ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

知らないこと(改)

 
  知らないこと(改)
 
 
神と神の国、私は、よく知らないです。聖書を読んで、知らないことを弁えて、キリストを好きになることが信仰です。私にとって希望がそこにしかないからです。
 
人に、ひょいひょいと分かるような神なら、私は疑い深いので、信じなかったでしょう。
 
キリストについて、人が分かることというのは、キリストが、その最高の洞察力と共感力で、人間と交わったことだけです。
 
キリストが、二千年前そうであったように、今も、人間と神の仲保者として、同伴していることを、生きるために、否定できなくなった人が、信仰者となります。
 
感動することで、止まっている人間は動き出します。それが、人間にとって、いちばん大切なことです。いつもいつも感動しているわけではありませんが、感じて、受け取り、考えて、わが身を省みて、何かを学ぶことが、その人なりの成長であります。
 
それは今も、地上の人間にとって、折々の成長として、もたらされるものであり、一気に悟るものではなく、人間において完成することはありません。
 
私たち人間は、生涯のうちに、未完成の自分と、未完成のまま、世界で学んだことと為し得たことを、そのまま神に見せて、祈り、捧げて、その懐に帰るのです。
 
 
今までに見たところの
神を知ってるつもりの偽善者とカルトの間違い~大嘘~反信仰:
 
「罪は、悔い改めなくても救われるから、気にしなくていい」と言う。実際、いかなる不祥事にも、罪を認めない。また「悔い改めは神が与える」とも言うのだが、
 
これは、悔い改めないことの言い訳の詭弁。これらは、反信仰、反キリストの偽善者の暴言である。
 
神は悔い改めを与えるにあたって、人を操り人形みたいに変身させて、他動的に悔い改めさせたりはしない。そのような記事は聖書にはない。
 
カルトは、信条だけでなく、不都合に際しても、自分に都合の良い魔法をでっちあげる。決して本当の反省をせず、総ての不都合を、他者のせいにする。
 
 
悔い改めるのは、誰なのか、人である。人は、その人格の自由意志において、自ら悔い改めるのが信仰である。
 
アブラハムは、神に義とされたから、どこまでも正しい」
「女ではなく、他人の妻だから、情欲の教えを守れる」
「教えを守って完全になれる」
 
これらは、キリスト教の初歩において、人間というものを、また、神と人の関係を、まるで学んでいないがゆえの誤解が、曲解から信条にまでなっているカルトの例である。
 
アブラハムだけでなく、ダビデも、キリストの弟子たちも、罪を犯したのち、悔い改めて、祖、王、あるいは、使徒となった人々。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書
   ↓
 (マタイによる福音書/ 05章 28節)
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 (新共同訳)
 
「女」を「他人の妻」に言い換えても、情欲は湧いてくる欲望であって、情欲を湧かせないようにすることはできない。つまり、教えを守れる人はいない。
 
罪なき人は、一人もいない。
 
これなら守れるでしょうと、易い行為義認に走れば、著しく心の問題を疎かにするだろう。
 
完全になれる、に至っては、神への冒涜であり、背教である。
 
完全なのは、ただ神お一方のみである。
 
 
キリストは、人間の肉体を持ち、神性と人間性を兼ね備えた御方であり、
 
私たちは、キリストの神性の表れとしての、処女懐妊、物や肉体への奇跡、復活、について、何かを理解しているとは到底言えない。私たちが人間だからだ。
 
これらの超常の奇跡に、人間の真実の心はふるえない。分かっていないし、現代では滅多に起こらないし、驚きはあっても、それは、理解できないことへの驚きであり、人間を成長させる感動を与えることはないからだ。
 
これらについては、否定する必要はないが、史実性は不明として保留するべきである。
 
私たちが理解でき共感できるのは、キリストの人間性への共感力である。二千年前に、現代も悪の本質である偽善を見抜いて赦さなかったイエス・キリストの、人間性への慈しみに溢れた共感力である。
 
キリストは、人の敬虔の本質の有無を洞察し、罪深さを知っている人々に共感し寄り添ったのである。
 
そして、キリストは、誰もご自身を本当には理解していない状況を承知の上で、命をささげた。心ある人々は、それがどんなに孤独で、どんなに苦痛であったかに、共感して信仰に至る。
 
共感とは、悲しみと愛の情感を共にすること。真善美は、そこから生まれる。
 
 
キリストは、偽善を見抜き、神の真実のために、理解者ゼロの境遇にもかかわらず、命をささげたから、私たち信仰者は、キリストを忘れられず、キリストから離れられないのである。
 
キリストの犠牲から、当時の心ある人々を動かして、贖罪の教理が生まれたが、教理は信仰にとって、糧に過ぎない。何故なら、信仰と希望と愛は、その言葉自体だけを語っても、何も表したことにはならないからである。
 
キリストの死を、罪を背負って死んでくれてありがとう、などという、軽はずみの感謝の言葉にするのは、贖罪の教理が字面の理屈になり、理屈のうわべを辻褄合わせで滑っているだけの、心無い鈍感である。
 
 
キリストの共感力に、次は、人間が共感して、言葉を紡ぐ努力が必要である。私たち信仰者は、アガペー(神の愛)を与えることは出来ないが、キリストの死によって、そして、キリストの同伴の希望によって、アガペーを既に受けている。
 
信仰者の努力は、少なくない失敗を経て、反省し、そのたびに正直な祈りによって告白し悔い改めて新しくなることで、学習し、少しずつ成長する生き方である。
 
キリスト教は、その成立から今に至るまで、政治などによって、迫害され、利用され、また、カルトの宣伝にさえ利用されてきたけれども、
 
一方で、聖書を通して、また、心あるキリスト者を通して、言葉で表せない一番大切なことを、信仰者に、そして、非信仰者にも、キリストは、今も伝え続けている。
 
 
言葉だけで分かったつもりの教条主義、信条を捏造しているカルトや、平気で嘘を吐き、それを社交の世辞と預言者気取りで糊塗して隠蔽している厚顔な偽善者に、決して騙されてはいけない。これらの者たちは、神を、本当には、信じてなどいないし、恐れてもいない。また、キリストを、本当には愛してなどいない。人を騙し、人よりも上に立つためのツールとしているのだ。
 
彼らは、命をすてても・・みたいな大仰な言い方をすることもありますが、本当に命を懸けている人は、そういうことを人前で言うことについて、神への恐れのために控えるはずです。真に受けないでください。
 
彼ら反キリストたちは、もっともらしい言葉?の字面のみを武器に、超常の物語の辻褄だけにこだわり、人間の心を疎かにして、人間ならば分かるはずの理路と共感を捨ててしまった者たちです。
 
つまり人間らしさを持たず、むしろ人間を嫌っていると思われます。世辞の優しそうな言葉を使うが、共通して、敬虔、謙虚、謙遜が、実質として見られず、共通して、尊大であり、無反省で自己中心の訂正不能であることを特徴としています。
 
 
(2019年06月04日、同日一部修正)
 
(2020年06月06日、修正再録、同日一部修正)
 
 
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