ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の詭弁と正当化

 
  楽山の詭弁と正当化
 
 『実践 快老生活』渡部昇一
 2020年06月28日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25322747.html
 
 
今回は、楽山は、露骨に嘘を吐いてきます。しかも、著名人の名を借りる不遜もあらわになって、本当に、醜いさまが、バレバレになってきました。
 

*渡部節
佐藤優の対談本『読む力』で、渡部昇一が高評価されていたので、ひさしぶりに氏の本を読みたくなり、前々から読もうと思いつつも読めないでいた『実践 快老生活』を通読してみた。相変わらずの渡部節であり、超ど級の率直さがおもしろい。
たとえば今の時代は、孫子を持つ幸せだとか、結婚相手を選ぶ際に遺伝について考慮すべきということは、声を大にしては言い難いところがあるが、著者はそれをあけすけに語っている。こういうことができるのは著者の他には、石原慎太郎くらいしかいないのではなかろうか。

 
あけすけに言うのと、嘘を吐き、詭弁を弄し、有名人の名を利用して飾り、理路も情緒もお構いなく書くのは、全く違うんだな・・ということを、楽山を通して実感します。著名人さえも、上から見下ろして楽山が批評しているようなのは、実に見苦しいです。
 

*穏当な意見
とはいえ本書にはそれほど波風はたたないだろう穏当な話も多く語られている。健康のためには精神面だけでなく、栄養など唯物論的な見地からも注意すべきだとか、年をとっても詩歌などを暗唱して記憶力を磨くことができるだとか、一般の健康論をそのまま実行すればよいというわけでなく、自分の体調によって調整することが大切だとか、大方の人がなるほどと思える話もある。

 
通念的な理想の老後の話ですが、楽山は、精神面が壊れ、栄養を語って唯物論と言い、栄養を摂取する人間を語れません。気に入らないことをことごとく無視している楽山の記憶は嘘以外何もないのではないかと思われます。そして、自分の体調だけでなく、心の調整が狂っているために、大方の人を詭弁で陥れることだけに専念しているようです。
 

論語の「七十にして心の欲するところに従って矩をこえず」という言葉についての解釈もおもしろい。これは悟りの境地というよりも、加齢によって心身が衰えてくると、「矩をこえようと思っても、もうこえられない」(p.18)というものであり、孔子はそのことを、率直、正直に語ったのだろうという。たしかに怪力乱神を語らずという立場からすると、これは精神的神秘的な境地のことではなく、著者の言う通りのようでもある。

 
楽山は、恐らくもう長い間、少なくとも一年余り、いかなる批判も無視して、自身の欲するところに従って、非常識なことばかり言ってきたのです。矩(のり)や法や徳は、楽山の欲せざるところなのでしょう。
 
ゆえに、楽山にとって幸いなことは、自分でブレーキをかけられないのなら、もはや、一日も早く、楽山の欲せざるところが、詭弁の記事を書けなくすることだけのようでもあります。
 
しかし、そこにおいて、自由と勝手を、正直と恣意を、ありのままと欲のままを、すっかり混同した楽山が、石を投げながら暴走し続けているのです。いい歳をして、大人げなく、へへん!、このやろう!、ちくしょう!、くらいは言っていそうです。
 
(ネットより)
怪力乱神を語らず(かいりょくらんしんをかたらず):
怪力乱神を語らずとは、君子は、道理にそむいたこと、理性で説明がつかないようなものについては語らないものだということ。また、怪しげなこと、不確かなことは口にしないという意。
http://kotowaza-allguide.com/ka/kairyokuranshinwokatarazu.html
 
楽山は、道に背いたことだけを、理性で説明がつかないようなことだけを、知ったかぶりで語ってきました。また、怪しげな、霊が分かるっぽい話や、不確かな、どっちつかずの、ボンヤリ言語を弄してきたのです。
 
そうして、今回も、楽山の記事が、楽山を斬っている有り様です。
 

*知的正直
正直といえば、著者は知的正直について、「自分がおもしろいかどうかを一つの絶対的基準として読書を愛好してきた」(p.57)と語っている。これは漱石の「私の個人主義」における自己本位に通じる考え方であろうし、自分も大いに影響を受けた考え方だ。

 
正直ということに、知性が必要でしょうか。無視しない正直さだけがあればよいのに、楽山は、他者無視と、我欲の利己主義により、自己中だけを通して、大いに悪と偽善をまき散らしているのです。
 
楽山は、個人主義を、我欲の恣意と、混同しています。
 

読書に限らず、ものごと全般について正直な感想を述べると、傲慢だとか、生意気だとか言われて責められることもあるが、他人の機嫌をとるために自分の感想を偽ったところで仕方がないし、自分は自分という独立心を持ち、権威に盲従することなく、正直な思いを忘れないのは本当に大切なことだと思う。

 
我執により我欲だけで言動している者は、楽山のように、傲慢になります。他人の機嫌を取るのではなく、他人の意見を無視しているのが楽山です。また、自己正当化の詭弁を弄しています。
 
自分は自分という独立心は、正直で率直に物が言える人物に見られるもので、悍ましいことに、楽山は、独立心ではなく他者を無視して妄想的唯我独尊に生きていて、自ら権威者のごとく傲慢であり、嘘ばかりついて、詭弁ばかり弄して、正直の欠片もないのです。
 
今度は、独立心を、我欲・我執の自己中と、混同しています。
 

*簡単に天国に行ける宗教
著者は宗教についても随分正直なようで、「宗教として信じるのなら、私はどちらかといえば簡単に天国に行けるものを信仰したい」(p.227)と語っている。これはあまりに正直すぎて笑ってしまうけれども、実際、真理とはシンプルなものだろうとは思う。

 
楽山の言う、簡単に天国に行ける宗教は、楽山のように、都合の悪いことを、ことごとく他人のせいにして、どんなに卑怯なことをしても、ヘラヘラ笑ってゆけるような天国であり、楽山の妄想の中にしか存在しないところなのです。
 
今度は、シンプルな信仰を、何をやらかしても天国に行ける身勝手と、混同しています。
 

たとえば、三木野吉は真理については単純、明快、矛盾なしなものだと定義づけているし、晩年の釈迦は教団の内外の区別なしに法を説き、握り拳の中には何も隠していないと語ったという。丹波哲郎はスピリチュアルな教えを、「あかるく、すなおに、あたたかく」という、この上なくシンプルな教えにまとめているし、『近思録』には道というものは細く険しいものではなく、沢山の人が通ることができる大道だとしていたかと思う。

 
楽山の思考は、隠し事で出来ていると言っても過言ではありません。単純に悪、明快に暴露された詭弁、矛盾だらけで、いったいどうやって、スピリチュアルを語れるというのでしょう。凶悪な楽山は、今も、白々しい嘘をを吐いています。それで、言いえたと思う病質者なのです。
 
陰気臭くて、素直さの皆無の根性で、とても冷淡で、温もりも潤いもない人、それが楽山です。だから、安易な道ばかり、求めては、裏切ってきたのでしょう。本当に底の浅い軽薄な、だますことだけで長らえている人のようです。
 
「あかるく、すなおに、あたたかく」というのを、"何事もなかったかのようにヘラヘラ笑って、我欲だけに素直に、悪意だけを熱して" 生きることと、混同しています。
 

こうしてみると、まっとうな宗教は救いについて複雑な条件をつけたり、凡人には分からない神秘について語ったりはしないだろうし、著者の宗教選びの基準はそうまちがっていないように思える。

 
真っ当な宗教は、伝道者に、霊が分かるっぽいなどということを要求することはありませんし、ふつうの感受性があればよいのです。また、自己顕示欲だけの者には、縁がありません。
 
また、神秘は神のものであります。人は人の節操を考えるべきです。ましてや、神を信じ仰ぐことは、神に対して、自身の下等な屁理屈を当てはめて、机上でもてあそぶような楽山には、これまた、全く縁のないものです。
 

ちなみに著者の弁によれば、カトリックの救いは次のようなものらしい。「カトリックの場合は、ごく単純化していってしまえば、終油の秘跡サクラメント)を受けていれば地獄には絶対に行かないという教えである。だから私は、自分が死んだあとには確実に天国に行くと信じている」(p.228)。こういうシンプルな信仰を持てる著者は幸せだと思う。

 
このような儀式だけで天国に行けるという信仰は、自尊過大の楽山にとって、垂涎の的であり、また悪意ある揶揄の的でもあります。
 
楽山は、シンプルを、安易と、履き違えています。
 
人間性の底が浅いと、こうなります。ゆえに、楽山が、救いなど、本気で求めていないことが分かってくるのです。
 

*勇気と正直
本書を読んで改めて思ったことだが、批判をおそれず、真実と信じることを語るという渡部昇一の勇気ある正直さは本当に尊敬する。

 
批判を受け取らず、嘘を吐き、詭弁を弄しているのが、楽山です。このように、楽山は、自己正当化のために、本を漁っては書いてきますが、いちいち、的を外して、だんだん、失敗して滑りまくっているピエロとなってゆくのです。涙の代わりに、冷や汗を散らして、迷惑なだけの楽山であります。
 
批判を恐れないことと、批判を無視することを、混同して賛同しています。
 
このように、楽山の理路は、ボロボロなのです。これらの、多くの混同は、詭弁でもあり、恐らく、楽山の作為だろうと思われます。
 

渡部昇一の本のおもしろさは、その知識と発想にあると思っていたけれども、それは表面的なことにすぎず、その底流にある勇気と正直さこそがその主因なのだろう。渡部昇一のおもしろさは、勇気ある正直さによって支えられている。

 
楽山の記事の低劣さは、その知識不足の貧相さにあるだけでなく、中身が表面的であり、底流にある怒気と欺瞞こそがその悪意の主因なのでしょう。楽山の卑怯さは、これからも続きそうな、臆病者の言い逃れによって続いている地獄であります。
 

この見立てが当たりか外れかは分からないが、本書を読んで自分はそのように思った次第である。自分は生まれつき根がどこまでも臆病にできているし、渡部昇一とは考えが異なるところもあるが、この勇気と正直さは見習いたいと思う。

 
当たりか外れか分からないでも書いてくる楽山です。そして、反省しないのです。
 
いつの見立ても的を外れていて、何を読んでも自己正当化しか考えない楽山であります。楽山は、生まれつきかどうか知らないが、厚顔無恥であり、今まで一貫して、勇気と正直さに真っ向から背いてきたのです。
 
楽山は、どういうわけか、勇気と正直さの代わりに、怒気と嘘を覚えたようです。よく読めば、実に、その悪意を湛(たた)えているのが、楽山日記なのです。
 
また、妄想的に勘違いして、見倣いたいと言っているのは、恐怖としか言いようがありません。しかしながら、今回のように、自己正当化が見え見えのようになってきたのは、人格破壊が進んで、ネズミのようなドコモだましの嘘吐きチェーンメッセージの根性を、隠しようもなくなってきたのかもしれません。
 
楽山の自己正当化は、だんだん下等になってきて、著名人の言葉さえ、悪用して、自己満悦しています。言葉を、ことごとく勘違い、または、わざと曲げて、言い逃れたつもりで、もはや、内容がありません。殆ど自滅を暴露しています。
 
こういう者が、実際、世の中にいるのです。カルトには、特に多いと思います。しかも、シャロームもそうだったように、決して、珍しくはないのです。良い言葉を、良い意味にだけ受け取る社交の人々は、簡単に、だまされてゆくでしょう。
 
楽山の卑怯さや詭弁や嘘が、今回、実に、分かりやすいものになって表れています。どうか、楽山には、決して、関わらず、近づかないようにしてください。
 
 
(2020年07月03日)
 
 
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