ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

恐れと畏れ(再)

 
  恐れと畏れ (再)
 
 
いつのまにか聖書において
「かみをおそれる」が
「神を恐れる」ではなく
「神を畏れる」になっている。
 
恐は
こわいと感じること。恐怖。
畏は
敬いかしこまること。畏敬。
 
私はこの訳の変化を改悪だと思う。
 
何らかの辻褄合わせが働いていると思うからだ。
 
神は救う御方だから
恐怖の恐ではなく
畏敬の畏でしょう。
神は恐ろしい御方ではなく
愛の神だから
畏(かしこ)まるべき相手だから
とでも言うのであろうか。
 
通念的概念によって
愛の神だから
恐れる、ではなく、畏れる、でしょう
と安易に考えてしまってはいけない。
 
このように改めた者は
神と悪魔を見分けられるつもりなのだろうか。
 
神のふりをした悪魔を
おのれの見識で見抜いて退けられるというのだろうか。
 
それは著しい思い上がりである。
漢字だけ変えても
人類が悪魔の誘惑に乗ってしまった歴史は
個人の罪とともに
払拭されることはない。
 
聖書を読めば
神は雷や荒らしとともに顕れ
人は怯えることしか出来なかったのである。
一方
エバを誘惑したように
また自らを省みても
人類のしでかしたことを思い起こしても
悪魔は甘い言葉と態度で誘惑するのである。
 
「神を恐れる」を
「神を畏れる」と変更し
神の前に震え上がる人間の罪性を無視して
 
神には畏敬の念をもって畏まりましょう
という気安い意味に変えてしまうことは
それこそ神を恐れない態度である。
 
人は
神と悪魔を区別することは出来ない。
からしばしば悪魔の誘惑に乗ってきたのである。
 
人は
悪魔を恐れる以上に
神を恐れなければならない。
神への"おそれ"は
恐ろしさを除外してはならない。
 
人が
神と悪魔を見分けられる前提に立つのは
善と悪の絶対判断が出来るという思い上がりである。
 
神は人が
畏敬し畏まるべき相手ではない。
 
神は、人が恐怖するべき
そのために震え上がるべき御方である。
 
悪魔のほうが
人には見かけ優しそうに語りかけてくる。
 
詐欺師もカルトも偽善者も、その悪魔性である。
 
神に対して「畏れる」と書くのは
社会通念的概念の産物であり
それこそが悪魔の誘惑である。
 
「神を恐れる」を
通念のみの気安さをもって
恐怖とは違うんだからと
安易に区別した気分で
神を畏れると書くのは
「女」を
「他人の妻」と言い換えて
これなら守れるでしょうと
湧いてくる人の肉欲の本性を無視して
安心することと同じであり
 
言葉を変えて安心するというのは
しかも安易な方向に変えるというのは
神を恐れぬカルトの所業である。
 
私たちは、救いがたいほど不完全である。
ゆえに、私たちは、
神を、私たちのイメージでは表せない。
 
雲の上の栄光の光のような神だけでは
私たちは救われない。
 
ゆえに神が顕れるときの嵐や雷を恐れる以上に
私たちは全知全能の神を恐れるべきなのである。
 
神を恐れる敬虔は決して礼儀ではない。
また単なる尊敬でも畏敬でもない。
 
人間の凶悪なる罪性を思えば
人に親しむ優しい神では
人は救われない。
 
人の悪魔性を圧倒するほどの
恐るべき神でなければ
人は救われない。
 
そういう神に救われたいのならば
人は、神に対して
決して気安く語れないほどの"恐れ"を弁える必要がある。
 
(だから、私は、新共同訳は嫌いです。)
 
 
(2019年05月26日、同日一部修正)
 
(2020年06月04日、修正再録)
 
畏れる(おそれる)畏まる(かしこまる)
払拭(ふっしょく)
 
 
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