ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

祈りとは

 
  祈りとは
 
 
祈りは
人から
神への
言葉による唯一の音信であります。
 
そこにのみ、言葉での
神に対する人の自発性が表れます。
 
出来事
思うこと
感じたこと
学んだこと
悔いていること
罪の告白
赦しと導きを乞うこと
 
信仰を固定してはいけません。
 
心の中が定まったからと思って
心の中をそのまま変えないことが
信仰だと勘違いしてはいけません。
 
定まって変わらないのは
神の御心であって
人の心ではないのです。
 
人が自分の心を変えないようにと思っても
人には心を不変に保つだけの強さはありません。
 
人の心を変えないようにすることは
人が自らを弁えず無理をすることであり
神が人を変えようとすることを
つまり成長させようとすることを
拒む行為であります。
 
信仰において
人が自らの分を超えて無理することは
かえって心を損なうだろう。
しかも、御心に背く行為なのです。
 
罪なら罪の
願いなら願いの
ありのままを正直に神に告白し
そのとき告白できなかったことは
気づいたときに改めて告白して
改めて神の導きを乞い
そして待つのが信仰です。
 
不安定になってはいけないと
いつも同じようなことを祈るのは
人が不完全であり罪の性質を持っていて
元々不安定であることを知らないからです。
 
人間ならば
日々、様々なことをして
様々なことを思うのであり
日々がまるで一緒ということはないはずです。
 
人の避けられない変化を
やみくもに変わってゆくことから
神の御心によって変わることが出来るように
神によって心が解放されるのが信仰です。
 
人が自分で保つかのように
心を変わらないようにすることは
導きを拒む姿勢と言えるでしょう。
 
赦しに加えて、癒しと、落ち着きと、安らぎ、という恵みは
信仰によって神から与えられるのであって
 
人が自分で癒えるように落ち着くように安らぐように
自分で心の姿勢や態度を固めようとするのは
神の導きを拒むことであり
信仰を自分で保てると慢心することなのです。
 
人は地上に生きているあいだ
頻繁に他者の影響を受け
さらに我執の誘惑に直面しています。
 
それは悪魔の誘惑に近く
つまり
人は悪魔性を内蔵しているということです。
 
偽善者は
まさに自らの悪魔性に動かされて
癒えることなく落ち着くことなく安らぐことなく
他者を下に見る分
いつも他者を気にして
神の御心から離れてゆきます。
 
要は努めるべきこととして
人として
神の前でだけは
何よりも正直を心掛けることだけが
信仰において唯一正しいと言える弁えであります。
 
"ねばならない"
ということは多くはないのです。
「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(ルカ10:42)
という教えは
信仰がシンプルであることを教えています。
 
神の前に、正しさをいくら述べても通用しないのです。
最も正しい御方が相手だからです。
 
神の前に、どれだけ愛を語っても通用しないのです。
最高の愛を持っている御方が相手だからです。
 
神の前に、正直以外は、通用しない。
 
このことは、私たちが、
余計な荷を下ろし、無くてはならないもののほうを選ぶためです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
 (マタイ11:30、新約聖書
 
信仰は
他者に対しても
自分に対しても
脅迫でも強迫でもありません。
 
 
(2020年06月11日、同日一部修正)
 
脅し(おどし)
 
 
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