ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の非人間性

 
  楽山の非人間性
 
 『モラル・アニマル(下)』ロバート・ライト著
 楽山日記(LD) 2020年07月13日
 http://mn266z.blog.jp/archives/25501448.html
 
 
楽山の、浅はかな狙いと、見え見えの詭弁と、強烈な人間嫌いが表れています。
 
今回、動物の愛?を説いて、人間の愛よりも優先させています。楽山には、底知れない憎しみがあるようです。楽山の、人間のモラルを破壊したい願望~衝動が表れています。こういう考え方なら、道理で、反キリストであるはずだ、と思います。
 
いつもながら、とても幼稚な楽山の記事です。いくら知ったかぶりで小難しい用語を並べても、不純な動機からは、単純に不快な腐敗臭しか漂っては来ないのです。恥ずかしさを覚えない、ということが招く大きな災いなのでしょう。
 

上巻では男女の心理の相違について語られていたが、本巻ではいよいよ良心、モラルについて考察し、それらは進化の過程で形成されたものであり、それには「しっぺ返し」という生存戦略が深く関わっていることが明らかにされている。「親切な行為には親切な行為で返す」(p.42)という戦略は、はじめに親族内で、次にはもっと広い範囲で広まっていったと。
自分は利他的行為の理由については、血縁淘汰の話は理解できても、それより広い範囲を対象にした場合は、どうしても群淘汰的な考え方をしてしまっていたのではあるが、「しっぺ返し」戦略の話を読んでおぼろげながらも群淘汰は間違いだということが了解出来た。

 
進化の仮説を、了解できた、というほどに、信仰している楽山です。おぼろげながら、説明できるくらいまで、考えるべきでもあるでしょうに、説明もなく、書いていることは、楽山の自慢したい性根が独り歩きしているということです。
 
こうやって、人間よりも、動物の本能ではなく、動物のモラル?に興味をいだくことが、楽山の、人間の心を否定した凶暴性を表しています。しかも、このような話で、宗教を否定したつもりでいるのです。
 
つまり、楽山は、人間について、感じたり、考えたりすることが出来ないので、動物の世界に逃げて、箔をつけるために、進化論を振り回し、対象となる動物をもって、人間としての営みである宗教を否定したいだけなのです。凄まじい詭弁であります。
 
知性と感性を持ち得ないために、知性と感性の持ち主である人間を否定したい、という、楽山の姿が、悪意として表れてきました。みすぼらしい楽山の逃避が、ここにあります。
 

恥ずかしながら自分の内面を見た場合、利他的行為は血縁者に対しては自分に近い相手ほど何らの見返りがなくとも続けられるが、そうでない者に対してはどうしてもそんな風にはできそうもない。自分の利他的行為に対して見返りは望まない、望んではいけないと思おうとしても、他人に向けたそれに対しては何の感謝も、お礼も、見返りもない場合は単発では可能でも、長期間にわたって続けるのはどうしたって無理だ。中途で嫌になって止めてしまうだろう。この点、利他的行為の根っ子には「しっぺ返し」戦略があるというのはリアリティがあるし、事実らしく感じられる。おそらくは他の人々もそうではあるまいか。

 
(ネットより)
しっぺ返し戦略では、
1手目は協調を選択する。
2手目以降のn手目は、(n-1)手目に相手が出した手と同じ手を選択する。
例えば2手目の場合、1手目に相手が協調を選択していたら協調を選択し、1手目に相手が裏切りを選択していたら裏切りを選択する。
しっぺ返し戦略について初めて言及されたものは1965年発表のアナトール・ラパポートとAlbert M. Chammahによる「Prisoner's dilemma: a study in conflict and cooperation」(日本語訳版『囚人のジレンマ―紛争と協力に関する心理学的研究』(1983年、啓明社))においてである。この中ではSIMPLETON(バカ、マヌケの意)と名付けられていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%81%A3%E3%81%BA%E8%BF%94%E3%81%97%E6%88%A6%E7%95%A5
 
楽山は、混乱させようとしているだけだと思います。人間関係を語れない楽山は、進化論を語ることで、逃避して、そこから、無理やり、人間を語って、無理やり、人間をおとしめ、無理やり、宗教を否定したいだけなのです。
 
進化論を理解しなくても、人間は、良心を持ちうるのは当然であります。楽山の、この記事も、自己愛と、人間からの逃避、その正当化、という、楽山の、悪あがきなのでしょう。
 
本道を歩けないものだから、脇道から、くどくど悪口を言っている楽山が、分かる、という類の言葉を吐くたびに、みじめになる自分を見ないことで、ますます、いじけて、折れ曲がってきたのでしょう。今回の楽山の記事のテーマは、楽山の意志の裏返しとして、結局、楽山の、みすぼらしさだけを、浮き彫りにしています。
 

ちなみに著者はこういう相互利他性について、人以外にも、チスイコウモリやチンパンジーの例を挙げて説明している。チスイコウモリは、満腹している個体は腹の中の物を吐き出して飢えている個体に分け与え、あとで両者の立場が逆転したときには、前のお返しとして今度は逆に食べ物を分けてもらうのだという。

 
動物のことばかり言及しています。動物を褒めています。楽山は、人間が嫌いなのです。それで、人間についても、動物と同列で語ろうという的外れの欲望だけが見えてきます。
 

またチンパンジーは仲間同士で協力して敵と戦ったり、「愛撫をして元気づける」(p.46)こともあり、さらには裏切りにたいしては憤慨した様子を見せたりもするという。こうしてみると利他的行為は人に限定されるものではなく、人と動物とでは程度の差はあっても連続しているということは否定できないだろう。

 
楽山は、動物が、愛したり、憤慨したり・・がある、というより、そう見える、ということに注目して、人と動物が連続しているなどと言い、これで、動物を語れば、人間も語れる、という情けない傲慢を表しているだけなのです。
 
人を、人間を、人間性を、語れない楽山という存在が、動物に注目する姿であり、文章の詭弁的な解釈と解説をもって、浮き彫りになるだけなのです。何も、良いことを伝え得ない楽山の宿命的言説であります。誰にも認めてもらえないヒト型動物の自画自賛です。
 

ウォレスは人の肉体については進化論で説明できても、その精神についてはそれはできず、神によって吹き込まれたものだと考えたらしいが、ことここに至っては人の肉体だけでなく、精神についても進化によってできたという主張を覆すのは難しかろうと思う。

 
楽山は、このような、恐ろしい結論を用意していました。人の精神について、何も語れない楽山の、自慰的な湯治が、この記事です。
 
これで、何かを語ったつもりになるのだから、楽山は、人間というより、ヒト型動物に堕ちているのでしょう。楽山の言について、詭弁による自己正当化と美化の意図以外、何もないことが、楽山自身によって、証明されているのです。
 

著者は註の部分で「おそらくいつの日か進化心理学者は、私たちが「良心」と呼ぶつかみどころのないものが、実はさまざまな機能を果たすためにデザインされたひとつひとつの適応からできあがっていると証明してみせるだろう」(p.272)と大胆なことを書いているが、これが本当に現実になるかどうかはともかくとして、今後ますます良心が存在するということの神秘性、宗教性は失われて行くと考えて間違いはなさそうだ。

 
つまり、楽山は、私が、良心と呼んでいるもの、ひいては、信仰と呼んでいるものについて、否定したいということでしょう。その手段として、呆れたことに、動物を持ち出して、言い得たと思っているのです。哀れ、というより、みじめなほど、ひねくれてしまった楽山であります。
 
楽山の言は、自分は人間について何も語れないから、人間が憎い、と言っているに過ぎません。
 

もちろんこれは人に良心がある理由について神を持ち出さなくとも説明できるということであって、神は存在しないということまでは言えないのではあるが、ただ今後ますます神の領域は狭まってゆくということだけは確かではあろう。

 
人間は、神から与えられた良心によって、信仰を知ることが出来ると思っていますが、楽山は、良心がある理由を、進化論によって?説明しようというのでしょうか。何という的外れなのでしょう。
 
楽山によれば「今後ますます神の領域は狭まってゆくことだけは確か」なのだそうです。どこから、そんな結論が出てくるのでしょう。誰が、神の領域を狭くできるというのでしょう。
 
反キリスト全開で、神を対象物として、ゴタクを並べ、しかも、結果として、楽山の、人間性の欠如という悲惨だけが、詭弁の悪臭を伴って、明らかになっています。
 
楽山の、反人間、反信仰、反キリスト、反宗教、反社会性の獣性、といったことだけが、明らかになっている楽山の記事でした。妄想に浸って、独り、悦に入る、というのは、そんなに楽しいのでしょうか。悍(おぞ)ましい限りです。
 
 
近況?:
(心の形象化つまり詩のつもり)
 
 老醜
 
未熟なることの罪は
痴呆なることの誉れのように
表裏の旅路を恥辱とともに
繰り返し繰り返し
 
砂鉄を舐めた唾液でも
空欄を満たさないではおれない闇に
薔薇と痂皮の区別もつかぬ夕刻を待ちながら
好みの整頓を執拗に渇望し
乳呑み児の標本に
食い物の血を植えている
繰り返し繰り返し
 
 
(2020年07月14日)

(2020年07月15日、一部修正)
 
 
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