は、こういうキリスト教では常識的な知識さえ持たなかったのだ。

 
酷い白々しさです。楽山こそ、シャロームの、"罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい"、という、キリスト教についての"常識的な知識"であるところの"罪を悔い改める信仰"にも真逆の、とんでもない反キリスト信条の味方を継続的にしてきたのです。
 

大川隆法が霊言と称するものは、このようにある程度の知識があれば、すぐにボロが出るものである。以前の霊言であれば、たとえ霊言のなかに事実誤認があったとしても、心の教え、人生論的な部分についてはよいところもあるという主張も成立し得る可能性はなくもなかっただろうけれども、最近の霊言は大川隆法への讃美やら、教団運営のつじつま合わせやら、過去世がどうこうというような護教的なものばかりなのだからそれも無理になっているのだから仕方がない。

 
ある時期、盛んでも、人間は、衰えてゆきます。それが、人間であり、人間の宿命です。そこで、次の世代に、良きものを伝えられるかが問われるわけですが、カルトには、それが無く、場合によっては、害毒だけが残るのです。
 

*まとめ
大川隆法は自分の教えによって、世界の宗教を統合するとしているし、信者もそれが可能だと信じているのだろう。実を言えば自分も信者だった頃はそれを信じていた。
でも神を信じ、霊的人生観を持ち、正しき心の探究を志し、愛知反省発展を実践するうちに、残念ながら大川隆法の教えでは世界の宗教を統合することは無理だと結論するしかなくなってしまった。信仰、愛、知、神、教義体系などについてはキリスト教の方がより徹底しており、深く緻密に探究しているし、思想性の幅広さであれば仏教が圧倒的だろう。

 
よく言うよ、とは、このことで、楽山は、神について、神がいるなら、どうして悪がいるのか、悪を放置するのか、などと、いちゃもんをつけて、どうしようもない本末転倒の、おとしめの文句を言ったことを、そっくり棚に上げています。
 
信仰は、神がいて、おいでおいでするから、人が信じるのではありません。
 
神が、いかに沈黙していても、キリストの愛と共感を忘れ得ないのが、キリスト信仰者です。ゆえに、嘆きも正直に、祈りの場において、神に捧げることになります。
 
歯の浮くような讃美言葉で神に対して世辞を言うシャロームや、神がいるならなぜ悪があるかなどという現世の完全幸福の欲望だけからのいちゃもんを投げてくる楽山などには、信仰も信仰の理解もないと思うのは、愛に絆(ほだ)されるという人間の性質が、嘘吐きには無いからでしょう。
 
まず、どうしようもない悲劇に接した人々が、神なる御方を必要として、神がいないならば生きてゆけない、というほどの気づきが始まり、信仰が始まるのです。こういうこと書いても、字面信仰?の楽山には、分からないでしょうね・・。
 

発展については宗教ではあまり語られていないというが、キリスト教系の光明思想や、自己啓発本などで十分に語られている。

 
(光明思想について、ネットより)
ニューソート(New Thought、新思考)は、19世紀アメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつ、一種の異端的宗教・霊性運動である。現世利益の追求を戒めるキリスト教プロテスタントカルヴァン主義への反発を背景に生まれた[1]。
ニューソートは、アメリカのメスメリスト[2](催眠治療家)・心理療法家フィニアス・クインビー[3]やクリスチャン・サイエンス創始者メリー・ベーカー・エディの思想を中心としていた。アメリカの対抗文化の流れを汲むニューエイジの源流のひとつであった。ラルフ・ワルド・エマーソンの哲学を支えに徐々に社会に浸透していった[4]。
ニューソートは、聖書の内容を従来とは違う立場から解釈しようとするもので、「人間の意識は宇宙と繋がっている」と考え、その根拠を聖書に求めるのが主流である[5]。
その主張には、「そもそも『原罪』は存在せず、あらゆる人々がキリストの力を内包している」、「正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた」といったものが含まれていた。その教えを異端視する者がいる一方、従来の禁欲的キリスト教思想に疑問を抱いていた思想家、労働者、零細農場や工場の経営者らは触発された[6]。
生長の家」の創設者谷口雅春が光明思想と訳しているように、気持ちを明るく保つことで運命が開ける、というポジティブ・シンキングや、イギリス出身の牧師ジョセフ・マーフィーの成功法則(日本でも著作がベストセラーになっている)などもニューソートの一環であり、いわゆる成功哲学の面がある。
心や思考の性向が健康や経済状態として表れる(思いは現実になる)という考え方(積極思考、ポジティブ・シンキング引き寄せの法則)は、現代の自己啓発やビジネス書の源流であり、日本人への影響も大きい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%88
 
「あらゆる人々がキリストの力を内包している」これは十分に、カルト臭い筆致だと思います。景気よく豪語して辻褄を合わせる者たちに、同意しないでください。
 
原罪の自覚なしでは、キリスト信仰は成り立ちません。
 
また、ポジティブシンキングは、冷静な、心からの反省を土台としなければ、自己中になります。
 

霊については最近のHSでは護教的党派的な見地からの主張が多く、ずいぶんと偏向したものになっているが、それよりはより普遍的な立場から語っているスピリチュアル系の本で学ぶ方がいいだろう。

 
人間理解と共感を深める努力と反省をしないならば、スピリチュアルも、キリスト教の教派も、有害です。人間を深く理解しようとするなら、原罪がない、などとは、決して言えないのです。
 

またすべてを統べる思想を目指すのであれば、唯霊論でも、唯物論でもない、それらを超えた立場を目指すべきであって、霊的人生観という唯霊論の立場に立ち、唯物論を否定しても仕方がない。
同様に、有神論と無神論のうち一方の立場に立っていても仕方がない。唯霊論でも唯物論でもなく、有神論でも無神論でもない、それらを超越した立場にでも立たなければ、それらすべてを統べることはできぬだろう。この意味でHSの教義には限界があるし、HSの教義は数ある宗教のうちの一つではあっても、すべてを統べるものになることは決してないのが現実である。HSの教えによって救われる人は当然いるだろうけれども、だからといってすべての人を救えるとは言えない。大川隆法がいくら自分の教えを誇ったとしても、こういう事実はいかんともしがたいのである。
以上、これが自分の現時点における結論である。〈了〉

 
HSは、教祖が、権威主義から教えを、押し付けてくる硬派カルト、楽山は、軟派カルトと呼んでいるところの、一見、優しそうな言葉で、霊が分かるっぽい詭弁による誘導であり、正体は、楽山の野望なので、硬派よりも、見抜けないあいだは、さらに、危険です。
 
結論である、などと言えるほど、楽山の、思想と知性、宗教と感性は、いずれも、整ってなどいません。話にならないくらい雑であり稚拙であります。今回、いくら長い記事を書いてもいっしょだ、ということが明らかになっています。
 
楽山が、HSを斬ったつもりの、その刃で、楽山が斬られているのです。これは、嘘吐きや偽善者やカルトには、しばしば見られることです。偽善の妄想狂シャロームが、押し付けがましく、信仰?のきれいごとを並べるときにも、同じようなことがありました。
 
なお、楽山やシャロームなどの易坊類には、一人による3者への成りすましの疑惑があります。ネットでは証明できないが、ネットでは晴らすことも出来ないのが疑惑です。
 
 
メモ的に:
 
真の信仰は、人間らしい良心を促進して、絶対者である神に対する敬虔に人を導き、人に反省と成長を促します。正直な祈りだけが、救われる条件であること、そして、潤いと温もりが、すなわち、悲しみと愛が、信仰の、源泉であり、力であることを、今まで、私は、書いてきました。
 
信仰について考えると、聖書を読むということは、その中に書いてあることで、人間として受け取れるものを探し求めることであって、聖書に書いていることを全部信じ込むことではありません。
 
何故なら、心が動かないところを信じれば、それは、教条的な概念の思い込み信じ込みに過ぎないからです。そういう信じ方をすると、疑問に対して、自分も心から受け入れていないために、まともな受け答えが出来なくなるのです。
 
ですから、感動してもいないのに、つまり、本当に心が動くほどに理解してもいないことに、信じます、などとは、言ってはいけないのです。心が動いていない場合、一応、心に留めて、今後、考えてみます、ということに、とどめておかなければいけないことです。
 
知ったから、分かったから、信じるのではありません。心を動かし、心に残っていて、生きるのに必要だから、他にないものとして、受け取った、という基準で考えるべきことです。
 
 
以上3記事、今回の「まとめ芝居」は、一応、おしまい。
 
 
(2020年06月03日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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