ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

滅裂な訂正不能

 
  滅裂な訂正不能
 
 2020年06月07日
 『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』レザー・アスラン著、白須英子訳
 http://mn266z.blog.jp/archives/25072520.html
 楽山日記(LD)
 
 
前に否定されて、何も返せなかったのに、また「心の理論」のことを、前と同じように持ち出して、同じ主張をしているようです。もはや、妄想化しているのかもしれません。
 

『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』を読了。同著者の『イエス・キリストは実在したのか?』も面白かったが、本書もそれに次ぐくらい面白い。

 
人類が神を生み出す、という題から、既に、人が神を作ったみたいな、無神論前提だろうということは分かるわけです。
 
その本を読んで、この記事を書いている楽山は、クリスチャン芝居をしたり、キリスト教の悪口を言ったり、幼稚な疑問で神不在を言い張ったり、逆に肯定したりと、言ってることがメチャクチャな、反キリストの楽山であります。書いて自慢することだけはやめられない自我の奴隷です。
 

内容はといえば、まず序盤では宗教の起源について、さまざまな仮説を紹介している。人は夢で死者と会うことで死者は今も別世界で生きていると考えるようになった、自然の脅威を目の当たりにして創造主の存在を意識するようになった、宗教による連帯団結は生存に有利であった、宗教は願望の充足のために用いられた、

 
これは、宗教の起源ではなく、楽山が、宗教を否定するために、持ち出したものです。ここに書いてあることから生まれる宗教は、例えばシャロームの偽キリスト教や、キリスト教系カルトの発想であります。
 
夢は夢です。夢での不思議物語は、人間を生かす信仰にはなりません。
 
自然の脅威は、脅威であり、自然の驚異は、驚異ですが、それが何らかの恐れを感じるものであっても、人間を支える信仰にはなりません。
 
連帯は連帯であり、生活様式に影響はあっても、それを信仰と呼ぶのは、楽山のような、信仰の心を全く持たない者です。
 
願望の充足は、必ずしも、宗教や信仰によってもたらされません。顔貌には欲望が含まれることがあるから、という以上に、神を、人の願望に従わせることは出来ません。
 
楽山のような足らざる者が、上のような軽口の悪口をあげて、宗教と信仰をおとしめても、宗教と信仰は、神に対して不遜で不敬虔の愚かな者によって左右されることはなく、信仰を必要としている人々の正直さに答えて、変わることのない神から、恵まれ続けるでしょう。
 

進化の過程で獲得された「心の理論」などが宗教を生んだ等々。ここでは著者はどうも最後の仮説を支持しているらしい。

 
私の記事「心の理論」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
 
「心の理論」は、進化の過程で獲得されたと楽山が書いていますが、楽山は、それを、霊感が獲得されたかのように曲解して受け取って記事を書いていたのです。しかも、今回、それを、宗教の起源として書いているのです。
 
楽山は、単なる学習障害からの無知ではなく、妄想性障害か、故意の悪意の妄想として固定している無恥ということを考えるべきかもしれません。
 
あるいは、背後にカルト組織があるのかもしれません。楽山は、その指示を実行していて、それゆえに、責任を一切負わないのかもしれません。恐ろしいことです。
 
(ネットより)
心の理論(こころのりろん、英: Theory of Mind, ToM)は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである[1]。
「心の理論」はもともと、霊長類研究者のデイヴィッド・プレマックとガイ・ウッドルフが論文「チンパンジーは心の理論を持つか?」("Does the Chimpanzee Have a "Theory of Mind")において、チンパンジーなどの霊長類が、同種の仲間や他の種の動物が感じ考えていることを推測しているかのような行動をとることに注目し、「心の理論」という機能が働いているからではないかと指摘したことに端を発する(ただし、霊長類が真に心の理論を持っているかについては議論が続いている)。
この能力があるため、人は一般に他人にも心が宿っていると見なすことができ(他人への心の帰属)、他人にも心のはたらきを理解し(心的状態の理解)、それに基づいて他人の行動を予測することができる(行動の予測)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%90%86%E8%AB%96
 
霊長類とは書いていますが、それは、ヒトやサルなどの動物の種類のことで、心霊現象や霊感とは何の関係もないことです。「霊」という言葉の、簡単な意味さえも、霊が分かるっぽい自覚?の楽山は区別できないようです。
 
「心の理論」は、宗教の起源とは関係ありません。他者の正誤を見分けるという発達しうる知性のことでしょう。楽山が、捨ててしまった能力です。
 
だから、楽山は、人の迷惑を省みず、聞かずに書くわけです。他者に迷惑かけることを、罪悪感がないために、全く気にしない楽山という異常人格だから平気で嘘を吐くのでしょう。
 
楽山の妄想が、壊れた人格によって、深化と訂正不能の方向に病理を深めているだけなのです。
 

中盤では一神教の起源について語られている。ユダヤ教は元来は多神教であり、「初代王サウルでさえ、息子をヤハウェにあやかってイェホナタン(ヨナタン)と名付けるのと並行して、他の二人の息子をバアル神にあやかってエシュバアル、メリブバアルと名付けていた」(p.149)し、エル(アブラハムの神)とヤハウェモーセの神)は別々の神(p.150)だったので、イスラエルバビロニアに敗北したときには、「バビロニアの神マルドゥクヤハウェより強かったというのが神学的結論」(p.139)となり、多くの人々が「名前もバビロニア風に変え、バビロニアの言葉を学び、彼らの神々を拝むようになった」(p.139)のであるが、その後イスラエルの敗北はヤハウェマルドゥクに敗北したためではなく、すべてはイスラエル人を罰するためのヤハウェによる計画であり、「マルドゥクなど、そもそもいなかった」(p.140)とされて、神は唯一ヤハウェだけが存在するという考え方が生まれたという。

 
このように、字面だけ書いて、それで、説明したつもりになるのが、楽山です。しかも、聖書のあらすじをあちこち書いているようですが、あらすじを追うだけでは、聖書の理解など出来るはずはないのです。楽山には、聖書に共感するための心が何もないのでしょう。
 

また一神教については、ユダヤ教に先んじて、アクエンアテンザラスシュトラらの試みがあったが、そのどちらも長くは続かず忘れられるか変質させられてしまったとのことである。キリスト教については、初期には旧約の神と、イエスの神とは別個の存在だという考え方もあったが、「キリスト教会が唯一の司教――つまり、ローマの司教下の統治システムを法的に有効にしよう」(p.172)という意図によって、唯一神とは異なる多神教的な考え方は排除されたという。

 
唯一神信仰が、陰謀の産物であるかのように書いているのは、楽山が、唯一神信仰を必要としていないからでしょう。ならば、無関係であればよいものを、自己顕示欲と、妄想のために、自分が勝ってるということにしないと気が済まないのでしょう。何に役にも立たない、何の益にもならない、楽山の、独り芝居と独り言に、決して関わらないでください。
 
楽山は、本を選んで、本を曲解して、さらに、都合の良い箇所を選んで、書いていると思います。何故なら、聖書についても、良いものを何も受け取らないまま、自尊から、分かってるんだ根性で、書いてくるからです。過剰で無意味なプライドの成れの果てなのです。
 

終盤では、著者は一神教から汎神論的な信仰観を導き出している。神は唯一であり、不可分であるならば、神が創造を行う時、その材料は神以外のものではあり得ず、神自身であったことになる、創造の前には神のみが唯一存在し、不可分であれば当然にそうなる、とすれば神は神を材料として創造を行ったのであり、神と被造物とは別個のものではなく、同一である、つまりすべては神であり、神ではないものは存在せず、神はあらゆるところに遍在している云々。

 
神の一神遍在論というのはあります。一人の神が、普く存在している、ゆえに、ひとりひとりの祈りを聞いておられる、という考え方ですが、学説に過ぎません。そもそも、神の存在のあり方を、存在の次元の限られている人間が解明することなど、ありえないのです。
 

本書全体を通読すると、著者の視点はテーマによって移行しており、宗教の起源については進化論的視点で語り、一神教のはじまりについては現実的政治的視点で語り、一神教から汎神論的な信仰観を導くときは宗教的神秘的視点で語っているようだ。

 
宗教を、インテリ気取りで、何学的視点で、などと言う楽山は、まず、しっかりした視点も論点も持っていません。
 
今まで、楽山が書いてきたのは、幼稚な作り話か、詭弁か、いつまでも、小中学生的疑問のままで、学習による進歩がなく、かつ、そこで慢心してしまっているだけの、神を否定してくる嫌がらせに過ぎなかったのです。楽山のようになったら、正常に戻ることは困難かもしれない、と思わせる記事が楽山日記には満載です。
 

また一神教を突き詰めると汎神論に行き着くというのは、アニミズム的なものからはじまった宗教が、多神教から一神教へと移り、しまいにはまた元に戻っているようにもみえる。ものごとはなんでも円環をなすという話があるけれども、宗教もその例外ではないとすると、これもまた解脱すべき輪廻であり業であるということにならないとは言えなそうだ。

 
一神教を突き詰めると汎神論に行き着く」・・どういう意味でしょう。わざと複雑なことを言ったり、しかもそれを説明しなかったりするのは、君らには分からないだろうね、という、救いがたい傲慢を表すこと、楽山は、全く気づかないのです。自己顕示欲によって潰してしまった人間性に残るのは、原始反応の本能から、快楽原則のみから、自慢だけしてくるような、みじめさだけになります。
 
「ならないとは言えなそうだ」・・こういうのが、ボンヤリ言語の典型です。楽山は、これで、中庸、中立、優しさ、決めつけでない柔和さ、などを示したつもりなのです。言っていることの内容について、他者についても、自身についても、洞察も思考も出来ないと、こういう雑さになります。
 

本書は宗教を信じ、かつ進化論や歴史的視点から宗教を判断することに嫌悪を感ずる人にとってはあまり愉快なものではないかもしれないが、その辺りのことにはこだわらず多角的視点から宗教とは何か、または神とは何かを考えてみたいという人にとっては興味深く、一読して損はない本であると思う。ちなみに自分は後者なので、冒頭に書いた通り本書は面白く読めた。

 
宗教は、信仰のためにあります。学問は、その糧になります。しかし、偏向した妄想的観念が支配している楽山のような者が、学問に関わり、本を読み、「こだわらず多角的視点」と言っているのは、実は、宗教は、多角的視点がない、こだわりで出来ている、という偏見からの攻撃であります。
 
信仰とは神とは何かを考えてみたいという人にとっては、楽山の思考、実際は、楽山の無思考と偏見は、何の役にも立たないばかりか、同じ偏向を、ボンヤリ言語で、刷り込もうとする我執~企み~陰謀でしかないのです。どうか、楽山に、決して、近づかないでください。

もはや、私の、楽山批判は、恐らく、道に糞が落ちているを見つけて、糞を踏まないで、と読者に言っているようなものでしょう。楽山は、おびただしい病原を含んでいます。
 
 
(2020年06月08日、同日一部修正)
 
 
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