ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

 楽山の因果応報(2)

 
  楽山の因果応報(2)
 
 因果応報についての対話 2
 2020年06月21日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25245729.html
 
 
改めて、この文章において、信者も、老人も、楽山であることを忘れないでください。だから、派手に背いているのも楽山であり、諭しているのも楽山なのです。
 
この、おかしな前提を設定できるのは、何でも自分の言いように細工してきたし、細工できると思っている楽山ならではのことなのです。
 
決して、楽山の独り芝居の罠に引っかからないように願います。楽山は、反省しているのではありません。総ては、楽山の自己正当化に沿うように書かれている詭弁であります。
 

*因果応報と倫理
老人 「あなた方が言う因果応報というのは、大雑把に言えば、善いことをしたら天国に行き、悪いことをしたら地獄に堕ちるというものだろう」
信者 「まあ、そうですね」
老人 「言い方をかえれば、天国に行きたかったら善いことをしなさい、地獄に堕ちたくなかったら悪いことをしてはいけませんということだろう」

 
念のために申し上げますが、善いことをしたら天国、悪いことをしたら地獄、という考え方を、キリスト教とキリスト信仰はしていません。善悪は、信仰の結果であって、条件ではないことを、最近も書いたばかりです。
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12605212062.html
 

信者 「……」
老人 「ようするに、因果応報というものは、『〇〇ならば、~しなさい』というところに行き着くものだろう。天国と地獄という飴と鞭によって、人を動かそうとしている」
信者 「それのどこか悪いんですか」
老人 「善のために善を為すのではなく、天国のために善を為す。悪を厭うために悪を避けるのではなく、地獄を厭うために悪を避ける。こういう判断は、はたして倫理的と言えるかどうか、私には疑問だ」

 
私が、善悪が信仰の条件ではなく結果と言う理由は、ここで楽山が、善悪について書いている途中で善悪の倫理を根拠に持ち出してくるという本末転倒ではなく、また、人情や同情心でもなく、もっと冷静な節操として、人には、善悪を正確に判断できる能力がない、ということです。
 

信者 「そんなのは些末なことにすぎません。ようするにあなたは因果応報という真理にケチをつけたいだけでしょう。あなたがどんなにケチをつけたところで、因果応報はびくともしません。善を為せば天国に行き、悪を為せば地獄に堕ちます。善を為すにしても、悪を為すにしても、自分がしたことは、まわりまわって自分に戻って来るのです。これが真理です。真実なんです。私はあなたなんかより因果応報を信じます」
老人 「あなたが因果応報を信じ、そこに何ら不浄なものを感じていないらしいことについて、私は何も言おうとは思わない。ああしろ、こうしろと指図する気はない。そこは安心してほしい」
信者 「なんだか、上から目線で、嫌味のある言い方ですね」
老人 「そうかな」

 
自分で、上から目線と言う言葉を使っています。あくどいことです。私が、今まで、何度も、シャロームと楽山に、上から見下ろす態度、高慢と慢心、などという言葉で、指摘し、当てはめてきたことです。
 
楽山が、もう一人の楽山自身に言わせて、そうかな、と疑問符をつける楽山の詐欺的詭弁であり、嫌らしい作為の流れです。自分を戒めたくない者の、言い逃れの特徴が出ている、と言ってよいでしょう。
 

信者 「そうです。いっておきますけど、あなたが因果応報を認めないのは、結局のところ、何の努力もせずに、いい思いをしたいからではないですか」
老人 「うーん。何を言っているのかよく分からないな。もう少し説明してくれないかな」
信者 「因果応報にしろ、カルマにしろ、その本質は努力を尊ぶということなんです。因果応報という法則があるからこそ、正しくあろうと努力すれば、その努力は報われるんです。善に努めた者は相応の見返りがあるのです。一方、なにも努力しない者は、なにも得ることはないんです。悪を犯した者は相応の報いを受けるんです」
老人 「それで?」
信者 「あなたは、何の努力もせずに果実だけを得たいんです。過ちを犯してもその償いをする気がないんです。だから因果応報を嫌うんです」
老人 「うーん。その件についてはさっきも触れたけれども、私は労せずして果実を得ようとしているのではないんだ。果実を目的にしたくないから因果応報には距離をおいているんだ」
信者 「また詭弁がはじまりましたね」
老人 「天国に行きたいなら善を行いなさいというように、果実を目的とした善行は善行とは言えないし、そういうことを助長する因果応報という考え方には問題があるのではないかというのは、実にシンプルな考え方だと思うのだが、きみにはこれが詭弁に見えるのかな」
信者 「はい、詭弁ですね。自分の心得違いを正当化しようとしているだけです」

 
ここだけの理路に集中しすぎないようにしてください。楽山の白々しさが、その流れに、表れているからです。楽山が楽山と口喧嘩をしているのです。わざとらしいことです。
 
どうも、このシリーズでは、混乱した内容にして、読者を混乱させたいという意図があるような気がします。それで、正邪の判断を鈍らせたいのでしょうか。
 
だから、このことから、楽山が、絶望的な疲労を与えるだけの人である、ということが推論できるのです。巻き込まれることなく、楽山という愚かな策士の特徴を、長い文脈から、俯瞰(ふかん)する視線が必要になります。
 
凝った芝居の演出をしても、大反省が必要な、長きにわたる嘘と詭弁について、反省する気のない楽山の、いかにも、ナルシストの、気取った細工は、これまた、誠意のない、恣意の詭弁となってゆきます。この作為が、楽山が自ら、"反省する" と言った言葉の信頼性を無にしてきたのです。
 
悪意の履歴は、言葉を蝕(むしば)んでゆきます。言葉を、悪意でいい加減に使った人の言において、死語にしてゆくのです。言葉を甘く見てはいけません。"狼と少年" の話と似ています。
 
なお、人間が語る因果応報が真実でない、因果応報を持って善悪は語れない、というのは、不完全な人間には、因果関係を正確に判別し確定する能力がない、ということでしょう。
 

*因果応報と宗教性
老人 「ところで、きみにとっての因果応報というのは、一体何なんだね?」
信者 「因果応報は、真理であり、法です」
老人 「因果応報は絶対であり、それを超える存在はないということだろうか」
信者 「そうです。因果応報は、真理であり、法であり、さらには仏でもあります」
老人 「なるほどそうか。私の場合は、因果応報という法則があるとすれば、それを超える存在もあるかもしれないと考えるね」
信者 「また詭弁がはじまりましたね」
老人 「そうかもしれないね。でもまあ話を始めたからには、最後まで話させてもらうことにしよう。まず私は、もし絶対者というような存在があるとしたら、それは因果応報を超えた存在であり、その一存によって因果応報を…もし仮に因果応報という法則が存在したとしたならば…簡単にひっくり返せるだろうと思うのだ。もし絶対者が存在したならば、因果応報という法則に束縛されることはないだろう」

 
楽山の詭弁です。因果応報、真理、絶対、いずれも、厳密性を考えた途端に、人間の手に負えないことです。人間は、神聖の持つ完全ではなく、成長する不完全だからです。その成長を怠けて、揶揄に生きているのが楽山です。
 
つまり、信仰者は、完全なる神の正しさから考えたり言ったりしていると思ってはいけないということなのです。神聖は、人が推測はしても、確定してはいけないところです。そこを勘違いしている人は、結構、多いような気がします。
 
信仰者は、推測によって判断して行動している自覚を持つべきです。ゆえに、しばしば、祈りによって正直に告白し、じっくり反省することが必要になるのです。
 
またしても、楽山は、概念把握も出来ないくせに、因果応報を超える、という気安い言い方をしています。また、因果応報の法則と言い、簡単にひっくり返せるだろうと言い、それを、絶対者に結び付けて、自己顕示しています。これが、字面だけの概念把握からの破れた蜘蛛の巣のような自己愛の経過と結果なのです。
 
楽山に結び付けられるような絶対者ではないのです。絶対者は、因果応報よりも、楽山を、先にひっくり返すでしょう。
 
絶対者を字面で言い得た気分でいる楽山が、実際は、神について語るのに必要なものを、全く持っていないことが表れています。
 

信者 「今度は詭弁を超越したトンデモ話がはじまりましたね」
老人 「きみは因果応報を絶対だと信じているからそういう発想になるのだろうけれども、私は因果応報は絶対ではなく、それを超えた存在があるかもしれないと思うから、上述のように考えるんだよ」
信者 「いやいや、もし仮に、あなたのいう絶対者なるものが存在したとしても、因果応報をひっくり返すなんてするわけがないです」
老人 「絶対者は、そんな不公平なことをするわけがないと…?」
信者 「そうです。そんなことをするわけがありません」
老人 「でも、ヨブ記を読めば、ヨブは善人であったからこそ、あらゆる災厄にみまわれたように思えるが」
信者 「それは読解に問題があるのでしょう。あなたの解釈が間違っているんです」

 
楽山は、「ヨブは善人であったからこそ、あらゆる災厄にみまわれた」と言っています。神が、楽山と同じような、サディストであると言いたいのでしょうか。
 
どんな人生にも苦難の時はあるでしょう。その最たるものを、ヨブと神の関係として、つまり、人と神の関係として表したのが、ヨブ記なのです。本末転倒の、字面の読み方しかできない楽山です。このことは、楽山が、ヨブ記を読む前に、既に、反キリストであることを示唆しています。
 

老人 「では、きみは、マタイによる福音書20章にある「ぶどう園の労働者」のたとえはどう思う?」
信者 「それはどんな話ですか」
老人 「ぶどう園の主人は、労働者を集めて作業をさせ、一日の仕事が終わった後、朝から働いた者、昼から働いた者、作業時間が終わる少し前から働いた者、みんなに一日分の賃金を支払ったという話だ」
信者 「労働者たちが働いた時間はそれぞれ違うのに、みんな同じ賃金を与えたのですか」
老人 「そうだ」
信者 「それはおかしいですね。そういう場合は、各人の労働時間に応じた賃金を支払うのが当たり前です」
老人 「でもこのたとえ話からすると、ぶどう園の主人…つまり絶対者である神は、そんな風には考えないようだ」
信者 「……」
老人 「私には、因果応報が事実であるかどうか、絶対者が存在するかどうか、どちらについても確実なことは分からない。でももし絶対者が存在したなら、因果応報だとか、原因と結果の法則だとか、作用反作用の法則だとか、そういったものはあまりアテにはできないと思うね。なぜなら絶対者は、そのような法則には束縛されることなく、自由に判断を下すだろうから」

 
聖句を、まるで、神が、因果応報など構わず、つまり理由もなく、自由勝手に決めていると言っているようです。いつも上から見下ろしているために、深いところを読み取る、ということが、できなくなっている楽山です。そして、聖書のアラばかり探して、恥をさらしています。
 
ブドウ園のたとえについて
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
20:11-12
もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
20:13
そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
20:14-15
自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
20:16
このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。
 (マタイ20:11-16、新約聖書
 
 (ネットより)
ぶどう摘みは雨期の始まる前に終えなければいけないので、緊急を要する仕事であったのでしょう。
だから人手が必要なのですが、そのためにぶどう園の主人は何回も広場に出向いて労働者を集めていました。なお、当時の日雇い労働者の一日の標準の賃金が一デナリオンということです。
エスはこの「気前のよい雇い主」をたとえとして、神の恩恵を語っておられるのだと思うのです。父なる神は、この雇い主のように、働きに応じて報酬を与えるのではなく、働きの多少にかかわらず無条件に同じ祝福を与えられることが主眼ではないでしょうか。。
神の支配(神の国)とは、その人が何をしたからとか、何を持っているからではなく、誰でも無条件に恩恵の支配に与れるところだと教えておられるのだと思うのです。
http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html
 
雇い主は、神のことです。この聖句は、キリストが、人々に語った、たとえ話です。お金に喩えていますが、神の恵みである救いのことを、譬えで、語っているわけです。
 
救いを与えるのだから、救いに多い少ないはない、ということを言っています。神が、能力や、仕事量で、差別するのではなく、信仰のみによって救いを与えるということ、即ち、この聖句は、信仰義認という救いの本質を語っているとも言えるでしょう。
 
聖句「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」という逆説的な教えは、
聖句「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイ23:12)と同様の意味であり、高ぶりが、大きな罪であることを伝えて、戒めています。
 
つまり、自己中は、心がバラバラになり、過剰な自己愛は、憎まれるだけになり、無反省は、きびしく責められる結果になり、無視は、逆に人格ごと無視されて相手にされなくなる、というようなことでもあるわけです。
 
楽山という反キリストは、因果応報を字面だけ杓子定規に捉えて、理解できない不平等と言って、神が、自由に判断していると言っていますが、要するに、神は勝手にするんだ、神は勝手な奴だ、という印象を吹き込もうとしているのでしょう。
 
神は不平等だ、と言う不平や疑問は、ドラマや映画などでも聞いた覚えがあります。現象として、この地上では、不平等としか思えないことが多々あります。しかし、それでも、キリストの絆された人々は、キリストを慕い続けるのです。
 
それは、キリストが、最も不平等な、死、という重荷を負われたからです。その命を惜しまない愛と共感に支えられて、信仰者は生きるのです。
 
いくら、楽山のような嘘吐きが、いい加減な胡散臭い小理屈で、いちゃもんをつけても、楽山という反キリストの、ケチで腐った根性が、ぶくぶく浮き出してくるだけなのです。
 

*おめでたい人
信者 「やはり、あなたは自己中心的ですね。楽して得しようとしているんじゃないですか」
老人 「私の考え方は、もう何度も説明しているとおり、なんらかの果実を目的として善を為すのではなく、ただ善のために善を為そう、その結果、絶対者がどのような判定を下そうが構わない、黙って従うのみだ、ということなんだが、この考え方はそんなに自己中心的だろうか」

 
自己中心、というより、傲慢です。善のために善を為す、という正義の味方かヒーローかというような、きれいごとを言いながら、楽山のしてきたことは、嘘を吐く、自己正当化、自己顕示欲で自慢する、無反省、独り芝居、反キリストの陰謀、ということですから、むしろ、現実の劣悪な楽山との違いの対照が際立ってくるだけなのです。
 
こういうところにも、楽山の、教祖願望~教祖顔貌とでもいうべき、鼻を上向きにヒクヒクさせているような、自尊過大が表れているのです。まだまだ、楽山の反キリストとヒーロー願望の思い上がりは、底知れないものがあると感じます。
 
楽山日記は、読書感想日記どころではないのです。精神詐欺師のサイトと言ってよいと思います。
 

信者 「あなたは、神は、自分が何を為そうか関係なしに、ありのままの自分をそのまま受け入れてくれるとか何とか書いてたでしょう」
老人 「そうだね。私にはなんだかんだ言っても、神に対する信頼がある」

 
楽山には、神に対する信頼など、欠片もありません。
 

信者 「神を信頼するって、なんだか偉そうな言い草ですね」
老人 「まあそれは言葉のあやというものだね」
信者 「誤魔化さないでください。それであなたは、自己都合信仰であることを認めるのですか」
老人 「それより、きみは、ありのままの自分を受け入れられた経験はあるのだろうか」
信者 「いま話しているのは私のことではありません。あなたのことです」
老人 「答えたくないなら答えなくていいが、私の場合のは幸いにして、そういう経験があるのだよ。たとえば私は幼少時に、親に受け入れてもらうために何かしなくてはいけないということを考えた覚えがないんだ。親は、ありのままの自分を受け入れてくれるのが当たり前すぎて、そんなことで悩んだことはなかった。そのせいか今でも、その手の気苦労はあまり感じないんだ。神に受け入れられるために何かをしなければならないというような強迫観念は浮かんでこない。この身このままで受け入れられていると感じるんだ」

 
楽山は、このように信仰を肯定するかのような白々しいことも、平気で書いてくる人です。自分の恣意によって、言葉だけ、キリスト教寄りだったり、反キリストだったりしますが、むしろ、この、いい加減さが、逆に、明らかに、キリストと神を、平気で悪用するような、本質的な、反キリストであることを示しているのです。
 

信者 「おめでたい人ですね」
老人 「そうだね。それは否定できない」
信者 「では、あなたがご自分のおめでたさを認めたところで、お開きとしましょうか。もういい加減、あなたの相手をするのは嫌になってきました。なんだかいくら話したって無駄みたいです」
老人 「そうかい」
信者 「そうですよ」
老人 「それなら、ここらでおしまいにするのがよさそうだね」
信者 「ええそうしましょう。でも言っておきますけど、今回はこれで終わりでも、次があるかないかはあなた次第ですからね。またあなたがおかしなことを書いていたら、容赦なく批判します。今回は最初なので手加減してあげましたが、次は本気を出しますからね」
老人 「ご随意に。あなたに神の恵みがありますように」
信者 「それはこっちの台詞です」
老人 「ありがとう。では、さようなら」

 
この記事では、対決姿勢が目立つ独り芝居ですが、それで、結局、楽山は何が言いたかったのでしょう。「容赦なく批判します」と言っている信者は、私に当てつけたのでしょうか。迷惑です。
 
老人は誰なのでしょう。これも、誰かへの当てつけでしょうか。いいえ、どちらも楽山なのです。本気などではないから、気の抜けた口喧嘩みたいに終わっています。
 
これを、まともに受け取らないでください。登場人物二人も、他の人物も、本も、聖書も、神も、キリストも、みな、楽山の、オモチャなのです。
 
本気で、宗教を語るような心性を、楽山は、ひとかけらも持っていません。わざとらしくて、しまらない記事で、楽山の、ごまかし方だけが、随所に出ていると思います。
 
楽山のオモチャも含めて、批判の資料となってゆきます。どんな策略が、どんな詭弁が、どんな誘導が、待っているか分からない楽山のサイトです。
 
1年以上、批判されたのに、何も受け取らず、今も、同じことを、ボンヤリ言語で、婉曲的な言い方で刷り込んでくる不感不応の執拗さが、反省と成長の無い証拠であり、異常である証拠であります。決して、近づいてはいけません。
 
 
(2020年06月26日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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(古い記事は載っていません)
 
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