ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

笑止い自慢の楽山

 
  笑止い自慢の楽山
 
 「ヨブの信仰」羽仁もと子
 http://mn266z.blog.jp/archives/25177320.html
 楽山日記(LD)2020年06月16日
 
 
(辞書より)
笑止い(しょうしい):気の毒、滑稽。(東北・信越地方で)恥ずかしい、おしょしい。
笑止(しょうし):大変なこと。困ったこと。気の毒なこと。笑うべきこと。おかしいこと。恥ずかしく思うこと。
( Ex-word 広辞苑
 
 
楽山は意地になっているのでしょうか。それとも、びくともしないことを示したいのでしょうか。
 
出力は、受け取れば、必ず、その性質が表れます。その積み重ねがあり、そこに問題があれば、自然の流れとして、問題点についての資料が多ければ多いほど、詳細な文章となって返されることになります。楽山は、鈍感~無視~厚顔を鍛えるために、それを望んでいるのでしょうか。驚くべき不感不応で、書き続けています。
 
 
 楽山の偽善性
  改めて、今までに表れてきたことから現状の、楽山についての資料まとめ。
  
自己愛が強く自己中である。自己愛性人格障害であろうか。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。
特に批判に対しては不感不応。理路が理解できないからだろう。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
 
楽山本人は、ブログのタイトルに、LDと書いている。学習障害 learning disability のことであろうか、言及がない。障害の自覚に全く不釣り合いな満悦感から、厚かましく、学者・批評家・読書家・インテリ気取りで、分かっているという我執から離れられない。
 
深い情感がなく、共感性がない。
後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。
世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
 
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、決めつけて、決めつけて、偏見を刷り込む。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、暗に、自慢して、自慢して、自己満悦する。
 
このような小細工をすることで、楽山の文章は、何ともじれったく辛気臭いものになっている。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けない自己中が表れてくる。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。
成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。
聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。
文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、さすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
以上の多くは、シャロームと共通である。楽山は、シャロームや易坊の、キャラを変えた芝居の成りすましではないかという疑惑がある。でなければ、親族か、カルト仲間か、よく似ている。
 
この楽山の資料まとめは、必要があれば修正加筆して、これからも載せるつもりです。
 
 
楽山は、他者の言葉を借りて、自分を高めようとしてきました。いかなる他者の言葉を引用しようとも、楽山が選んで自己満足のために書いてきたものなので、楽山の意見として、批判することになります。
 

羽仁もと子著作集 第十五巻 信仰篇』に収録されている「ヨブの信仰」を読んだ。ヨブが「悶掻きつつあらゆる言葉で神を怨じるのは、神の愛を信じきっているから」であり、神はこれを喜んだとのことである。
これは、あっと驚かされると同時に、妙に納得させられた。胸にストンと収まる感じだ。彼は神に恨み言をいいつつも、心の奥では神を信じきっており、神はそのことをすべてご存知の上で、受け入れてくださったというのであれば涙が出る。

 
ヨブは、悲劇に遭って神が助けてくれないので裏切り、自己正当化をして、神と議論したいなどと、神に悪態をつきます。したがって、神が顕れて叱りつけると、すぐに、悔い改めました。
 
ですから、ヨブは、神を "信じきっている" というのは、間違いです。
 
苦痛の中でも、神を信じ切っていたのは、キリストだけです。
 
私たち信仰者は、神が目に見えない世界に住んでいます。したがって、代わりに与えられた聖書から、感じ取り、考え、信仰を受け取ってゆく必要があります。
 
そう考えると、楽山の無理解の経過から、妙に納得、胸にストン、というのは、嘘であり、実際は、分かっているふう、ちゃんと読んでいるふうを装っているに過ぎない、ということが感じ取れるわけです。
 
ましてや、涙が出る、に至っては、今までの記事とコメントの流れ、文章の中の前後関係から言って、質量の無い文脈の典型で、楽山の、ふざけた三文芝居であることも分かるのです。
 
文章を読むときに、その文章だけではなく、過去の文章とその主張の流れを把握しておくことが大切です。過去と一致せず、反省もしていないならば、言い逃れの嘘と判断できるでしょう。
 
楽山にとって、言葉は、真実を表す手段ではなく、自分をよく見せるツールでしかないと思います。ここまで、平気で、偽りを続ける楽山に、毛ほどの信頼も寄せてはいけません。
 
楽山の hidden悪意の本性は、随所に、深みの無い、まともな文脈の無い、罪悪感の無い、皮のような思い付きの、泡を吹くような、きれいごとによって、化けの皮が剥がされてゆくでしょう。
 
ここに至って、なお、平気で、恐らく笑いながら、白々しい記事を書いてくるところに、楽山の、不治の病巣の深さが表れてきます。もはや、悪魔性、全開です。
 

宗教界隈では、神に対する恨み言を呟いてしまったなら、もうそれだけで、即、バツ判定されることも珍しくないけれども、神はそんなことはせず、もっと深いところまで理解してくださるというのであれば、こんな有り難いことはない。

 
本音の疑問なら、私も祈ることがあります。しかしながら、嘘を吐き、だまし目的で語るところの、おとしめと、けなし言葉と、嘘の納得を、受け入れる神ではないのです。
 
楽山は、神を知らないから平気で言っていますが、恐ろしい悪意を、平気な顔で、今に至るまで、神に対して、さらし続けているということです。
 

でも考えてみれば、実際こんなものかもしれない。ちょこっと順序だてて説明するなら、神の愛を信じていなければ恨み言なんて言えるはずもなく、ただもう怖くて怖くてコチコチに緊張しているしかないが、それを心の奥で信じきっているならば、自分がどのようなものであれ受け入れてもらえることを予期できるわけで、

 
神の愛を信じていないから、恨み言を、だまし文句を多用して、平然と言えるような根腐れ者もいる、ということが、楽山を通して分かるわけです。
 
肯定的な文言が、ことごとく世辞や嘘や芝居であるような偽善者が、神に受け入れられることは決してないことが、聖書を読めば、キリストの言葉を知れば、ふつう、分かるのです。
 
楽山は、人間性のない乾燥麻薬のような害毒だから、反省も成長も後悔もしないでいられるのです。凝固した人格が、人格を失ってゆくプロセスが、楽山を通して表れています。
 
このリスクは、神の裁きが下るまでは、人間が、自分の自由意志で、回避するしかないのです。それまでの間、楽山は、束の間の全能感に浸ることになるでしょう。
 

だからこそ心にある思いをそのまま口に出し、自分のありのままの姿をさらけ出せるのであり、神はそのことをすべてご存知だということである。

 
このことを信じている楽山なら、今までの、そして、今回の、嘘と偽善と自己中、ましてや、霊が分かるっぽい慢心に至ることはなかったわけです。
 
ここに至っても、あるいは、ここに至るほどに、楽山の言を、楽山自身の言が否定している、ということに、全然、気づかない楽山であります。
 

この辺りの機微を解せぬ、頭がかたい人は、誰かが不敬発言をしたなら、それだけでもって怒り、裁き、受け入れを拒否するけれども、真の神はそんなものではなく、もっと深く包容力があるということ。

 
楽山の言は、信仰を求める心からの不敬発言ではなく、神と人を騙そうとする偽善の反信仰発言です。こういうことを平気で言ってくるのは、聖書のキリストの言葉を、楽山が、まるで受け取っていないことの証拠です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
23:27
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
23:28
このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
 (マタイ23:27-28、新約聖書
 

こういう流れをリアルに感じることができるかどうかは、人によるのだろうけれども、自分はこれを現実以上にリアルに感じる性質ではある。

 
今になって、何を自慢しているのでしょう。しかも、"現実以上に" リアルに感じる、と言っているのは、自分が霊能者だと、自慢しているのです。病巣が、むき出しになってきました。
 

即物的に考えれば、こういうどこまでも甘い神をリアルに感じるのは、自分の幼少時の親子関係や、他人に甘い自分の姿を投影しているだけにすぎないのだろうが、自分には、何かというとすぐに怒り、裁く厳格でいかめしい神は想像できず、こういう大甘な神しか考えられないのだから仕方ない。

 
楽山の幼少時代は知りませんが、他人に甘い自分というのは、自身のボンヤリ言語にかこつけて、またしても自慢、今度は、やさしさ自慢と自己満悦であります。楽山は、とても陰険な人です。
 
このように、発言が、いちいち自慢ベースで語られるのが、病原ナルシストの特徴です。シャロームも同様でした。意識しなくても自慢してしまうようになってしまうのでしょう。
 
「大甘な神しか考えられない」・・だから、キリスト者ではなく、中立でもなく、偽善を生業(なりわい)とする偽善の反キリスト、宗教詐欺師なのです。また、証拠と言ってよいでしょう。
 

羽仁もと子の著作は、まだ全然といっていいほど読んだことはないのだけれども、俄然、興味がわいてきた。羽仁もと子が信じている神は一体どんな神なのだろう。この「ヨブの信仰」からすると、自分の感じている神と近いところがある気もするけれどもどうかな。ちがうかな。

 
引用元のことは知りません。しかし、楽山が、興味を持つと、ろくなことはないでしょう。楽山の感じている神と近いと言われることは、最大の侮辱だからです。
 

本書について検索してみたら、二種あるようだ。自分は新版で読んだが、こうなると文語体の方もどんなものだか見てみたくなるなあ。

 
楽山の聖書や書物の誤読と曲解については、今までも書いてきました。それに、何の弁明もしないまま、文語体の方も・・見てみたくなるなあ、などと、これもボンヤリ言語ですが、恥ずかしげもなく書いてくるところなど、次々に、自らの偽善性を、自ら証明している楽山です。
 
優しさと親しみと冷静を装う楽山の、今回の記事も、「なるなあ」排泄も、前の「言えなくもない」も、ボンヤリ言語であります。
 
はっきりと物が言えないくせに、前の記事で、他者の言葉を引用して「キレる高齢者、暴走老人」などと当てつけてくる楽山の、どこが中庸でしょう、どこが中立でしょう、どこが柔和でしょう、どこが弱いでしょう。楽山にあるのは、高慢と、無反省と、自己中の、厚顔無恥だけなのです。
 
 
(2020年06月17日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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